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第10話:終わらない日常


 アパートの狭いキッチンに、トントントン、と包丁がまな板を叩く音が響く。

 鍋からは湯気が立ち上り、カレーのスパイシーな香りが部屋中に充満していた。


「湊、人参の切り方雑じゃない?」

「男の料理なんてこんなもんだ。煮込めば一緒」

「もう、性格出るなぁ」


 隣でサラダを作っている真冬が、くすくすと笑う。

 エプロン姿の彼女は、学校でのクールな姿とは別人のように家庭的だ。


 これが、俺たちの新しい日常だ。

 付き合っているわけでもない。家族でもない。

 大家と店子であり、クラスメイトであり、秘密の同居人。

 奇妙で、不安定で、けれど心地よい関係。


「はい、完成。味見して」


 俺は小皿にカレーを掬い、スプーンで真冬の口元に運ぶ。

 真冬は自然に口を開けて、パクリと食べた。


「……ん、美味しい」

「だろ?」

「悔しいけど、湊のカレー、お店より美味しいかも」

「隠し味にコーヒーとチョコ入れた」

「へぇ、凝ってる」


 食卓を囲む。

 テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れている。

 向かい側に座る真冬は、幸せそうにカレーを頬張っている。


 ふと、思う。

 一ヶ月前まで、俺は一人でここでコンビニ弁当を食べていた。

 それが今は、学校一の美少女と一緒に手料理を食べている。

 人生、何が起こるか分からない。


「……なに? 私の顔になんかついてる?」


 視線に気づいたのか、真冬がスプーンを止めて首を傾げた。


「いや……不思議だなって」

「何が?」

「こうして、お前と一緒に飯食ってるのが」


 素直に言うと、真冬は少しだけ顔を赤らめた。


「……私だって不思議。ずっと一人だと思ってたから」


 彼女は独り言のように呟き、それから悪戯っぽく微笑んだ。


「でも、悪くないでしょ?」

「……まあな」

「素直じゃないなぁ」


 食後の片付けは、ほとんど俺がやる。

 真冬が皿を持つと危なっかしい。水を出しっぱなしにするし、泡だらけのまま皿を重ねるし。

 それでも「手伝う」と言ってくるのは、彼女なりの意思表示だ。


「じゃあ、箸だけ洗って」

「ん」


 彼女は真剣な顔で箸を洗う。

 その姿が妙に可笑しくて、俺は笑いを堪えた。


 順番に風呂に入る。

 「一緒に入りたい」という提案は、今日も全力でかわした。

 この距離感の維持も、意外と体力がいる。


 風呂上がりの真冬は、髪をタオルで拭きながら、冷蔵庫からプリンを取り出した。

 今日、スーパーで買ってきた戦利品だ。


「湊も食べる? 半分こ」

「おう」


 ソファに並んで座り、一つのプリンを二人でつつく。

 距離が近い。

 風呂上がりの石鹸の香りと、甘いプリンの香りが混ざり合う。


 真冬が少しだけ身を寄せてきた。

 首筋に小さな鼻先が触れ、スンスンと音がする。

 いつもの「検閲」だ。


「……合格」

「毎回やるのか、それ」

「湊の匂い、確認しないと落ち着かない」


 検閲が終わると、腕が回ってきて、ぎゅっと抱きつかれる。

 「上書き」。

 この儀式があるから、俺は明日も学校で平然と他人を演じられる。


 テレビでは芸人が大げさに転び、笑い声が部屋を満たす。

 真冬はクッションに顔を埋めて、肩を震わせている。

 外では見せない顔だ。


「……ねえ、湊」

「ん?」

「明日も、明後日も、この先も……ずっと、こんな日が続くのかな」


 その声には、少しの不安が混じっていた。

 彼女にとって、この温もりはまだ、壊れやすい夢のようなものなのかもしれない。


「続くよ」

「……本当?」

「ああ。……てか、将来の話しようぜ」

「将来?」

「大学、どうすんの。俺はこの辺の私立狙ってるけど」

「……私も、近くがいい。湊と同じとこ」

「お前、成績いいんだから国立行けよ」

「やだ。湊と離れたくない」


 俺は苦笑した。


「じゃあ、大学卒業したら?」

「……湊と一緒に住む」

「それ、今と同じじゃん」

「今と同じがいい」


 真冬は俺の腕に頬を寄せて、幸せそうに目を細めた。


「……親は? 報告とか、しなくていいのか」


 何気なく聞いた瞬間、真冬の身体が微かに強張った。

 ほんの一秒。けれど、確かに。


「……しない」


 その声は、さっきまでの甘さが消えていた。

 俺は「そうか」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。

 地雷を踏んだ感触。でも今は、深く掘り下げるべきじゃない。


 真冬も意図的に話題を変えた。


「毎朝、湊に起こしてもらって。湊のご飯食べて。一緒に出かけて。夜は一緒にテレビ見て……」

「お前、俺を家政夫か何かだと思ってないか?」

「違うよ。家族」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 家族。

 俺たちは、いつの間にかそんな関係になっていたのかもしれない。


「……ねえ、湊」

「ん?」

「私ね、今、すごく幸せ」

「……俺も」

「えへへ」


 真冬は俺の胸に顔を埋めて、くすくす笑った。

 プリンの甘い匂いと、石鹸の香りと、彼女の体温。

 このまま時間が止まればいいのに、と本気で思った。

 ずっとこの瞬間を見ていたい。

 テレビの笑い声が遠い世界の出来事のように聞こえる。

 俺たちだけの、完璧な夜——


 ふと、テーブルの端に置いた真冬のスマホが目に入った。

 画面は暗いまま、沈黙している。

 そういえば、最近、彼女のスマホが鳴るのを見たことがない。

 ——まあ、鳴らない方がいい。

 そう思った瞬間だった。


 ブーッ、ブーッ。


 真冬のスマホが、ローテーブルの上で震えた。

 画面に表示された名前を見た瞬間、真冬の身体が石のように固まった。


 『母』


 たった一文字。

 それが、部屋の空気を凍らせた。


 真冬の顔から、血の気が引いていく。

 唇が、青白く変わる。

 そして——彼女の嗉が、ヒク、と引きつった。

 吐き気だ。ただ文字を見ただけで、身体が拒否反応を起こしている。


 俺は動いた。

 考えるより先に、身体が動いた。

 スマホを手に取り、画面を伏せてテーブルの端に置いた。

 真冬の視界から、その文字を消すために。


「見なくていい」


 短く言った。

 けど、もう遅かった。


 真冬の呼吸が、変わった。

 浅く、速く、不規則に。

 過呼吸の前兆だ。


「……っ、……っ……」


 真冬は動かない。

 スマホは鳴り続けている。

 ブーッ、ブーッ、ブーッ。

 バイブ音が、心臓の鼓動のように部屋に響く。


 彼女の身体が、ガタガタと震え始めた。

 さっきまで俺の胸に寄りかかっていた身体が、急速に強張っていく。

 そして——

 真冬は、ソファから転がり落ちるように床に崩れた。


「真冬!」


 俺は慌てて駆け寄った。

 真冬は部屋の隅にうずくまっていた。

 膝を抱え、顔を埋め、全身を小刻みに震わせている。

 まるで、何かから身を守るように。


「……出たくない……出たくない……」


 うわごとのように繰り返している。

 これは、ただ怖がっているんじゃない。

 幼少期から刻み込まれた、条件反射だ。

 「母」という文字を見ただけで、身体が勝手に防御姿勢を取る。

 それほどまでに、深い傷。


 やがて、着信が切れた。

 沈黙が、重く落ちる。


 真冬の呼吸は、まだ乱れている。

 俺は何も言わず、彼女の隣に座り、背中をさすった。

 ゆっくりと、一定のリズムで。

 言葉は、今は要らない。


 五分ほど経って、ようやく真冬の呼吸が落ち着いてきた。

 俺は彼女の肩にそっと手を置いた。


「……真冬」

「……」


 真冬は俯いたまま、自分の膝を抱え込んだ。

 小さくなっていく。

 俺の腕の中で、どんどん小さくなっていく。


「……ごめん」

「謝ることじゃないだろ」

「でも……湊に、こんな顔見せたくなかった」


 真冬の声が、擦れていた。


「……私ね、あの人が怖いの」


 母親を「あの人」と呼ぶ。

 その響きが、二人の関係を物語っていた。


「小さい頃……テストで九十五点取ったの。夕飯の時間になっても、私の分だけお皿がなくて」


 真冬の指が、自分の腕を掴んでいた。


「泣いたら、押し入れに入れられた。朝まで」


 暗くて、狭くて、息ができない。

 その記憶が、今も彼女を縛っている。


「だから私、感情を殺すことを覚えたの。そうしないと、壊れちゃうから」


 氷の女王。

 その仮面の下に、こんな傷があったのか。


「でも、湊の前だと……全部、溢れちゃう」


 真冬が顔を上げた。

 その目には、涙が溜まっていた。


「ねえ、湊。私、おかしいかな」

「おかしくない」


 俺は真冬の頬に手を当てた。

 涙を、親指で拭う。


「お前がおかしいなら、俺もおかしい。だから、おかしいまま一緒にいよう」


 真冬の目から、涙がこぼれた。


 ——俺は今、自分を正当化しているのか。

 彼女の傍にいたい。彼女を守りたい。それは本心だ。

 でも、その「守りたい」は——彼女のためなのか。それとも、「守っている自分」に酔っているのか。

 彼女が傷ついているから、俺は必要とされている。

 その事実に、どこかで安堵していないか。

 ——俺こそが、彼女の傷を利用して独占しているのではないか。

 その解のない問いが、胸の奥でくすぶる。


「……ずるい……」


 真冬は俺の胸に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

 俺はその背中を、何度も撫でた。


 ---


 真冬が泣き疲れて眠った後、俺は一人で天井を見上げていた。


 彼女の寝顔を横目で見る。

 無防備だ。

 涙で濡れた睫毛。半開きの唇。白い首筋。

 俺の腕の中で、信じきって眠っている。


 ——やめろ。


 俺は目を閉じた。

 彼女を「女」として見てはいけない。

 俺は保護者だ。兄貴分だ。

 そういう関係じゃないと——この距離は、保てない。


 でも、心臓は嘘をつかない。

 真冬の体温を感じるたびに、胸の奥で何かが軋む。

 「家族」だと思い込もうとしている自分と、

 それ以上を求めている自分。


 同じ布団で眠る。

 毎朝、身支度を手伝う。

 彼女の髪に触れ、リボンを結び、指先が肌に触れる。


 それを「保護者の義務」だと言い聞かせている。

 でも本当は——もっと触れたい。もっと近づきたい。

 その欲望を、俺は必死に檻に閉じ込めている。


 この檻を壊したら、俺は真冬を「汚して」しまう。

 綺麗なまま守りたいのに、俺自身が一番の脅威だ。

 だから、保護者でいなければ。

 兄貴でいなければ。

 そう言い聞かせて、毎日を過ごしている。


 ——いつまで、この嘘を続けられるだろう。


 真冬が小さく身じろぎした。

 寝言で「みなと」と呟く。

 俺はその声を聞きながら、静かに息を吐いた。


 今日は、このまま眠ろう。

 明日も、同じ嘘を重ねよう。

 いつか、正直になれる日が来るまで。


 ---


 スマホの画面が暗くなる。

 『母』からの不在着信が、一件。

 その通知が、まるで監視の目のように光っていた。

 ——待て。

 さっき見た時は、いくつだった?

 真冬のスマホの『母』からの不在着信は、さっきは「一件」だったはずだ。

 今、俺のスマホには届いていない。それは当然だ。彼女の母親が俺の番号を知っているわけがない。

 でも——『母』は、俺の知らないうちに、何度も真冬に連絡を入れているのかもしれない。

 背筋が、うすら寒くなった。


「……いつか、ちゃんと話さないとな」

「……うん」

「でも、今日じゃなくていい。明日でも、来週でも、来月でも」

「……」

「お前の準備ができるまで、俺はここにいる」


 真冬は、俺の胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。


 この日常は、いつか終わるのかもしれない。

 外からの脅威が、いつか俺たちを引き裂くのかもしれない。

 でも、今夜だけは。

 今夜だけは、この温もりを守りたい。


 俺はプリンを置いて、真冬を抱きしめた。


「続くよ」

「……本当に?」

「ああ。俺が追い出されない限りは」

「追い出さない。……絶対に」


 真冬は俺の肩に、こてん、と頭を預けてきた。

 その重みが、愛おしい。


「……約束する」

「……うん」

「何があっても、ここに帰ってくる。お前のところに」

「……うん」

「だから、お前も待っててくれ」

「……待ってる。ずっと」


 学校では『氷の女王』と『モブ』。

 家では『甘えん坊な同居人』と『世話焼きな大家』。

 二重生活は、きっとこれからも俺たちを振り回すだろう。

 バレないように必死になったり、些細なことで喧嘩したり、こうして寄り添ったり。


 面倒くさくて、騒がしくて、でもとびきり甘い日々。

 それが、どこまでも続いていくのだと信じたい。


「……眠くなってきた」

「歯磨いて寝ろ」

「……湊と一緒に磨く」

「一人で磨けるだろ」

「磨けるけど、一緒がいい」

「……はいはい」


 洗面所で並んで歯を磨く。

 鏡に映る二人の姿が、なんだか可笑しい。

 真冬は眠そうに目を擦りながら、それでも俺の隣にいる。


「……湊」

「ん」

「……おやすみ」

「おやすみ、真冬」


 窓の外には、満月が浮かんでいる。

 俺たちの長い夜は、まだ始まったばかりだ。


 真冬はゆっくりと目を閉じ、俺の肩に頭を預けた。

 その重みが、今日一日の終わりを告げる。

 ——でも、しがみつく力が、いつもより強い。

 爪が食い込むほど、俺の腕を掴んでいる。

 彼女の額が、異常に熱い。泣きすぎて、体温が上がっているのだ。

 これが、母親からの着信があった夜の、本当の姿。

 平穏なおやすみなんか、彼女には存在しない。


 明日も同じように起きて、同じように距離を測る。

 その繰り返しに、きっと意味がある。

 意味があると信じたい。


 「おやすみの充電」は、言葉じゃなくて体温で行う。

 それが俺たちの、静かな約束だ。


 灯りを落とすと、部屋は静かな影で満たされる。

 常夜灯の淡い光の下で、真冬の寝息が規則正しく聞こえた。

 俺は彼女の髪を指先で整え、深呼吸を一つした。


 十年前の約束が、ここまで引っ張ってきた。

 今の俺は、あの時の子供よりは大人だ。

 でも、大人と言うにはまだ足りない。

 その中途半端さが、真冬の重さを受け止めるにはちょうどいいのかもしれない。


 明日も、隣にいる。

 明後日も、朝の充電をする。

 その積み重ねが、いつか本物になる。

 そう信じて、俺は目を閉じた。


 終わらない日常が、また始まる。


 ---


 【まふゆ視点】


 湊が眠ったのを確認してから、私はそっと目を開けた。


 暗い天井。

 常夜灯のオレンジ色の光。

 隣で聞こえる、湊の寝息。


 ——眠れない。


 身体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。

 さっきの着信が、まだ耳の奥で鳴り響いている。

 『母』という二文字が、網膜の裏に焼きついて離れない。


 逃げてきた。

 あの家から、あの人から、逃げてきた。

 湊のところに来れば、もう大丈夫だと思っていた。

 でも——違った。

 あの人は、まだ私を見ている。

 まだ私を、手放すつもりはないらしい。


 ぎゅっと、湊の腕を握る。

 眠っている彼は、反射的に私を抱き寄せてくれた。

 その温もりが、怖いくらいに心地いい。


 ——私、湊に依存してる。


 分かってる。

 自分じゃ何もできない。朝も起きられない。ご飯も作れない。

 湊がいないと、生きていけない。

 そんな自分が、情けなくて、惨めで、嫌いだ。


 でも、やめられない。


 湊の匂いを吸い込む。

 シャンプーと、石鹸と、湊だけの匂い。

 これを嗅ぐと、落ち着く。安心する。

 だから、毎朝「検閲」して、「上書き」して。

 まるで儀式みたいに繰り返している。


 ——おかしいよね。


 普通の女の子は、こんなことしない。

 普通の幼馴染は、こんな距離感じゃない。

 分かってる。全部分かってる。

 でも、やめたら壊れてしまう。

 湊なしの私は、空っぽだ。


 母親の声が、頭の中で響く。


 ——お前は私の最高傑作なの。

 ——感情なんて邪魔なものは、捨てなさい。

 ——完璧でいなさい。常に、完璧で。


 だから、学校では「氷の女王」でいる。

 感情を殺して、誰にも近づかせない。

 そうしないと、また壊れてしまうから。


 でも、湊の前だけは違う。

 湊の前だけは、全部溢れ出してしまう。

 子供みたいに甘えて、わがまま言って、泣いて。

 それを湊は、全部受け止めてくれる。

 嫌な顔一つしないで、ずっと傍にいてくれる。


 ——なんで?


 私は湊に、何も返せていない。

 迷惑ばかりかけて、負担ばかり増やして。

 それでも湊は、「続くよ」って言ってくれた。

 「ここにいる」って、約束してくれた。


 涙が、また溢れそうになる。

 ダメだ。湊を起こしちゃう。

 声を殺して、唇を噛む。


 ——私は、湊を幸せにできてるのかな。


 分からない。

 分からないけど、離れたくない。

 離れたら、今度こそ壊れてしまう。


 湊の胸に顔を埋める。

 彼の心臓の音が、私の頬に伝わってくる。

 規則正しい鼓動。生きている証。

 この音を聞いていると、私も生きていられる気がする。


 ——ずるいよ、湊。


 こんなに優しくされたら、もう離れられない。

 依存だって分かってる。歪んでるって分かってる。

 でも、やめられない。やめたくない。


 だって——


 湊といる時だけ、私は「まふゆ」でいられるから。

 「朝凪真冬」でも「氷の女王」でも「最高傑作」でもなく。

 ただの「まふゆ」でいられるから。


 それが、どれだけ贅沢なことか。

 あの家では、一度も許されなかったことだから。


 湊の寝顔を、暗闘の中で見つめる。

 穏やかな顔。

 私のせいで、眠りが浅くなっているかもしれない。

 でも、文句一つ言わない。


 ——ごめんね、湊。

 ——ありがとう、湊。

 ——大好きだよ、湊。


 声には出さない。

 出したら、きっと泣いてしまうから。


 代わりに、彼の手を握る。

 眠っている彼の手が、反射的に握り返してくれた。

 それだけで、胸がいっぱいになる。


 いつか、ちゃんと伝えなきゃ。

 私の気持ちを。私の感謝を。私の全部を。


 でも、今日じゃない。

 今日は、このまま眠ろう。


 湊の温もりに包まれて、私はゆっくりと目を閉じた。

 母親からの着信のことは、頭の隅に押しやった。

 明日になれば、また考えなきゃいけない。

 でも今夜は——今夜だけは、この幸せに溺れていたい。


 ——おやすみ、湊。

 ——明日も、その先も、ずっと一緒にいてね。


 そう祈りながら、私は微睡みの中に落ちていった。

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