第15話:監視の果てと、予想外の言葉
朝、目を開けると、窓の外が明るかった。
久しぶりの晴れ。
光が部屋に差し込んで、まふゆの髪を金色に染めている。
彼女はまだ眠っている。
寝顔が穏やかで、起こすのがためらわれた。
でも、学校がある。
「……起きろ」
「……んー」
「晴れてる」
「……それで?」
「気分いいだろ」
「……寝てる方がいい」
結局、いつも通り力ずくで起こした。
朝食はパンケーキにした。
週末でもないのに、少しだけ特別なもの。
理由は分からないが、そういう気分だった。
まふゆは蜂蜜をたっぷりかけて、幸せそうに頬張っている。
その姿を見ているだけで、俺も少しだけ幸せになる。
リボンを結ぶ。
昨日教えた通り、固く、きっちりと。
もう誰にも直させない。
家を出ると、空が青かった。
---
校門の前に、雫がいた。
いつもと同じ場所。同じ姿勢。
だが、今日は何かが違う気がした。
俺たちが通り過ぎようとしたとき、雫が口を開いた。
「夏目、朝凪。放課後、生徒指導室に来い」
心臓が凍った。
バレた。
昨日の図書室で、決定的な何かを見られた。
もう終わりだ。
隣で、真冬の呼吸が止まるのが分かった。
俺は必死に平静を装い、「分かりました」とだけ答えた。
教室に入ると、翔太が心配そうな顔で近づいてきた。
「お前、雫さんに呼び出されてたな。何かやらかした?」
「……分からない」
「マジで? やべえな。生徒指導室って、停学レベルの話だぞ」
停学。
その言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
授業中、何も頭に入らなかった。
黒板を見ても、文字が意味を成さない。
ただ、放課後のことだけを考えていた。
昼休み、弁当を開いたが、味が分からなかった。
翔太が何か話しかけてきたが、上の空で聞き流した。
背中側で、真冬の気配を感じる。
彼女も同じだろう。
食欲なんてないはずだ。
放課後が来た。
俺と真冬は、別々のタイミングで教室を出た。
廊下で合流し、無言のまま生徒指導室へ向かう。
ドアの前で、足が止まった。
ここを開けたら、何が待っている?
俺たちの関係がバレて、問題になる?
最悪の場合、親に連絡がいく?
真冬が俺の袖を掴んだ。
指先が震えている。
俺は深呼吸をして、ドアをノックした。
「入れ」
雫の声が、冷たく響いた。
---
生徒指導室は、思ったより狭かった。
机が一つと、椅子が数脚。
窓からの光が、埃を照らしている。
雫は机の向こうに座っていた。
腕を組み、俺たちをじっと見ている。
「座れ」
言われるままに、椅子に座った。
真冬が隣にいる。
肩が触れそうで、触れない距離。
雫は長い間、何も言わなかった。
沈黙が部屋を満たす。
心臓の音が、自分でも聞こえるほど大きい。
やがて、雫が口を開いた。
「単刀直入に聞く。お前たち、同棲しているな」
頭が真っ白になった。
否定しなければ。
嘘をつかなければ。
でも、言葉が出てこない。
隣で、真冬が息を呑むのが分かった。
雫は俺たちの反応を見て、小さく頷いた。
「やはりそうか」
終わった。
そう思った。
だが、雫の次の言葉は、予想外のものだった。
「今すぐ報告するつもりはない」
俺は自分の耳を疑った。
同時に、膝から力が抜けた。
椅子に座っていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。
「……は?」
「今は、報告しないと言った。聞こえなかったか」
聞こえた。確かに聞こえた。
でも、意味が分からない。
頭の中がぐるぐると回っている。終わったと思った。人生最大の危機だと思った。同棲がバレて、親に連絡がいって、まふゆと引き離されて——そんな最悪の未来が、一瞬で頭の中を駆け巡っていた。
それが、「報告しない」?
全身の力が抜けていく。
指先から、腕から、肩から、順番に緊張がほどけていく。
呼吸が乱れる。さっきまで止まっていた息が、一気に戻ってくる。
「いや、聞こえましたけど……なぜ?」
声が震えている。自分でも分かる。
隣で、真冬が小さく息を吐いた。彼女の肩も、微かに震えている。
雫は腕を解き、椅子の背にもたれた。
その姿勢が、いつもの冷たい風紀委員長とは少し違って見えた。
「最初から怪しいと思っていた。登校のタイミング、弁当のおかず、図書室での距離感。全部、普通の『クラスメイト』じゃなかった」
やはり、見られていた。
俺たちの小さな工夫は、全部バレていた。
「それと——教室で何かの音がした時、お前たちは無意識に互いの方を向く。一瞬だけ。本人たちは気づいていないだろうが、私は全部見ていた」
心臓が冷えた。
そんな癖があることすら、俺は知らなかった。
雫の方が、俺たちのことを理解している——その事実が、屈辱的だった。
「だが、調べていくうちに、別のことが分かった」
雫は真冬を見た。
「朝凪。お前の家庭環境は知っている。親が海外赴任で、一人暮らしを余儀なくされていること。それが精神的にどれだけ負担か、想像はできる」
真冬の肩が、わずかに震えた。
「そして夏目。お前も同じ境遇だな。隣同士のアパートで、互いに支え合っている。……違うか」
俺は何も言えなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
雫は深く息を吐いた。
「風紀委員として、これを見逃すのは本来ありえない。だが——」
彼女の目が、一瞬だけ柔らかくなった。
「私にも、分かることがある」
雫は立ち上がり、窓の方へ歩いた。
逆光で、その表情は見えない。
「……朝凪を初めて見た時、息が止まった」
雫は窓の外を見ながら言った。
その声は、いつもの冷たさとは違う。
「完璧な造形。冷たい美しさ。……私の理想そのものだった」
俺は何を言っているのか分からず、固まった。
「だから最初、夏目を見た時——正直、腹が立った。あんな平凡な男が、彼女の隣にいる。許せなかった」
「……」
真冬の肩が、小さく震えた。
「でも、観察していくうちに分かった。朝凪が夏目を見る目。夏目が朝凪を守る姿勢。あれは——本物だ」
雫の目が、窓の外から俺たちへ戻った。
その視線には、冷徹さだけではない、何かが滲んでいる。
「最初は、ただの監視対象だった。異性間の不適切な距離。取り締まるべき違反。……そう思っていた」
雫は少し言葉を切った。
何かを飲み込むように、喉が動いた。
「でも、見ているうちに——興味が湧いた。この二人は、どこまで行くのか。どうやって終わるのか」
その言葉に、背筋が凍った。
味方じゃない。雫は、味方じゃない。
「私が求めていた『完璧な関係性』が、目の前にある。……だから、今は様子を見ることにした」
真冬が小さく息を呑んだ。
俺も、言葉が出てこなかった。
「勘違いするな。私はお前たちの味方ではない」
雫の声が、冷たく響いた。
「ただ、このまま壊れていくのか、それとも何かが変わるのか——一番近くで見届けたい。それだけだ」
鳥肌が立った。
これは監視どころじゃない。
雫は、俺たちを観察している。
実験動物でも見るような目で。
どこまでが本音か分からない不気味さが、部屋の空気を重くした。
「孤独は人を壊す。誰かがそばにいてくれるだけで、人は生きていける。それを否定する権利は、私にはない」
その言葉には、何か——重みがあった。
雫自身の経験が、滲んでいるような。
「ただし、条件がある」
雫は振り返り、俺たちを見た。
目の温度が、また冷たくなっている。
いや——最初から冷たかったのかもしれない。一瞬だけ見せた何かは、俺の見間違いだったのか。
「条件は五つ。一、一ヶ月の猶予。問題があれば即座に報告する。二、学校では視線さえ切れ。三、朝凪は週一度、私と話せ。閉じた世界は歪む。四、夏目も何かあれば報告しろ。五、これは『許可』ではない。『観察期間』だ」
観察期間。
その言葉が、胸に冷たく刺さった。
一ヶ月、一瞬のミスも許されない。
しかも、雫に観察され続ける。
俺たちは実験台だ。うまくいくか、壊れるか、それを見届けられる対象。
「……分かったな」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない。私は自分の信念に従っているだけだ」
雫は机に戻り、座った。
「話は以上だ。行け」
俺と真冬は立ち上がり、ドアへ向かった。
ノブに手をかけた時、雫の声が聞こえた。
「夏目」
「はい」
振り返ると、雫は窓の外を見ていた。
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
「……弁当、美味そうだった」
気づいていたのか。
俺は言葉を探したが、雫は続けた。
「……昔、私にはそういう相手がいなかった」
独り言のような、小さな声だった。
雫の目は、どこか遠くを見ている。
「……一人、壊した。私が」
短い言葉だった。
でも、その声が震えていた。
「……冬月さん」
「余計なことを言った。忘れろ」
雫は視線を戻し、いつもの冷たい目に戻った。
でも、その一瞬だけ、俺は見た気がした。
雫の中にある、壊れかけた何かの残滓を。
「……一つ、聞いていいですか」
俺は自分でも驚くほど、自然に口を開いていた。
「何だ」
「冬月さん、『マジカル☆スノープリンセス』……好きですよね」
雫の肩が、びくりと跳ねた。
振り返った目には、明らかな動揺がある。
「……なぜ、それを」
「ストラップ、見えました。校門の時」
「……」
沈黙が落ちる。
雫の頬に、わずかに赤みが差した。
「……朝凪に、似ていると思った」
「え?」
「オーロラ姫に。銀髪で、寡黙で、孤高で——でも、たった一人だけに心を開く」
雫は照れているのか、視線を逸らしながら続けた。
「だから私は——お前たちを見ていると、『物語』を見ているような気持ちになる。守りたくなる。邪魔されたくない」
だから監視していたのか。
俺たちを見張るためじゃなく——俺たちを守るために。
「……変だと思うか」
「いや、変じゃないです。全然」
俺は正直に答えた。
真冬が俺の袖を小さく引いた。
彼女も、同じ気持ちだろう。
「……感謝しろとは言わない。私は私のやりたいようにやっているだけだ」
雫はそう言って、背を向けた。
でも、その声には、どこか安堵の色があった。
---
アパートに帰ると、俺たちは玄関で抱き合った。
言葉はなかった。
ただ、お互いの体温を確かめ合った。
「……怖かった」
まふゆが俺の胸に顔を埋めながら言った。
「俺もだ」
「でも、雫……優しかった」
「ああ。予想外だった」
検閲はあとでいい。
上書きも、あとでいい。
今は、ただこうしていたかった。
しばらくして、まふゆが顔を上げた。
「……雫と、友達になれるかな」
「さあ。でも、悪くないかもな」
俺は彼女の髪を撫でながら、雫の言葉を思い出していた。
「孤独は人を壊す」
あの言葉には、実感がこもっていた。
雫も、何か抱えているのかもしれない。
夕飯は、いつもより少しだけ豪華にした。
唐揚げと、味噌汁と、卵焼き。
まふゆの好物を並べる。
「……お祝い?」
「処分されなかった。それだけで十分だろ」
「……うん。でも、雫……怖かった」
「ああ。俺も」
まふゆは唐揚げを一つ口に入れ、少しだけ笑った。
その笑顔が、さっきまでの緊張の名残を滲ませている。
「……あの人、何考えてるか分からない」
「分からないな。味方かどうかも分からない」
「……観察されてるって言ってた」
「言ってた。俺たちは実験動物みたいなもんだ」
まふゆは箸を止め、俺を見上げた。
「……怖い?」
「怖い。でも、最悪の事態よりはマシだ」
「……うん」
それが、今の正直な気持ちだった。
雫は味方じゃない。でも、敵でもない。
俺たちを見ている。何を考えているか分からない目で。
それでも、隣にまふゆがいる。それだけで、少しだけ安心する。
食後、ソファに並んで座る。
テレビの音を小さくして、窓の外を見た。
夜空に、星が見える。
「……湊」
「ん?」
「私たち、大丈夫かな」
「大丈夫だ。雫が味方になった。それだけで、かなり楽になる」
「……うん」
まふゆは俺の肩にもたれ、目を閉じた。
「……おやすみの充電」
「ああ」
腕を回すと、彼女は小さく身を丸めた。
体温が重なり、今日の緊張が少しずつ溶けていく。
眠りに落ちる前、まふゆが囁いた。
「……湊、ありがとう」
「何が?」
「一緒にいてくれて」
俺は答える代わりに、彼女を少しだけ強く抱きしめた。
窓の外で、風が吹いている。
明日も、明後日も、学校がある。
距離を守り、秘密を守り、日常を守る日々が続く。
でも、もう一人じゃない。
まふゆがいる。
そして今日から、雫もいる。
小さな世界が、少しだけ広がった。
それが嬉しいのか、寂しいのか、まだ分からない。
でも、悪くない。
俺はまふゆの寝息を聞きながら、静かに目を閉じた。
明日は、リボンをいつもより丁寧に結ぼう。
雫に見せつけるために——じゃなくて、まふゆのために。
そんなことを考えながら、俺も眠りに落ちた。
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