第12話:噂の輪郭
朝、目を開けると、腕の中にまふゆがいた。
昨夜の充電のまま眠ってしまったらしい。
彼女の寝息が首筋にかかり、くすぐったい。
「……起きろ」
「……やだ」
「学校」
「……五分」
結局、十分かかった。
制服に着替えると、彼女の目の温度が下がる。
俺たちは別々の人間になって、家を出た。
---
校門の前に、雫はいなかった。
それだけで肩の力が抜ける。
だが、教室に入った瞬間、翔太が深刻な顔で近づいてきた。
「なあ、聞いたか」
「何を」
「風紀委員会、今週から強化週間だって。特に『異性間の不適切な距離』を重点的に取り締まるらしい」
胃が締まった。
「……マジか」
「マジマジ。しかも、密告制度まであるらしい。『気になる生徒を見かけたら報告してください』だと」
「それ、いじめの温床だろ」
「だよな。でも雫さんが本気らしくて、誰も逆らえねえ」
翔太は笑っているが、俺は笑えなかった。
周囲を見回すと、何人かの生徒がスマホを触っている。
誰が密告者になるか分からない。
この教室の中に、俺たちを見ている目があるかもしれない。
翔太が急に真剣な顔になった。
「ていうか、湊」
「ん?」
「お前、最近顔つき変わったな」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ねた。
「……何が」
「いや、なんていうか。前と比べて、穏やかになったっていうか。なんつーの、『誰かを守ってる』みたいな顔してる」
「……気のせいだろ」
「気のせいか? そうかな。でもまあ、恐そらく気のせいだな」
翔太はあっさりと引いたが、俺の胸には小さな棘が刺さった。
変わった。顔つきが変わった。
まふゆと暮らし始めてから、俺は無意識に『保護者』の顔になっていたのか。
それが、他人の目にも見えている。
——まずい。
ふと、窓際の席の女子——川村、だったか——が、真冬の方をちらりと見ているのに気づいた。
ツインテールに眼鏡。真面目そうな雰囲気。
たしか風紀委員だった気がする。雫の部下だ。
視線はすぐに逸れたが、その一瞬の動きが妙に引っかかった。
偶然か。それとも、何かを観察しているのか。
彼女の手元には、小さなメモ帳があった。
その時、川村がペンを落とした。
コロン、という乾いた音が床に響く。
彼女が掃うために屈んだ時、メモ帳が一瞬だけ見えた。
——『夏目、朝凪』
血の気が引いた。
背筋を氷の手がなぞるような感覦。
メモに、俺の名前が書いてある。真冬の名前と一緒に。
何を記録している? 何を報告する気だ?
川村はペンを拾い、何事もなかったように前を向いた。
でも、俺は見た。確かに見た。
監視は雫だけじゃない。彼女の手下たちも、俺たちを見ている。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
でも、一度気になると、教室の至るところに「目」があるような気がしてくる。
一限目の授業中、廊下を歩く足音が聞こえた。
雫だ。
窓越しに、彼女の姿が見える。
教室を一つずつ確認するように、ゆっくり歩いている。
俺は視線を落とし、ノートに集中するふりをした。
シャープペンの芯が折れる音が、やけに大きく響いた。
昼休み。
弁当を開くと、翔太の視線が一瞬だけ俺の弁当と——どこかを往復した。
真冬の席の方向だ。
「……なんでもない」
翔太はそれだけ言って、自分の弁当に戻った。
俺は冷や汗をかきながら、卵焼きを口に押し込んだ。
——同じ形。同じ切り方。明日から変えないと。
放課後、図書室の当番があった。
俺は返却棚を整理し、真冬はカウンターで貸出スタンプを押している。
同じ空間にいるのに、視線は合わせない。
それがルールだ。
本棚の間を歩きながら、返却された本を戻していく。
背表紙のコードを確認し、棚番号を照らし合わせる。
地味な作業だが、その分頭が空になる。
——その瞬間、背筋が粟立った。
視線を感じた、というより、空気の密度が変わった。
俺は本を手に持ったまま、ゆっくりと振り返った。
雫が、すぐ後ろに立っていた。
足音は聞こえなかった。
扉が開いた音も、近づいてくる気配も。
いつからそこにいたのか、全く分からない。
それが、たまらなく怖い。
「……巡回だ」
雫は短く言って、俺の横を通り過ぎた。
肩が擦れそうな距離。
冷たい空気が、彼女が通った後に残った。
だが、今日の雫はどこか違った。
いつもの鋭さに加えて、疲れのようなものが滲んでいる。
目の下に薄い影があり、肩の力が微かに抜けている。
規則で武装した鎧の下に、何かを抱え込んでいるような——そんな気配がした。
短い宣言のあと、雫は棚の間をゆっくり歩き始めた。
背表紙に指を滑らせながら、本の並びを確認している。
だが、その視線は本だけを見ているわけじゃない。
俺と真冬の距離を、測っている。
棚の端で、雫が立ち止まった。
俺がいる場所から、三メートル。
真冬がいる場所から、五メートル。
その位置関係を、雫は確実に把握している。
「……夏目」
「はい」
「最近、朝凪さんの近くにいることが多いと聞いた」
胸の奥がキリキリと痛んだ。
「同じクラスですから」
「それだけか」
「それだけです」
雫は俺の目をまっすぐ見た。
冷たい視線。
だが、その奥に何かを探るような色がある。
「……そうか」
雫はそれ以上追及せず、カウンターへ向かった。
真冬の席の後ろを通り過ぎる時、一瞬だけ足が止まった。
真冬の肩が、微かに強張ったのが見えた。
雫は何も言わず、名簿を一枚確認し、「問題なし」とだけ言って図書室を出ていく。
——雫の背中が、本棚の向こうに消える。
扉が閉まる音は、しなかった。
また、足音もなく消えたのだ。
空気が緩んだ。
真冬が小さく息を吐くのが聞こえた。
ふと、窓際のソファに目をやると——川村がいた。
さっき教室で見た、あのツインテールの風紀委員。
彼女は本を読んでいるふりをしているが、ページを捲る手が動いていない。
そして、俺と真冬の方を、眼鏡越しにちらちらと見ている。
手元の小さなノートには、何か書き込まれている。
——見られている。
背筋を冷たいものが這い上がった。
雫だけじゃない。彼女の手下たちも、俺たちを監視している。
「……見てた」
「ああ」
「……怖かった」
その声は、学校の「朝凪真冬」ではなかった。
家の「まふゆ」に近い、小さな声。
俺は返却棚の本を整理しながら、「大丈夫」とだけ返した。
大丈夫じゃないかもしれない。
でも、今はそう言うしかなかった。
---
帰り道、風が冷たくなっていた。
俺たちは三歩分の空白を維持して歩く。
いつもより、少しだけ遠い。
アパートの階段を上る前、真冬が立ち止まった。
「……湊」
「ん?」
「弁当、変えた方がいい」
彼女も気づいていたのか。
俺は頷いて、「明日から変える」と答えた。
玄関の鍵が閉まると、まふゆは俺の背中に飛びついた。
「……怖かった」
「分かってる」
「雫、目が怖い。何でも見透かしそう」
検閲の鼻先が首筋に触れる。
すんすん、と小さな音。
「……合格。でも、少し雫の匂いがする」
「図書室で近くにいたからな」
「……嫌」
上書きの抱擁が、いつもより長かった。
夕飯はカレーにした。
辛さで、今日の緊張を吹き飛ばしたかった。
まふゆは福神漬けを山盛りにして、辛さをごまかしている。
「明日から、弁当どうする?」
まふゆが聞いてきた。
「俺の方だけ、おかずを一品変える。見た目が違えば、同じ台所で作ったとは思われない」
「……私も手伝う」
「お前が料理すると火事になる」
「……一回だけ」
「一回でアパート燃えたら終わりだ」
まふゆは頬を膨らませたが、反論はしなかった。
自覚はあるらしい。
——ふと、自分の言葉を振り返って、背筋が薄ら寒くなった。
俺は今、彼女の食事を管理し、行動を指示し、生活のすべてを決めている。
まふゆは俺の言うことを聞き、俺の作ったルールに従い、俺なしでは生きられないように——
それを、心地よいと感じている自分がいた。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、「支配している」という暗い快感が胸の奥を走った。
吐き気がした。
俺は何を考えている。これは「守っている」のであって、「支配している」のではない。そう言い聞かせる。でも、違いが分からなくなる瞬間がある。保護と支配の境界線が、どこにあるのか。
——俺は、本当に彼女のためにやっているのか。
それとも、彼女を自分のものにしたいだけなのか。
自己嫌悪が、胃の底で渦を巻いた。
食後、ソファに並んで座る。
テレビの音を小さくして、二人で黙っている。
言葉がなくても、体温が近いだけで落ち着く。
「……雫、何が目的だと思う?」
まふゆが聞いてきた。
「風紀だろ。異性間の距離を取り締まるって言ってた」
「それだけ?」
「どういう意味だ?」
「……分からない。でも、あの人、私たちだけ見てる気がする」
俺も同じことを感じていた。
雫の視線は、他の生徒に向けるものとは違う。
何かを確かめようとしているような、探るような目。
「考えすぎかもしれない」
「……うん。でも、気をつける」
まふゆは俺の肩にもたれ、目を閉じた。
髪の匂いが深くなる。
石鹸と、カレーのスパイス。
「……おやすみの充電」
「ん」
腕を回すと、彼女は小さく身を丸めた。
体温が重なり、今日の冷たい視線が少しずつ遠ざかる。
眠りに落ちる前、俺は明日の弁当のおかずを考えていた。
俺の方には、ウインナーを入れよう。
まふゆの方には、ミートボール。
それだけの違いで、バレるリスクが少し下がる。
小さな工夫の積み重ね。
それが、俺たちの生活を守る方法だった。
まふゆの寝息が深くなる。
俺はその音を聞きながら、雫の冷たい目を思い出していた。
あの人は、何を見ている?
何を探している?
答えは出ないまま、俺も眠りに落ちた。
——翌朝、俺は廊下で雫と鉢合わせた。
彼女は俺を見つめ、短く言った。
「放課後、生徒指導室に来い。二人で」
胸の奥が、キリキリと痛んだ。
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