第19話:借り物競争
午後の部。最初の種目が借り物競争。
ルールは単純だ。走ってフィールド中央まで行き、裏返しに置かれたカードを取る。カードに書かれた「お題」に合うものを——物でも人でも——連れてきてゴールする。
まふゆの出走順は三番目。赤組の三走。
俺は応援席で見ている。隣に翔太。
「借り物競争ってさ、お題で全部決まるよな」
「だな。『赤いもの』とかならいいけど、『好きな人』とか出たらカオスだぞ」
「ラブコメじゃないんだから——」
第一走者がスタートした。お題:「眼鏡をかけている人」。走者は冬月を引っ張ってきた。冬月が「私は風紀巡回中です!」と叫びながらゴールした。
第二走者。お題:「帽子」。体育帽を被ってゴール。
第三走者。まふゆの番。
スタートラインに立った。銀色のポニーテールが風に揺れる。氷の女王の目。周囲から「朝凪さん、がんばれー!」という声援が飛ぶ。
ピストルの音。
まふゆが走る。速い。100メートルで一位を取った足だ。あっという間にフィールド中央に到着。
カードを取る。
裏返す。
まふゆが一瞬、固まった。
——何のお題だ。
まふゆがカードを見つめている。一秒。二秒。
そして、体の向きが変わった。
こちらを見た。
応援席の——俺を。
まっすぐに。迷いなく。
走り始めた。
フィールド中央から、応援席に向かって。
学年中の視線がまふゆに集まっている。他の走者はフィールド上で物や人を探しているのに、まふゆだけが応援席に向かって一直線に走っている。
「おい、朝凪さん、あっち行ってるぞ」「誰か探してる?」「応援席に用があるの?」
まふゆが応援席のフェンスの前で止まった。
俺の前に。
息を切らしている。汗が首筋を伝っている。目が真っ直ぐに俺を見ている。
「……湊」
「——お題、何だ」
まふゆがカードを差し出した。
白いカードに、太いマジックで書かれた文字。
**「大切な相棒」**
——。
「……来て」
まふゆの手が伸びた。
俺の手を掴んだ。冷たい指。でも、力強い。
応援席がどよめいた。学年中が見ている。「あの氷の女王が男の手を引いてる」「あれ夏目じゃない?」「相棒って——」
「朝凪、俺でいいのか」
「……いい。行く」
考える暇もなかった。
まふゆに手を引かれて、フェンスを飛び越えた。応援席からフィールドに飛び出した。
走る。
手を繋いだまま。
二人三脚じゃない。紐は結んでいない。でも、手が繋がっている。
まふゆの速さ。俺は必死について行く。まふゆの方が速い——いつもの二人三脚と同じだ。でも今日は紐がないから、まふゆはフルスピードだ。俺の手を引いて、全力で走っている。
フィールドの中央を横切る。ゴールテープが見える。
風が耳元を切り裂く。まふゆの銀色の髪が風にたなびく。握った手のひらが汗で滑りそうになる。まふゆの指が俺の指の間に入り込んで、しっかりと繋がった。
——恋人繋ぎだ。
いつからそうなった。分からない。走っている間に、普通の手繋ぎが恋人繋ぎに変わっていた。
ゴールテープ。
駆け抜けた。
歓声が爆発した。
「一位ーーー! 赤組第三走者、朝凪まふゆ選手、お題は『大切な相棒』——借り物は夏目湊くん! 一位ーーー!」
放送が叫んでいる。
学年中がざわめいている。
「朝凪さんの相棒って夏目かよ」「手繋いでるし」「あの二人ってそういう——」「いや幼馴染って噂は聞いたことあるけど」
ゴールの先で、まふゆと二人で立っている。
手が、まだ繋がったままだ。
まふゆの体が息で上下している。頬が真っ赤だ。汗が輝いている。
「……一位」
「一位だな」
「……湊で、よかった」
その声は、学校モードでも家モードでもなかった。
どちらでもない、まふゆそのものの声だった。
——手を離すタイミングを、どちらも見つけられなかった。
三秒。五秒。
まふゆが俺の手をそっと離した。指が一本ずつ解けていく。
離れた瞬間、手のひらに空気が入り込んだ。冷たい。まふゆの手がない分だけ、世界が冷たくなった。
テントのそばで、翔太が叫んでいた。
「お前らぁぁぁぁ!!」
喜んでいるのか呆れているのか分からない叫び。
「すげーよ! 一位! でもな! 手! 繋ぎすぎ!!」
「借り物競争だからだろ」
「借り物って手を繋がなくても連れてこれるだろーーー!!」
正論だ。冷静に考えれば、俺の腕を引っ張ってくるだけで良かった。手を繋ぐ必要はなかった。ましてや恋人繋ぎなんて——
「翔太、うるさい」
「うるさくねえよ! クラス全員見てたぞ! 学年全員見てた!!」
冬月が駆け寄ってきた。
顔が真っ赤だ。鼻を押さえている。
「ふ、不純異性交遊……!」
「借り物競争だぞ」
「手を繋いで走るのは——いえ、競技上の必然性が——しかし恋人繋ぎは——」
冬月の言葉が支離滅裂だ。風紀委員長のCPUがオーバーヒートしている。
「冬月委員長。借り物競争のルールに『手を繋いではいけない』とは書いてないだろ」
翔太が助け舟を出した。冬月に向かってニヤリと笑う。
「むしろ、相棒を『借りて』きたんだから、ルール通りだ」
冬月が言葉に詰まった。
「……ルール上は……確かに……でも風紀的には……」
「風紀的にセーフだ。体育祭の熱気の中での競技行為。以上」
「伊集院くんは黙っていてください!」
「はーい」
冬月がバインダーに何かを猛烈に書き殴っている。文字が震えている。尊さと風紀の間で魂が引き裂かれているのだろう。
まふゆは——いつの間にか俺の隣に戻っていた。
氷の女王モード。完璧な無表情。
ペットボトルの水を飲んでいる。
——なぜか、俺のペットボトルを。
「おい、それ俺の」
「……のどが渇いただけです」
氷の女王の声。
でも、俺のペットボトルのキャップを開けて、俺の飲みかけの水を飲んでいる。間接キス。
周囲がざわめいた。
「え、今の——」「朝凪さん、夏目の水飲んでる」「間接——」「いやいやいや」
まふゆがペットボトルを俺に返した。
無表情のまま。
「……のどが渇いただけです」
二回言った。
氷の女王は語彙が少ない。
翔太が天を仰いだ。
「お前ら……お前らーーーーー!!」
冬月はもはや言葉を失い、バインダーに「尊い」と五回書いていた。
「……」
まふゆが俺の袖をそっと引いた。
周囲には聞こえない小さな声で。
「……湊の水、おいしかった」
「水に味はない」
「……ある。湊の味がした」
俺はもう何も言い返せなかった。
午後の種目が全て終了。
最終結果——赤組、優勝。
借り物競争の一位と、二人三脚の一位。まふゆと俺が稼いだ得点が効いた。
閉会式で表彰を受ける赤組。翔太が応援団長として壇上に立ち、拳を突き上げた。
「赤組ーーー! 最高ーーー!!」
クラス全員が叫んだ。
まふゆも——声は出さないが、小さく拳を握っていた。
体育祭が終わった。
夕暮れの校庭。片付けが進んでいる。テントが畳まれ、万国旗が外されていく。
応援席のそばで、まふゆが一人で立っていた。
夕焼けの光を浴びて、銀色の髪がオレンジに染まっている。
「帰るぞ」
「……ん」
並んで歩く。校門を出る。
帰り道。二人きり。
「……湊」
「ん」
「……今日のお題。『大切な相棒』」
「ああ」
「……迷わなかった」
「見てた。一直線だったな」
「……うん。他の人は、頭に浮かばなかった」
夕焼けの中、まふゆの影が俺の影と重なった。
「……湊以外は、考えもしなかった」
その声が、夕暮れの空気に溶けた。
俺は何も言えなかった。
何も言えなかったけど——手が、自然に伸びた。
まふゆの手を取った。
冷たい指。細い手。走った時と同じ感触。
まふゆが俺を見た。驚いた顔。——次の瞬間、目が細くなった。
「……帰ろう」
「ああ。帰ろう」
手を繋いで帰った。
校門から自宅まで、十二分間。
アパートの前で手を離した。
——帰り道だけ、という昨日の約束を、俺の方から果たした。




