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第16話:体育祭前夜と、結び目の温度


 教室の空気が一段とざわめいていた。

 桜井先生が黒板を叩き、眠そうな声で告げる。


「来週、体育祭な。競技の希望と係決めるぞ」


 その一言で、教室が一気に沸いた。

 運動が得意なやつは拳を鳴らし、苦手なやつは顔をしかめる。

 翔太は隣で「リレー出るわ」と勝手に宣言している。


「お前、足速いの?」

「気持ちだけはな」


 笑って流す。

 俺はプリントを見下ろし、目立たない係を探す。

 用具、記録、放送。

 どれも地味で助かる。


「てかお前、去年のリレーでバトン落としてたよな」

「あー、あれな。今年はリベンジだ」

「リベンジって、また落としそうだけど」

「うっせ。俺のバトンには呼びかけるから」

「バトンについてない男の約束が弱すぎる」


 翔太がゲラゲラ笑う。

 こいつはいつもこうだ。

 軽口を叩きながら、さりげなく距離を詰めてくる。

 それが翔太のやり方だ。


 視線を上げると、真冬は窓の外を見ていた。

 体育祭の話題にも表情は変わらない。

 だがその背中には、わずかな緊張がある。


 雫が教室の後ろで腕を組んでいる。

 風紀委員長として体育祭の秩序を守る役目だろう。

 その視線が、教室の端から端まで刺さる。


 希望票を回す時、俺は「用具係」に丸をつけた。

 動き回るが、目立ちにくい。

 真冬は無言でペンを動かし、紙を返した。


 その後、クラスは赤組と白組に分けられた。

 桜井先生が紙の束を掲げる。


「はい、札引けー。赤か白か、運命の分かれ道だぞー」


 札を引く音が机に響き、教室の空気が一瞬だけ跳ねる。

 俺の番が来た。

 手を伸ばし、一枚の紙を引く。


 ——赤。


 後ろで、小さく息を呑む音が聞こえた。

 振り返りたい衝動を、必死に抑える。


 真冬の番だ。

 彼女は白い札を指先でつまみ上げると、蛍光灯の光が紙に反射して眩しい。

 その瞬間、俺は見てしまった。

 真冬の睫毛が、ほんの僅かに揺れたのを。

 唇が、何かを言いかけて閉じたのを。


 赤と白。

 俺たちは、敵同士になった。


「湊、敵じゃん」

 翔太が笑う。

「敵ってほどじゃねえよ」


 言いながら、胸がざわついた。

 他人にすらなりきれないのに、敵にはなる。近いのに遠い——その矛盾が、赤い札の上で揺れている気がした。


 昼休み、俺は屋上で弁当を広げていた。

 翔太と他愛もない話をしながら、箸を動かす。

 ふと、階下のグラウンドを見下ろすと、白いはちまきを巻いた集団が走っていた。

 その中に、銀髪が一つ。


 白。

 敵の色。

 その色が、真冬の額で揺れている。


「あー、朝凪さん足速いよな」

 翔太がぼんやりと言う。

「そうなのか」

「去年、リレーで抜きまくってた。あの見た目で運動神経いいとか、反則だろ」


 俺は何も言わず、麦茶を飲んだ。

 知っている。

 あの細い身体が、どれだけしなやかに動くか。

 でもそれは、家の中でしか見たことがない。


 グラウンドで、白組の応援練習が始まった。

 掛け声が、屋上まで届く。

 『白組ー! 勝つぞー!』

 真冬は声を出していない。

 でも、拳だけは小さく握っている。


 赤組の応援席は、反対側だ。

 同じ空の下にいるのに、向かい合う位置。

 応援歌が重なれば、それは「戦い」になる。


 ——不思議な気分だった。


 学校では、俺たちは他人のふりをしている。

 関わらない。視線を合わせない。存在しないもの同士。

 それなのに、体育祭では「敵」として向き合う。

 他人なら無関係でいられるのに、敵なら否応なく意識する。


 矛盾だ。

 距離を置いているはずなのに、赤と白という色分けが、俺たちを結びつけてしまう。

 対立という形で。


 午後は学年集会で、体育祭の注意事項が配られた。

 紙の端を指で押さえると、少しだけざらつく。

 「保護者の立ち入りは指定区域のみ」「風紀違反は減点」

 雫が前に立ち、淡々と説明していく。


「借り物競争については、お題の内容に関わらず、指定された物または人を連れてゴールすること。ふざけた行動は減点対象です」


 その言葉が、なぜか胸に引っかかった。

 借り物競争。

 お題次第では、誰かの手を引くことになる。


 帰り際、スマホが震えた。

 まふゆからの短いLINE。


『赤白、別れた』

『見た。敵だな』

『……同じがよかった』


 その一行に、心臓が跳ねた。

 俺も、同じことを思っていたから。


『俺も』

『……本当?』

『本当』

『……じゃあ、当日は手加減して』

『それは無理。お前が速すぎる』

『……見てたの?』

『屋上から』

『……ストーカー』

『お前に言われたくない』


 三点リーダーのあと、スタンプが送られてきた。

 怒った顔のウサギ。

 でも、その次に来たメッセージは違った。


『……家では味方だよね?』

『当たり前だ』

『……よかった』


 短い文字なのに、胸がふっと軽くなる。

 学校では敵。家では味方。

 その使い分けが、俺たちの日常を支えている。

 俺は画面を伏せ、誰にも見られないように息を吐いた。


 ---


 放課後、体育館からは笛の音が響く。

 床がきしむ音と、ボールが弾む音が混ざり合う。

 俺は用具倉庫の確認をしながら、体育祭の準備に参加した。

 倉庫の中は埃っぽく、古い木の匂いが鼻をくすぐる。


 名簿の束をめくると、紙の端が指先に引っかかる。

 「用具係」の欄に自分の名前があり、その少し上に真冬の名前が見えた。

 関わりはないはずなのに、同じ紙に並ぶだけで胸がざわつく。


 用具を運ぶと、手のひらにロープのざらつきが残る。

 肌に擦れる感触が、地味に痛い。

 そういう小さな痛みが、学校行事の実感を作る。


 帰り道、夕焼けが校舎の窓を赤く染めていた。

 二人の間に一メートル。その空白を保って歩くと、足音がずれていく。

 それだけで胸が落ち着くのが、少し悲しい。


 アパートの階段を上る直前、真冬の指が袖に触れる。

 短い接触が、今日の疲れを少しだけ和らげた。


 玄関の鍵が閉まる。

 まふゆは靴を脱ぐと、すぐに俺の背中に回った。


 検閲の鼻先。

 スンスンと小さな音。


「……合格」


 抱きつかれ、体温が重なる。

 俺は息を吐き、台所に立った。


 ---


 夕飯の支度をしながら、体育祭の話になった。

 まふゆはテーブルで頬杖をつき、俺の背中を見ている。


「……今日、応援練習で声出してなかっただろ」

「……見てたの」

「見てた」

「……声、出すの苦手」

「知ってる。でも、拳は握ってた」

「……それも見てたの」

「見てた」


 まふゆは黙った。

 俺は味噌を溶かしながら、続けた。


「お前が白組の応援してるの、不思議な感じだった」

「……なんで」

「俺は赤だから。お前が勝つと、俺は負ける」

「……」

「でも、お前が頑張ってるの見ると、応援したくなる」

「……敵なのに?」

「敵だから、余計に」


 おかしな話だ。

 他人のふりをしている時は何も感じないのに、敵として向き合うと胸が騒ぐ。

 距離があるほうが、むしろ意識してしまう。


「……ねえ、湊」

「ん?」

「敵って、いいかも」


 予想外の言葉に、俺は手を止めた。


「……いいって、何が」

「……他人だと、見ちゃいけないでしょ」


 まふゆは箸で煮物を突きながら、視線を落とした。


「学校では、湊を見ないようにしてる。目が合ったらダメだから。知らない人のふりをしなきゃいけないから」

「……そうだな」

「でも、敵なら——」


 彼女は顔を上げた。

 その表情が、どこか嬉しそうで、俺は背筋が冷えた。


「敵なら、『見ていい』でしょ。対戦相手を睨むのは、おかしくないでしょ。警戒するのは、当然でしょ」


 なに言ってんだ、こいつ。


「……待て。お前、何を——」

「明日から、堂々と湊を見る」


 まふゆの目が、キラキラしていた。

 歪んだ光だ。


「敵だから。白組の邪魔をする赤組を、監視するの。——そしたら、誰にも文句言われない」

「……」

「湊が用具を運んでるところも、水を飲んでるところも、全部見る。敵の動きを偵察してるだけだから」


 俺は絶句した。

 こいつ、本気だ。

 「敵対」という建前を、自分を縛るルールを出し抜く抜け道として捉えている。


 ——こいつ、壊れ始めてる。


 そう思った瞬間、俺の手が震えた。

 恐怖だ。彼女の論理が、少しずつ歪んでいくのが見える。正常な発想じゃない。ルールを守るためにルールを曲げる、その矛盾を矛盾と感じていない。

 でも——

 同時に、俺の胸の奥が熱くなった。

 この狂気は、俺のためだ。俺を見たいがために、彼女は自分の中のネジを一本ずつ緩めている。その壊れ方が、たまらなく愛おしい。

 俺は自分の手を見下ろした。まだ、微かに震えている。恐怖と愛情が、同じ場所で渦を巻いている。


「……お前、頭おかしいぞ」

「……おかしくない。戦略」

「戦略って——」

「他人より、敵のほうがいい。敵なら、『意識してる』のが普通だから」


 その論理が、妙に筋が通っていて怖い。


「……そういう使い方するやつ、初めて見た」

「……私は私のやり方で、湊を見る」


 まふゆは満足そうに頷いた。

 俺は溜息をついて、味噌を溶かし直した。


 ——倒錯してる。

 そう思うのに、心のどこかで嬉しい自分がいる。

 こいつは本当に、どんな形でも俺と繋がろうとするんだ。


「……湊」

「ん?」

「勝っても、負けても、家に帰ったら一緒だよね」

「当たり前だ」

「……じゃあ、全力で戦う」

「そうしてくれ」


 まふゆは小さく笑った。

 その笑顔が、白組の応援席にいた時とは全然違う。

 こっちが本物だ。

 俺だけが知っている顔。


「借り物競争、出るんだろ?」

「……うん」

「お題、何が出るか分かんないけど、気をつけろよ」


 まふゆは箸を止め、俺を見上げた。


「……気をつけるって?」

「変なお題が出たら、困るだろ」

「……例えば?」

「知らん。『好きな人』とか」


 言った瞬間、空気が変わった。

 まふゆの目が、すっと細くなる。


「……出たら、どうする?」

「どうするって……お前は白組だろ。俺は赤だし」

「……違う」


 彼女は箸を置いた。

 静かだが、声に力がある。


「『好きな人』が出たら、私は湊を連れていく」

「……バカ、そしたらバレる」

「バレてもいい」

「よくない」

「……じゃあ、湊が白組だったらよかった」

「そういう問題じゃねえよ」


 言い合いながらも、胸の奥が熱くなる。

 まふゆは本気だ。

 この距離のルールを、彼女は本気で壊そうとしている。


 俺は箸を置き、深呼吸した。


「……なあ、まふゆ」

「……なに」

「もしそうなったら——俺は、どうすればいい?」


 声が、思ったより重くなった。


「お前が俺を選んで走ってきたら、俺は嬉しい。正直に言えば、嬉しい。でも、その後どうなる?」


 まふゆが黙った。


「噂が広がる。雫に報告される。親に連絡が行くかもしれない。今日子さんに知られたら——」


 その名前を出した瞬間、まふゆの肩が強張った。


「俺たちの『おままごと』が、終わる。お前と一緒に暮らせなくなる。——それでも、いいのか?」


 沈黙が落ちた。

 テーブルの上の料理が、少しずつ冷めていく。


「……」


 まふゆは俯いたまま、何も言わない。

 俺は自分の言葉の重さに、胸が痛くなった。


「……ごめん。脅してるわけじゃない。ただ、考えてほしいんだ。一瞬の衝動で、全部を失うのは——」

「……分かってる」


 まふゆの声が、小さくなった。


「分かってる。でも、心が言うこと聞かないの」


 彼女は顔を上げた。

 目が、少し潤んでいる。


「湊が近くにいるのに、他人のふりをするのが、苦しい。学校にいる間、ずっと息が詰まる。——その苦しさが、限界に近づいてるの」


 俺は言葉を失った。

 知っていた。知っていたはずだ。

 でも、こうして言葉にされると、胸が締め付けられる。


 俺は深呼吸して、彼女の頭を撫でた。


「……頼むから、学校では我慢してくれ」

「……してる」

「もうちょっとだけ」

「……ちょっとだけ?」

「ちょっとだけ」


 その約束が、どれだけの重さか分かっている。

 まふゆは不満そうに唇を尖らせたが、最後には小さく頷いた。

 俺も、自分に言い聞かせるように頷いた。


 ——でも、心のどこかで分かっていた。

 この距離のルールは、いつか壊れる。

 問題は、それが『いつ』かということだけだ。


 ---


 食後、はちまきの練習をすることになった。

 白い布を広げると、まふゆの髪に巻きつける。


「……きつい」

「ごめん、緩める」

「……今度は緩い」

「難しいな」


 何度か調整して、ちょうどいい結び目ができた。

 まふゆは鏡を見て、小さく頷く。


「……湊の結び方、好き」


 不意に甘い言葉が来る。

 俺は返事を濁し、結び目をもう一度だけ整えた。


「これで当日も大丈夫だろ」

「……当日は、自分でやる」

「そうだな」

「……でも、練習は湊がいい」


 その理屈が分からないが、嫌じゃない。

 俺は彼女の後ろに回り、はちまきを解いた。

 銀色の髪がさらりと落ち、指先に柔らかい感触が残る。


「もう一回」

「何回やるんだよ」

「……完璧になるまで」

「お前の完璧、基準が分からん」


 まふゆは振り返り、俺の目を見た。


「……湊が満足するまで」


 それは俺の基準じゃなくて、お前の基準だろ。

 言おうとしたが、彼女の真剣な目に負けた。


 結局、五回ほど練習した。

 最後の一回は、まふゆが自分で結んだ。

 少しだけ歪んでいたが、彼女は満足そうに頷いた。


「……これでいい」

「歪んでるぞ」

「……湊が直して」


 俺は溜息をついて、結び目を直した。

 その瞬間、まふゆが振り返り、俺の首に腕を回す。


「……ありがとう」

「礼を言うほどのことじゃねえよ」

「……言いたいから、言った」


 彼女の体温が近い。

 はちまきの布の匂いと、彼女の髪の匂いが混ざる。


 ---


 おやすみの充電は、今夜は少し長い。

 抱きしめると、体温が重なり、明日への緊張がゆっくり溶ける。


「……敵でも、味方でも、ここは一緒」

「そうだな」


 短い返事だけで、まふゆが安心したのが分かる。

 俺は彼女の髪を指で整え、毛先の柔らかさを確かめた。


「体育祭、頑張れよ」

「……湊も」

「俺は用具係だから、大したことしない」

「……でも、見てる」


 その言葉の意味を、俺は正確に理解した。

 彼女は俺を見ている。

 俺も彼女を見ている。

 学校にいる間、視線を合わせられなくても。


「……お題、『好きな人』だったら」

「だから、それは——」

「……冗談」


 まふゆは小さく笑い、俺の胸に顔を埋めた。


 冗談じゃないだろ、と言いかけて、やめた。

 彼女の肩が少しだけ震えている。

 笑っているのか、緊張しているのか。

 たぶん、両方だ。


 俺は何も言わず、彼女の背中を撫でた。

 体育祭という外の騒がしさが、家の中でゆっくりと落ち着いていく。


 明日から、距離のルールがもっと厳しくなる。

 でも今夜だけは、この近さを許してほしい。


 そう思いながら、俺もゆっくりと目を閉じた。


 ——翌日。

 借り物競争のお題一覧が、職員室の壁に貼り出された。

 それを見た翔太が、意味深げに笑った。


「おい湊、『大切な相棒』ってお題、あるぞ」


 その言葉の意味を、俺はまだ——理解していなかった。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

もし『面白い』『続きが気になる』と少しでも思っていただけたら、モチベーションに直結しますので、下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援いただけると泣いて喜びます。

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