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第1話:目覚めたら5歳児がいた


 目が覚めると、隣にまふゆがいた。


 正確に言えば「隣」じゃない。俺の右腕に全体重を預け、シャツの裾を両手で握りしめ、足まで絡めてきている。寝息はすぅすぅと規則正しい。甘いシャンプーの残り香が、枕元からふわりと漂ってくる。


 時計は午前六時半。

 春の朝日がカーテンの隙間から差し込んで、銀色の髪をきらきらと照らしている。


 ——朝凪まふゆ。

 俺の幼馴染で、隣の部屋の住人。

 学校では「氷の女王」と恐れられる完璧美少女。


 家では、中身が完全に五歳児だった。


「……みなと」


 薄く開いた瞳が、ぼんやりと俺を捉えた。紫がかった瞳は寝起きで焦点が合っていない。


「おはよう、湊。……まふ、おなかすいた」


 おはようの次がそれか。

 挨拶と食事要求の間に一呼吸もない。パブロフの犬より条件反射が速い。


「おはよう。まず俺の腕を返してくれ」

「……やだ」

「朝飯作れない」

「……やだ」

「じゃあ飯なし」

「…………おんぶ」


 交渉が成立する前に要求が変わった。


「3秒以内にしないと泣く」


 出た。必殺のカウントダウン。


「1」

「待て」

「2」

「だから待て」

「2.5」


 ——カウントに小数点を導入するな。


 俺は観念して布団から這い出し、背中を向けた。

 すると即座に、ひんやりとした腕が首にかかる。末端冷え性のくせに、やたら吸着力が高い。背中にぺたりと張りついた体は、見た目より確かな重みがある。


「……あったかい」


 耳元で囁かれて、首筋の毛が逆立った。

 ——朝から心臓に悪い。いや、こいつに悪気はない。毎朝のことだ。慣れろ。


 おんぶしたまま洗面所まで運ぶ。背中から微かに聞こえるまふゆの心臓の音が、とくとくと規則正しい。


 洗面所の前で降ろすと、まふゆはぺたんと床に座り込んだ。歯ブラシを無言で差し出してくる。


「自分で磨け」

「……む」


 不服そうに頬を膨らませたが、渋々口に入れた。

 しゃかしゃか。ごしごし。磨き方が雑すぎる。奥歯もやれ。


 まあいい。一人でできてるだけマシだ。


 こいつの「一人でできること」は、驚くほど少ない。

 洗濯機の回し方を知らない。電子レンジでアルミホイルを温めようとする。調味料の「さしすせそ」の「そ」がソースだと思っている。

 そ、は味噌だ。


 ついでに言えば、帰宅した俺に飛びついて匂いを嗅ぎ回る儀式がある。本人は「検閲」と呼んでいる。他の女子の匂いがしたら不合格。判定基準は「湊以外の匂いが0.1パーセント以下」。測れるのかと聞いたら「鼻が覚えてる」と真顔で返された。お前は犬か。


 そんな生活が、かれこれ二ヶ月目に突入していた。


 リビングに戻り、キッチンに立つ。

 フライパンを火にかけ、バターをひとかけ落とす。じゅわ、と甘い匂いが広がった。冷蔵庫から卵を三つ取り出し、ケチャップライスの具材を刻む。玉ねぎ、ウインナー。ミックスベジタブルもひと掴み。

 まふゆの朝食は九割方オムライスだ。和食を出すと箸が進まないが、オムライスだけは完食する。


 背中に、ぺたり。


 来た。


 調理中に背中に張り付くのは、朝のルーティンだ。

 俺のTシャツの裾を両手で握り、おでこを肩甲骨のあたりに押し付けてくる。背中に伝わる体温は低い。末端冷え性のまふゆが人間湯たんぽを求めてへばりつく——本人曰く「充電」。しないと一日持たないらしい。


「離れろ。油が跳ねる」

「……充電中」

「何分かかるんだよ」

「……満タンまで」


 満タンがいつなのか教えてくれ。


 仕方なく、背中にまふゆをくっつけたままフライパンを振る。

 卵液を薄く広げ、ケチャップライスを包み、皿の上に滑らせた。我ながら綺麗なフォルム。

 まふゆの分は少し大きめにした。理由はない。ない、ったらない。


「できたぞ」

「…………」


 返事がない。背中にかかる重みが増している。


「おい。寝るな」

「……寝てない。充電の最終段階」

「充電に段階があるのか」

「……ある。今、98パーセント」


 あと2パーセントに何秒かかるんだ。


 まふゆが背中からぺりっと剥がれて(本当にそういう音がした)、テーブルについた。

 目の前のオムライスをじっと見つめる。

 そして、ケチャップのボトルを無言で俺に差し出した。


「……描いて」

「毎朝言うな」

「……描いて」


 溜息をつきながら、ケチャップで顔を描く。

 丸い輪郭。点の目がふたつ。弧を描いた口。保育園児でももう少しマシなものを描く。


 まふゆがじっとそれを見つめた。

 唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。


「……合格」


 何の合格だよ。


「いただきます」

「……いただきます」


 静かな朝の食卓。

 スプーンが皿に触れる小さな音。まふゆがオムライスを口に運ぶたびに、硬かった目元がほんの少しずつ緩んでいく。

 マヨネーズに手を伸ばしかけたのを、無言で止めた。


「……ケチ」

「味がぶっ壊れる」

「……まふの好み」

「俺の作品」


 こんなやりとりを、もう何十回繰り返しただろう。

 毎朝同じ。代わり映えのしない日常。

 それが妙に心地いいことに、俺はとっくに気づいている。

 ——気づいていて、それに名前をつけないことにしている。


 食器を洗い終え、制服に着替え、準備を整える。

 玄関に向かうと、まふゆは既に完璧な身支度で立っていた。


 銀色の髪は一筋の乱れもない。制服は皺ひとつなく着こなされ、リボンの位置も襟の折り返しも寸分の狂いがない。背筋がすっと伸び、陶器みたいに整った横顔には、さっきまでの甘さの欠片もない。


 ——三分前まで俺の背中でスライム化していた女と同一人物とは思えない。


 まふゆが玄関の扉に手をかけた。

 振り返る。

 その瞳から、「まふゆ」が消えた。

 代わりに宿ったのは、触れれば凍傷を負いそうな冷たい光。


「……行ってきます」


 声のトーンまで別人だ。一オクターブ低く、感情の削ぎ落とされた、教室仕様の声。


「……おう。行ってらっしゃい」


 扉が閉まった。

 靴音が遠ざかっていく。カツ、カツ、と正確な間隔で。さっきまでスリッパをぺたぺた引きずっていた足音が嘘みたいだ。


 ——切り替え早すぎだろ。


 窓から見下ろすと、まふゆが通学路を歩いていた。背筋を伸ばし、前だけを見据え、誰にも隙を見せない完璧な横顔。朝の光が銀髪を透かして、きらきらと輝いている。

 すれ違う男子生徒が振り返る。女子生徒がひそひそと何か囁き合っている。


 あれが、成和高校の「氷の女王」。

 誰も近づけない、高嶺の花。


 五分前まで俺のオムライスにケチャップの顔を描いてもらってご満悦だった女が、だ。


 この落差を知っているのは、世界で俺一人。

 ……その事実に、ちょっとだけ優越感を覚える自分がいる。


 玄関に残されたスリッパが、片方だけひっくり返っていた。

 直しながら、ため息をひとつ。


 さてと。弁当のおかず、どうするか。

 タコさんウインナーにしないと食べないからな、あいつ。

 あと卵焼きは甘め。白飯は少なめ。デザートにチョコパイを一個忍ばせておく。


 ……俺はいつから、幼馴染の保護者になったんだっけ。


 エプロンを結び直す。

 終わらないおままごとの、今日も一日が始まる。


 ——ところで、冷蔵庫を開けたらチョコパイの在庫が残り一箱になっていた。

 まだ月半ばだぞ。予算が持たない。


 今日の帰りに買い足さないと、あいつ本気でストライキを起こしかねない。

 前回チョコパイが切れた時、まふゆは三時間俺の部屋の前で正座していた。無言で。目がハイライトを失った状態で。


 ——あれは怖かった。


 よし、帰りにスーパー寄ろう。多めに買っておこう。

 ……三箱。いや、四箱か。

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