第14話:図書室の巡回と、落ちた栞
朝、目を開けると、まふゆが俺の顔を覗き込んでいた。
至近距離に彼女の目がある。
心臓に悪い。
「……何してる」
「リボン、見てた」
「俺の顔にリボンはない」
「違う。結び方、覚えようとしてた」
昨日の話を覚えていたらしい。
俺は苦笑しながら起き上がり、彼女のリボンを手に取った。
「いいか、見てろ」
ゆっくり、丁寧に、一つ一つの工程を見せながら結んでいく。
最後に、結び目をきゅっと締める。
「これで、簡単には緩まない」
「……固い」
「固くていい。直されないために」
まふゆは鏡で自分のリボンを確認し、小さく頷いた。
その表情が、少しだけ嬉しそうに見えた。
リボンを直し、いつものように家を出た。
---
校門の前に、今日も雫がいた。
俺たちが通り過ぎるとき、彼女の視線が真冬のリボンに止まった。
一瞬、眉が動いた。
昨日より固く結ばれていることに気づいたのだろう。
だが、雫は何も言わなかった。
「問題なし」とだけ言って、次の生徒へ向かった。
ほっとした。
俺は内心で息を吐いた。
授業は平和だった。
雫の巡回もなく、翔太も余計なことを言わなかった。
昼休みの弁当も無事にやり過ごし、午後の眠気と戦いながら時計を見る。
放課後、図書室の当番だった。
本の匂いが濃い空間。
埃と紙とインクが混ざった、独特の香り。
俺は返却棚を整理し、真冬はカウンターで作業をしている。
ここでは、少しだけ距離が近くなる。
教室よりも人が少ないし、棚の陰に隠れることができる。
完全に二人きりにはなれないが、視線を交わすくらいはできる。
新一年生らしき女子が、カウンターに来た。
「すみません、この本、どこにありますか……」
真冬は無表情のまま、棚の方向を指差した。
「奥の三番目。分類番号は——」
丁寧に説明する声は、冷たいけれど正確だ。
女子は何度も頭を下げて、棚の方へ走っていった。
その様子を、俺は棚の隙間から見ていた。
学校での真冬は、こういう姿だ。
完璧で、隙がなくて、近寄りがたい。
でも俺は知っている。
家に帰れば、あの氷が全部溶けることを。
図書室のドアが開いた。
足音がほとんどしない。
雫だった。
「巡回だ」
いつもの低い声。
俺は返却棚の整理を続けながら、彼女の動きを目で追った。
雫は棚の間をゆっくり歩き、本の背表紙に指を滑らせる。
だが、その視線は本を見ていない。
俺と真冬の位置関係を確認している。
棚の端で、古い本を取り出そうとしたとき——
中から、一枚の紙が落ちた。
乾いた紙が床に触れる音。
——違う。栞じゃない。
折りたたまれた、小さなメモだ。
真冬の字で、何か書いてある。
心臓が止まりそうになった。
あれは——真冬が俺に渡そうとして、渡せなかったメモだ。
授業中に書いて、俺の机に入れようとして、でも怖くなって引っ込めた——そんなことを、昨夜ぼそりと言っていた。
バレたら終わりだ。
あのメモに何が書いてあるか、俺は知らない。
でも、雫に見られたら——
反射的に、俺は手を伸ばした。
同時に、真冬もカウンターから身を乗り出した。
俺の指が、メモに触れた。
その瞬間、真冬と目が合った。
ほんの一秒。
でも、その一秒が永遠に感じられた。
彼女の目には恐怖があった。
『拾って、早く』と叫んでいる目だった。
俺はメモを掴み、咄嗟にポケットに突っ込んだ。
指先が震えていた。
自分でも分かるほど、細かく震えていた。
雫の目の前で、証拠を隠している。バレたら終わりだ。その緊張感が、指の震えになって表れていた。
ポケットの布越しに、メモの角が指先に当たる。紙一枚の重さが、今は鉛のように重い。
心臓がうるさい。バクバクと耳の奥で鳴っている。
慌てて視線を逸らす。
真冬もカウンターに戻った。
だが、遅かった。
「……息が合っている。普通のクラスメイトには見えない」
雫の声が、静かに落ちた。
その言葉には、明らかな警告が籠められていた。
心臓が止まりそうになる。
「たまたまです」
俺は平静を装って答えた。
栞を棚に戻し、何事もなかったように整理を続ける。
雫は俺をじっと見ていた。
冷たい視線。
だが、その奥に——何か、違う色がある。
疑惑ではない。
怒りでもない。
もっと、複雑な何か。
「……そうか」
雫は短く言って、カウンターへ向かった。
名簿を確認し、「問題なし」と告げて図書室を出ていく。
ドアが閉まった瞬間、空気が緩んだ。
「……危なかった」
真冬が小さく呟いた。
俺は棚の陰で深呼吸をして、心臓を落ち着かせた。
バレたのか、分からない。
ただ、雫の目の色が変わったのは確かだった。
---
帰り道、風が強くなっていた。
空は曇っていて、夕焼けが見えない。
俺たちは他人の顔をして、二人分の間隔を空けて歩く。
いつもより、さらに遠い。
アパートの階段を上る前、真冬が立ち止まった。
「……雫、気づいた?」
「分からない」
「……怖い」
「俺もだ」
死角に入った瞬間、真冬の指が俺の袖を掴んだ。
いつもより強い力。
怖がっている。
玄関の鍵が閉まると、まふゆは俺の胸に飛び込んできた。
「……検閲」
首筋に鼻先が触れる。
すんすん、すんすん。
いつもより長い。
「……合格。でも、本の匂いが強い」
「図書室だったからな」
上書きの抱擁は、今日も長かった。
俺は彼女の背中を撫でながら、雫の言葉を思い出していた。
「息が合うな」
あれは、ただの観察か。
それとも、何かを確信した上での言葉か。
「……湊」
「ん?」
「雫——怖い」
まふゆが、俺の胸に顔を埋めた。
「あの人の目、冷たい。何もかも見透かされてるみたいで……」
俺は黙って彼女の背中を撫でた。
俺も同じだ。雫の視線は、どこか人間離れしている。
「……でも」
まふゆが顔を上げた。
「雫、不思議な人」
意外な言葉に、俺は彼女の顔を見下ろした。
「……どういう意味だ」
「分からない。でも、あの人、私たちを見てる理由が……監視だけじゃない気がする」
「俺たちを監視してるのに?」
「……うん。監視してるけど、何か違う。怖いのに、どこか——」
まふゆは言葉を探すように、少し黙った。
「——寂しそう」
予想外の言葉だった。
「……寂しい?」
「分からない。私の勘違いかも。でも、雫が私を見る目が、時々、遠くを見てるみたいなの。私を通して、別の誰かを見てるみたいな」
まふゆの感覚は、時々不思議なほど鋭い。
俺には分からないことを、彼女は本能で感じ取る。
「……まだ分からない。敵か、味方か」
「ああ」
「……でも、単純に悪い人じゃない気がする。それだけ」
その言葉が、胸に残った。
雫の正体は、まだ見えない。
でも今は、その感覚を信じていいのか分からなかった。
夕飯はシチューにした。
温かいものが食べたかった。
身体の中から、今日の緊張を溶かしたかった。
まふゆはジャガイモを先に食べ、ニンジンを後回しにする。
いつもの順番だ。
「……美味しい」
「そりゃどうも」
「……湊の料理、好き」
不意打ちだ。
俺は熱いシチューを飲み込んで、「ありがとう」とだけ答えた。
食後、ソファに並んで座る。
まふゆは俺の膝に頭を乗せ、天井を見上げた。
「……明日も、図書室?」
「明日は当番じゃない」
「……そっか」
少しだけ、残念そうな声。
図書室では、教室より近くにいられるから。
「でも、放課後に寄ることはできる」
「……本当?」
「本を返すふりをすれば、不自然じゃないだろ」
まふゆの目が、少しだけ明るくなった。
その表情を見て、俺も少しだけ安心する。
こうやって、小さな工夫を重ねていく。
バレないように。
離れないように。
俺たちの日常を、守り続けるために。
まふゆの体温が、少しずつ俺に移っていく。
外の世界の冷たさが、ここでは届かない。
眠りに落ちる前、俺は雫の目を思い出していた。
あの視線の奥にあったもの。
疑惑ではない、何か。
答えは、まだ出ない。
でも、近いうちに分かる気がした。
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