第0話:十年越しの、ただいま
息を吐くと、白かった。
アパート『メゾン・ナツメ』の一〇二号室。
天井の照明すら取り付けられていない薄暗い部屋で、私は呆然と立ち尽くしていた。
周囲を取り囲むのは、未開封の段ボールの山、山、山。
壁際にうず高く積み上げられたそれが、私を圧殺しようと迫ってくる城壁みたいに見えた。
窓の外では季節外れの雨がアスファルトを叩いていて、その音だけが孤独を刻んでいる。
「……つかれた」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも届かないまま、闇に吸い込まれて消えた。
窓ガラスにぼんやり映る自分の姿が、幽霊みたいで怖かった。
かつての私は、こんな目をしていただろうか。
冷たく乾いた瞳。感情の温度が綺麗に拜い取られて、ガラス玉みたいになった目元。
——これが、ママの「最高傑作」の成れの果てか。
今日からここで一人暮らしが始まる。
高校入学を機に、ママが用意してくれた新居。世界的なファッションデザイナーの母が。
『まふゆももう高校生なんだから、自立なさい。生活に必要なものは全部揃えてあるから、あとは自分でなんとかしなさい。ママの最高傑作なんだから、できるでしょう?』
そう言って、高級ブランドのドレスを飾り棚に置くように、私をこの部屋に配置した。
必要なもの——家具や家電のこと。私自身のことじゃない。
ママにとって、私は「作品」であって「娘」じゃない。
場所は、私が小さい頃に住んでいた街。
思い出の詰まった、置き去りにしてきた街。
——あの子と、お別れした街。
でも現実はこれだ。
理想的な自立なんて程遠い、サバイバルみたいな初夜。
スマホのバッテリーは残り7%。充電器はどの段ボールに入ってるのかわからない。
コンビニで買ったおにぎりは一口も喉を通らなかった。
「……みなと。おなかすいた」
無意識のうちに、その名前が口をついて出た。
十年前に別れたきりの、幼馴染の名前。
舌の上で転がすだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
小さい頃、二人でよく遊んだ。
湊がパパ役で、私がママ役。
ただの真似事。おままごと。
でも、あの時間だけが私の「家族」だった。
記憶の中の湊は、いつも私の願いを叶えてくれた。
転んで膝を擦りむけば、誰より早く駆けつけてくれた。絆創膏を貼る手が、少しだけ震えてたのを覚えてる。
虫が怖くて泣いていれば、頼りない背中で守ってくれた。本当は湊も怖かったくせに。
変な顔をして、私を笑わせてくれた。
——私のヒーロー。私だけのパパ役。
でも、もういない。
十年前の三月。
引っ越しのトラックの前で交わした約束が、呪いみたいに、祈りみたいに、頭の中でぐるぐる回っている。
『俺が大人になったら、迎えに行くから』
『……ほんとう?』
『ああ。約束する。だから、泣くなよ』
——大人になったら。
じゃあ、十六歳はまだ大人じゃないのかな。
私は膝を抱えてうずくまった。
段ボール箱のひとつに背中を預け、目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、最後に見た湊の泣き顔。
あのとき湊も泣いてた。「泣くなよ」って言ったくせに、自分の方がボロボロ泣いてた。
その時だった。
ピンポーン。
無機質なチャイムの音が、静寂を引き裂いた。
びくっと肩が跳ねた。
心臓がうるさい。
指先が震えている。低血糖のせいか、寒さのせいか。たぶん両方。
こんな時間に誰だろう。今は夜の九時を回っている。
新聞の勧誘? 不審者?
この街には十年ぶりに戻ってきたばかりで、知り合いなんていない。
ママは海外。パパは……まあ、いい。
とにかく、このドアを開けちゃダメだと本能が警告している。
息を殺した。
居留守を使おう。じっとしていれば、そのうち諦めて帰るはず——
ピンポン。ピンポン。ピンポンピンポン。
しつこい。連打してくる。
「おい、いるんだろ? 一〇一号室の夏目だ。引っ越しの挨拶に来たんだけど」
——心臓が、止まった。
夏目。ナツメ。
忘れるはずがない。夢にまで見た、あの声。
少し低くなってる。でも、響き方は変わらない。
私は弾かれたように立ち上がった。
膝が笑ってる。手が震えてる。
それでも鍵を回して、ドアを引き開けた。
取っ手が冷たくて、指先が一瞬だけ止まる。
扉と指の隙間に、十年分の空気が挟まった。
冷たい夜風が頬を撫でた。
廊下のオレンジ色の灯りが、眩しくて目を細める。
逆光の中に、一人の少年が立っていた。
距離は、たった一歩分。
近いのに、踏み込めない。
黒髪の短髪。
目つきの悪い三白眼。 ——怖い。
本能が警鐘を鸣らす。こんな時間に、こんな場所で、逆光の中に立つ知らない男。
足が後ろに下がりかけた。
でも、その瞬間——。 グレーのパーカーにジーンズ。どこにでもいそうな格好。
手にはコンビニの白いレジ袋。
背は高くなってるけど、猫背気味の立ち姿は昔のままだ。
匂いがした。
雨に濡れた髪の下、パーカーの柔軟剤の奥に——あの頃と同じ匂い。
触れていないのに、指先が震えた。
間違えるはずがない。
「……みなと?」
名前を呼びながら、手が伸びかけて——止まった。
あと十センチ。それだけの距離が、十年分の空白みたいに重い。
触れたら夢が覚める気がした。触れなければ、このまま溶けてしまいそうだった。
掠れた声で名前を呼んだ。
喉が張り付いて、うまく声が出ない。
湊——夏目湊は、手に持っていたレジ袋をガサリと揺らして、目を丸くした。
三白眼が極限まで見開かれている。
息を呑む音が聞こえた。
「……え、嘘だろ」
湊の視線が、私の顔に釘付けになる。
食い入るように見つめてくる。まるで幽霊でも見たみたいに。
私も湊を見つめ返した。
十年ぶりだ。十年ぶりの、湊。
——ああ、変わってない。
困った時に目を泳がせる癖。
言葉を探すように唇を薄く開く仕草。
全部覚えてる。全部私の湊だ。
湊の手が、かすかに震えているのが見えた。
平気なふりをしてるけど、動揺してる。私と同じだ。
それだけで、凍えていた身体の芯に小さな火が灯った。
「お前、朝凪か? まふゆ、なのか?」
「……うん。みなと、ひさしぶり」
認識してくれた。
十年経っても、湊は私を忘れてなかった。
——でも、湊の目が一瞬、戸惑いで揺れたのも分かった。
当然だ。あの頃の私は、もっと小さくて、もっと丸くて、もっと泣き虫だった。
十年で、顔も体も全部変わってしまった。
なのに湊は、私を見つけてくれた。
嬉しくて、泣きそうで、でも泣いたら止まらなくなりそうで、私は必死に唇を噛んだ。
「マジかよ……ここ、俺の実家のアパートだぞ? まさか新入居者がお前だったなんて」
湊は信じられないって顔で、片手で顔を覆った。深い息を吐き出す。
——あ、この仕草。
十年前と、何も変わってない。
困った時に目を泳がせて、うなじを掻いて、それでも絶対に逃げ出さない。
あの頃、鼻水を垂らして泣いていた私の面倒を見てくれた時と、同じ顔をしている。
今の私と、あの頃の私。
きっと湊の中で、ようやくパズルのピースが嵌まったんだ。
あんなに小さかった鼻の形が、今の私の顔の中にまだ残っていることに、やっと気づいてくれた。
涙がこぼれそうになって、慌てて下を向いた。
「……ぐうぜん、だね」
「偶然すぎるだろ。……で、お前、こんな時間に電気もつけずに何してんだ?」
「……」
「まさか、節約中か?」
湊が訝しげに部屋の中を覗き込む。
深淵みたいな闇がそこにある。私が何時間も座り込んでいた、冷たい闇。
「……あのね、みなと」
「ん、なんだ? とりあえず立ち話もなんだし、ここ寒いから中入るか?」
「れいぞうこ、からっぽ」
「はい?」
「のみものない。のどかわいた。あと、ここさむい」
十年ぶりの感動の再会。
ドラマなら涙ながらに抱き合って、背景に花が舞うシーンかもしれない。
なのに私の口から出たのは、生存本能に直結した情けない訴えだった。
ロマンチックのかけらもない。
でも、これが「朝凪真冬」だ。
湊の前でだけ発動する、甘えと依存のスイッチが入ってしまった。
湊は一瞬ぽかんとした後、口角を上げて苦笑した。
呆れてるみたいで、でも嬉しそうにも見えた。
その笑顔を見た瞬間、時間が十年巻き戻った。
「……お前、中身は全然変わってねえな」
強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。
中身は子供のまま。それを否定されなかった。
じゃあ、まだ『おままごと』の続きをしてもいいのかな。
「ほら、これ」
湊が差し出したのは、温かい缶のコーンスープだった。
缶の表面に、まだ温もりが残ってる。
「自販機で買ってきた余りだ」
受け取ろうとして——指が触れた。
ほんの一瞬。爪の先が、湊の指の腹をかすめた。
——温かい。
湊の指が、びっくりするほど温かかった。
そして私の指は、きっとびっくりするほど冷たかったはずだ。
湊が一瞬、眉を顰めたのが見えた。
「こいつ、どれだけ冷えてるんだ」——そう思ったに違いない。
缶を受け取る、ただそれだけの動作なのに、指先の軌道がもつれて、もう一度触れた。
今度は、湊の方から私の手を包み込むようにして、缶を渡してくれた。
まるで、凍えた小動物を温めるみたいに。
「……ん。ありがと」
声が震えた。缶の熱のせいだと思いたかった。
両手で包み込むと、じんわりと感覚が戻ってくる。
湊の体温が、缶を通して染み込んでくるみたいだった。
湊の声が少しだけ低くなった。
優しいのか、心配してるのか、怒ってるのか。
たぶん、全部。
「で、部屋の中はどうなって……って、おい」
湊がずかずかと部屋に踏み込んで、固まった。
スマホのライトで照らされる室内。段ボールの山と、冷蔵庫みたいな冷気。
外よりも寒いかもしれない。
「電気、つけてないのか? ブレーカー落ちた?」
「……つかないの」
「は?」
「スイッチおしても、なにもおきない。カチカチって音だけ。おゆもでない。じゃぐちひねっても水しかでない。ガスコンロもつかない」
「……」
嫌な沈黙。
雨の音だけがやけに大きい。
湊は壁のスイッチをカチカチいじって、給湯器のパネルを見て、ブレーカーを確認して。
全部ダメみたい。表情がどんどん険しくなっていく。
「……まふゆ。確認するぞ」
湊の声が低い。
私の顔を見て、何かを堪えるように唇を噛んでいた。
——たぶん、私の顔色がよっぽど悪かったんだと思う。
冷えきった部屋で何時間も座り込んで、おにぎりも食べられなくて、スマホの電池も切れかけて。
きっと今の私は、幽霊みたいに青白い顔をしている。
「お前のお母さん、電気とガスと水道の開栓手続きしたって言ってたか? 『一週間前までに連絡してください』みたいなやつ」
「ママ? ……『全部やっておいたから、まふゆは服だけ持ってけばいいわよ〜』って、LINEで」
「あの人の『全部』って、インテリアのコーディネートのことじゃないだろうな……」
湊が天を仰いだ。
私は首を傾げる。
ママは忙しい人だ。世界中を飛び回って、パリコレで喝采を浴びる。
娘のことより、新しいコレクションのことで頭がいっぱい。
きっと「全部やった」と思い込んでる。
——いや、違う。
ママは「全部やった」なんて思ってない。
最初から、私が生活できるかどうかなんて、視界に入っていなかったんだ。
綺麗な部屋に娘を配置した。それで満足。あとは勝手にしなさい。
手続きとか生活とか、そういう「地味なこと」は、ママの美意識の外にある。
「今日、金曜の夜だぞ。ていうか三月末だ。引っ越しシーズン真っ只中だぞ」
湊が頭を抱えた。
「今から電力会社に連絡しても、土日は休みだ。コールセンターだって繋がらないだろうし、開通工事なんて早くて月曜……いや、繁忙期だからもっと先かもな」
「……げつよう?」
言葉を復唱した。
月曜日。今日は金曜の夜。
土曜、日曜、そして月曜の朝まで。あと三晩。
この寒くて、暗くて、誰もいない部屋で過ごすってこと?
「……むり」
本音が漏れた。
携帯のライトだけが頼りのこの空間で、あと七十二時間。
無理。絶対に耐えられない。
暗いのは怖い。お化けが出るかも。
寒いのは嫌。風邪引いちゃう。
何より、一人は寂しい。
十年我慢してきた孤独が、湊と再会してしまったことで決壊しそうになってる。
もう一秒だって一人は嫌だ。
「……みなと」
すがるように、湊のパーカーの袖に手を伸ばした。
触れる直前で、指が止まる。
掴んでいいのかわからない。十年も会ってなかったのに、こんな風に甘えていいのかわからない。
でも——指先が、勝手に動いた。
布地に触れた瞬間、安心で膝から力が抜けそうになる。
「……くらい」
声が震えた。情けなくて、でも止められなかった。
「……おねがい」
「大げさだな……いや、この気温じゃ笑えないか」
湊は困ったように眉を下げて、頭をガシガシとかいた。
三白眼が、優しく歪む。
その瞳に、昔と同じ色が灯るのが見えた。——放っておけない、っていう色。
ああ、まだ有効だ。
私に対するこの人の甘さは、賞味期限切れじゃなかった。
お願い。
私を見捨てないで。
パパ役だった頃みたいに、私の手を引いて。
「……はぁ」
深い、重い溜息。
諦めを含んだ吐息。
湊の顔に、何かの葛藤が走ったのが見えた。
眉間にシワが寄って、三白眼がキツくなって——でもすぐに、力が抜けて。
それが降伏の合図だった。
湊は諦めたように肩を落とし、親指で廊下の向こうを指した。
一〇一号室。今は明かりがついてる。湊の部屋。
「……入れよ」
「え?」
「今日と土日、ライフラインが復旧するまで、俺の部屋を使え。……こんな欠陥住宅に幼馴染を放置して凍死されたら、大家として寝覚めが悪い」
大家。
そっか、このアパートは湊の実家が経営してるんだった。
そんな理屈はどうでもいい。
その言葉が、天啓みたいに響いた。
世界に色が戻ってくる。
「……いいの?」
「緊急避難だ。あくまで一時的な措置だぞ」
「おおやさん……! いっしょうついていく」
「重いな! そこは幼馴染に戻れよ、水くさい」
苦笑する湊の手首を、両手でぎゅっと握りしめた。
温かい。
この体温があれば、もう何も怖くない。
「ほら、行くぞ。風邪引く前に」
「……うん。おじゃまします」
湊に手を引かれて、一〇二号室を脱出した。
冷たい闘の支配する領域から、温かな光の方へ。
廊下を渡る数歩の距離。
それが、これから始まる長くて甘くて、少しだけ切ない日々のプロローグだった。
湊の手は、やっぱり温かかった。
大きくて、ごつごつしてて、でも優しい。
十年前と同じ。
おままごとの第二幕が、今まさに上がろうとしていた。
背後でドアが閉まる音が、退路を断つ号砲みたいに響いた。




