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第9話:秘密基地の戦い


 放課後のスーパーマーケット。

 照明の白さがやけに鋭く、床に反射する光が眩しい。

 俺――夏目湊は、野菜売り場の端でカゴを抱え、通路の先を睨んでいた。


 今日のミッション。

 『特売の豚肉と夕飯の材料を確保し、誰にも見つからずに帰還すること』。

 難易度は高い。ここは生活圏だ。学校から離れていても、誰に見られるか分からない。


 通路の向こうから、制服の集団が騒がしく笑っている。

 聞き慣れない声だから同じ高校ではなさそうだが、油断はできない。

 俺は人参と玉ねぎ、じゃがいもを手に取り、カゴに静かに落とした。


 ポケットのスマホが震えた。


『いまどこ?』


 LINE。真冬だ。


『野菜コーナーの端。カボチャの前』

『私は魚コーナー。ブリが安い』

『今日はカレーだ』

『分かってる。報告しただけ』


 短いやり取りが、互いの位置確認になっている。

 声は出さず、視線は合わせず。ここではそれが鉄則だ。


 視界の端に、銀色が揺れた。

 朝凪真冬。制服を完璧に着こなし、買い物カゴを片手に歩いている。

 その姿は、スーパーマーケットという日常の風景に刺さるくらい目立つ。

 周りの客がつい二度見するのも分かる。


 真冬は俺の位置に気づくと、視線をほんの僅かだけ細めた。

 合図だ。


「……カレールー、中辛でいい?」


 蚊の鳴くような声で、真冬が囁いた。


「……ああ、頼む」


 それだけ。

 俺たちは擦れ違い、真冬は調味料コーナーへ、俺は精肉コーナーへ向かった。

 スパイ映画みたいな連携だ。


 精肉コーナーの冷気が腕に触れる。

 俺は豚小間切れの特売パックを確保し、息を整えた。

 これで勝率は上がる。


 次はレジだ。

 混んでいる列に並び、スマホをいじるふりをする。

 斜め前の別レジには真冬が並んでいる。

 カゴの中にはカレールーと福神漬け、そしてプリンが二つ。

 ……ちゃっかりおやつを確保している。


 目が合った瞬間、真冬が口元だけで「ふふん」と笑った。

 余裕だな。


 そう思った次の瞬間――。


「あれ? 朝凪さんじゃん」


 心臓が止まりそうになる。

 同じクラスの男子が二人、レジの後ろに立っていた。

 ——バスケ部のジャージ姿。この近くの市民体育館で練習があったんだろう。


 田中——バスケ部のエースで、クラスの人気者。悪気はない。悪気はないからこそ厄介なタイプだ。無自覚にデリカシーがなく、誰にでも気軽に話しかけるから友達が多い。

 山下——田中の腰巾着で、他人の話に便乗するのが得意。

 正直、今一番関わりたくない組み合わせだ。


「うわ、マジだ。奇遇~」


 田中がにやにやしながら近づいてくる。

 真冬の肩が小さく跳ねたが、次の瞬間には「氷の女王」モードに切り替わっていた。


「……こんばんは」


 冷ややかな声。だが、カゴを持つ指先が震えているのが、俺には分かる。


「カレー? 家庭的じゃん。つーかさ、プリン二つあるけど、妹いんの?」


 田中の質問に、真冬が一瞬固まった。

 俺の心臓も跳ねる。


「……そう。妹がいるの」

「マジで? 可愛い? 紹介してよw」

「お前、先に連絡先聞けって」


 山下が便乗して茶化す。

 軽い。あまりにも軽い。

 ——でも、それが「普通」なんだ。

 気になる女子を見かけたら声をかける。妹がいると聞いたら興味を持つ。それが普通の高校生の反応だ。田中も山下も、何もおかしくない。

 おかしいのは、俺たちの方だ。

 同居している女子とスーパーで買い物。バレたら終わる秘密。その緊張感を「当たり前」として受け入れている俺たち。

 ——まともな奴から見たら、俺たちの関係は異常だ。

 その事実が、田中の屈託のない笑顔に映し出されている。

 ——あの笑顔が、凶器に見える。

 悪意がないからこそ鋭い。無邪気だからこそ、俺たちの「異常」を無遮遮に切り裂く。

 俺は顔を伏せ、スマホをいじるふりをした。存在を消さなければならない。


「……妹は、人見知りだから」

「えー、残念。写真とかないの?」


 田中がしつこく食い下がる。

 真冬のカゴを持つ指先が、白くなるほど力が入っているのが見える。


 レジのおばちゃんが救いの手を差し伸べた。


「はい、次の方ー!」


 真冬の番だ。

 彼女は救われたようにカゴを置き、レジを通る。


「ちぇっ、ガード堅いなー」

「ま、学校でまた話そうぜ」


 去っていく背中を見送りながら、俺は息を吐いた。

 危なかった。


 会計を済ませ、サッカー台で袋詰めを終える。

 店を出ると、夜の空気が肌を撫でた。


 街灯の下で、真冬が待っていた。

 表情は、いつもの「氷の女王」のまま。完璧な無表情。

 だが、買い物袋を持つ指先だけが、微かに震えていた。


「……帰ろう」


 真冬はそれだけ言って、歩き出した。

 俺は何も言えず、その後を追う。


 帰り道、二人とも無言だった。

 真冬は前を向いたまま、一度も振り返らない。

 俺には分かる。今、彼女は必死なのだ。崩れないように、溢れ出さないように、全神経を集中させている。


 玄関のドアを開け、中に入り、鍵を閉める。

 カチャリ、という音が響いた瞬間——。


 真冬の膝が、折れた。


 買い物袋が床に落ちる。中身がばらばらと転がる。

 彼女はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。


「……怖かった」


 その声は、震えていた。


「バレるかと思った。……湊と一緒にいるの、バレるかと思った」

「……」

「私、うまく嘘つけなかった。妹なんていないのに。……ばれたらどうしよう」


 真冬の手が、俺の袖を掴む。

 その指先が、冷たく震えている。


「……湊、私、汚いね」


 真冬が、自分の手を見下ろして员いた。


「平気で嘘ついた。完璧な人形みたいに、笑顔で嘘ついた。……こんなの、私にはできないと思ってたのに」


 声が、かすれている。

 彼女は、「嘘をつけない子」だった。

 人形みたいに育てられたから、嘘をつく必要がなかった。命令に従うだけでよかった。

 でも、今日、彼女は初めて「嘘」を覚えた。

 俺との秘密を守るために。


 ——妹がいる設定。

 咄嗟に出た嘘とはいえ、これは危険だ。

 時限爆弾を抱え込んだようなものだ。

 あの男子たちが明日、誰かに話す。「朝凪さんに妹がいるんだって」。そこから広まる。「どこの学校?」「何歳?」「似てる?」。そして誰かが気づく。「え、朝凪さんって一人っ子じゃなかった?」

 嘘は、つき続けなければならない。でも、嘘は必ずどこかで綻ぶ。

 ——いつかバレる。その時、俺たちの関係は完全に終わる。

 胃の奥がきゅっと縮む。


「……大丈夫だ」


 俺は真冬の手を握った。


「お前の嘘、完璧だった。あいつら、完全に信じてた」

「……本当?」

「ああ。演技派だよ、お前は」


 真冬は俺の手を握り返し、深呼吸をした。

 少しずつ、震えが収まっていく。


「……湊が助けてくれなかったから、一人で戦った」


 上目遣いで睨まれる。

 罪悪感がチクリと刺さる。


「悪かった。でも、あそこで俺が出たら本当にマズかった」

「……分かってる。分かってるけど……」


 真冬の目から、また涙が零れた。


「……心細かったんだから」


 その言葉に、胸が締め付けられる。

 俺は彼女の荷物を奪い取り、空いた手で真冬の頭を撫でた。


「……ごめん。俺が悪かった」

「……うん」

「帰ったら、いくらでも甘やかしてやる」

「……本当?」

「ああ。今日は特別だ」


 真冬は涙を拭い、小さく笑った。


「……プリン、半分じゃなくて一個ちょうだい」

「欲張りすぎだ」

「今日は特別なんでしょ」

「……はいはい」


 俺たちは並んで歩き出した。

 風はまだ冷たく、制服の裾がかすかに揺れる。

 真冬が俺の袖をそっと掴んでいる。

 人目につかない角度で、小さく。


 アパートの階段を上ると、真冬の肩が少しだけ緩む。

 外では「朝凪真冬」。ここでは「まふゆ」。


 だが、俺の頭の中には、さっきの会話が引っかかっていた。

 『妹がいるの』——真冬がついた嘘。

 あれは、その場しのぎとしては完璧だった。

 でも、嘘は嘘だ。

 いつかバレる。必ずバレる。

 その時、何が起きる?


 「妹いるって言ってたのに、一人っ子じゃん」

 「嘘つきなの? なんで嘘ついたの?」

 「何か隠してるんじゃない?」


 そこから芋づる式に、俺との関係が掘り起こされる可能性がある。

 ——時限爆弾だ。

 今は静かに時を刻んでいるだけで、いつか必ず爆発する。


 この嘘を、どうやって処理するか。

 いつか、ちゃんと考えないといけない。

 でも、今夜は——


 真冬の顔を見て、俺はその懸念を飲み込んだ。

 今夜は、彼女を安心させることが先だ。


「……おかえり」

「……ただいま」


 玄関の鍵が閉まった瞬間、真冬は俺に抱きついてきた。

 さっきまで我慢していた分が、一気に溢れ出す。


「……怖かった」

「ああ」

「湊がいなくなったらどうしようって思った」

「いなくならない」

「……本当に?」

「ああ。約束する」


 俺は真冬を抱きしめ返した。

 細い体が震えている。

 いつもは甘えてくるだけの彼女が、今日は本当に怖かったのだと分かる。


「……検閲、する」


 真冬が首筋に顔を埋め、スンスンと匂いを嗅ぐ。

 いつもの儀式だ。


「……合格」

「そりゃどうも」

「……上書きする」


 ぎゅっと抱きしめられる。

 真冬の体温が、俺に染み込んでくる。


「……湊」

「ん?」

「……今日は、離さないで」


 その声は、いつもより小さかった。

 俺は答える代わりに、彼女の背中に手を回した。


 しばらくそのままでいた。

 玄関の冷たい空気と、真冬の温かさが混ざり合う。

 外での緊張が、少しずつほどけていく。


「……お腹空いた」


 真冬が小さく呟いた。


「カレー、作るか」

「……うん。手伝う」

「お前が手伝うと危ないだろ」

「箸だけ洗う」

「……それくらいなら」


 俺たちは台所に立った。

 俺が野菜を切り、真冬が隣でじっと見ている。

 時々、袖を引っ張ってくる。

 離れたくないのだ。


「……湊」

「ん」

「……ありがとう」

「何が」

「……守ってくれて」


 俺は包丁を置いて、真冬の頭を撫でた。


「守ったのはお前だ。俺は何もしてない」

「……でも、帰る場所があるから頑張れた」

「……」

「湊がいるから、嘘もつけた」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「……カレー、焦げるぞ」

「……湊の照れ隠し」

「うるさい」


 真冬がくすくす笑う。

 その笑顔を見て、俺は安心した。

 大丈夫だ。もう、大丈夫だ。


 カレーが煮える音を聞きながら、俺たちは肩を並べて立っていた。

 スパイスの匂いが立ち上がり、窓の外には夜の闇が広がっている。


 秘密基地の戦いは、なんとか勝利で終わった。

 戦利品はカレーの材料。

 そして一番の報酬は、こうして二人で過ごす時間だ。


 真冬が俺の腕にそっと頬を寄せた。

 その温もりを感じながら、俺は明日のことを考える。


 また学校で、他人を演じる。

 また距離を取って、視線を合わせないふりをする。

 でも、帰ってくればここがある。


 この場所がある限り、俺たちは大丈夫だ。

 そう信じたい。

 信じられるようになりたい。


 鍋の蓋がカタカタと鳴り、湯気が天井に昇っていく。

 真冬が「いい匂い」と呟いた。

 その声を聞きながら、俺は小さく笑った。


 今日も、無事に帰ってこられた。

 それだけで、十分だ。

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