閑話 エルドレッドとブラクの約束
「私の、勘違い……だったのか?」
エバーレンス家に生まれ、家の繁栄のためにアーシュ・フィルミナスと婚約を結んだ。しかし、彼女はずっと私といても無表情で、何を考えているのか分からない、そんな少女だった。
だから、私はてっきり――彼女に疎ましく思われているのだと、そう思い込んでいたのに。
「傷の具合は如何かな、ブラク・エバーレンス」
「っ!? 誰だ」
不意にかけられた声に顔を向けると、そこには黄金の髪を揺らし、燃えるような真紅の瞳を持った少年が立っていた。制服のネクタイは、私と同じ二年生の色だ。
「貴様……誰だ。二学年生徒の顔はすべて覚えているが、貴様のような男は見たことがないぞ」
少年は血のように赤い瞳をスッと細め、先ほどまでアーシュが座っていた椅子に、さも当然のように腰を下ろした。
「そう警戒するな、ブラク。俺はただ、『忠告』をしに来ただけだ」
「忠告だと? それはこちらのセリフだ。エバーレンス伯爵家の次期当主にそのような不遜な態度、許されると思っているのか!」
すると、少年は喉の奥でクツクツと笑った。
私は脳内の名簿を必死に検索する。同学年でありながら、どのクラスの座席表にも載っていない唯一の存在。
「貴様……確か、名前はエルドレッド……だったか。平民の特待生が、気安く私に話しかけるな」
「おや、知られていたとは。君のことを少し見直したよ」
「さっさと失せろ、下郎」
「つれないな。君をぶん殴って気絶させたのは、この俺だっていうのに」
「なん、だと……」
正気か?
目の前の男が何を考えているのか分からず、不気味さすら覚える。平民が伯爵家に手を上げれば、退学どころか極刑すらあり得る。それを自ら暴露するなど、思考回路が理解できない。
「貴様、捕まりたいのか? それとも……まさか、私をここで消すつもりで」
「おい、だから警戒するなって。忠告だけだと言っただろ」
呆れたようにため息をつく。
しかし次の瞬間、エルドレッドの瞳に不気味な光が宿った。
楽しんでいるような、あるいは深淵から見下ろしているような、恐ろしく冷たい視線。
「まずは自己紹介といこう。俺の本名は、エルドレッド・リサンドルティア。リサンドルティア公爵家の次男だが、訳あって身分を隠している」
「…………は?」
リサンドルティア公爵家。
この国を統べる四大公爵家の一角。病弱という理由で入学を辞退したはずの、支配者の一人――。
「そんな、馬鹿な……。平民が公爵家を騙るなど、それこそ死罪だぞ!」
「信じられないなら、これを見せてやるよ」
彼がポケットから無造作に取り出したのは、一つの指輪だった。
「……四皇の指輪!?」
本物を見るのは初めてだ。だが、その紋章、精巧な細工。そして何より、圧倒的な魔力を内包し輝く『純魔鉱石』。それは紛れもなく、公爵家一族のみが持つことを許される証。
「じゃあ……貴方は、本当に……」
「そういうわけだ。……さて、本題はここから」
一気に冷や汗が噴き出す。
彼がこの国の頂点に君臨する貴族だとするなら、今の私の発言こそが不敬罪に当たる。
状況は180度変わった。私は今、薄氷の上に立たされているのだ。
(ここで対応を間違えれば、私の家は消える……)
ドクドクと緊張で早鐘を打ち鳴らす心臓を必死に抑えながら、公爵子息からの『御忠告』をしかと心に刻む準備をする。
此方の戦慄を他所に、この支配者はコホンと咳払いをした後、「実は……」と話し始めた。
「俺、君の元婚約者さんに一目惚れしてしまってね」
「…………え?」
一瞬、耳を疑った。だが、エルドレッドは照れくさそうに頬をかきながら続ける。
「でも、告白をしたら『まずはお友達から』って振られちゃったんだよ」
「…………はい!?」
(振った? アーシュが、天下の公爵子息を!?)
アーシュは賢い女だと思っていたが、世紀の大馬鹿者だったのだろうか?
彼女が「好きな殿方が出来た」と言っていたが、だからといって公爵子息を振ってしまうなど、貴族として自殺するような行いだ。
「だから今、一生懸命アプローチ中というわけ」
「ッ!?」
エルドレッドは諦めていなかった。公爵子息をそこまで骨抜きにする魅力が、あのアーシュにあったというのか。
私の記憶の中の彼女は、いつも同じドレスを着て、特徴のない、つまらない女だったはずなのに。
「……で、だ。ブラク。君には俺の邪魔をしないでほしい」
熱に浮かされたような幸せに満ちた瞳が、一瞬にして氷点下の冷たさに変わる。ニヤリと笑う表情は、悪魔のようにすら見えた。
「アーシュ・フィルミナス嬢への一切の干渉を禁ずる。触れることはもちろん、話しかけることも、視線を向けることもだ」
口元は三日月の形に笑っている。だが、その上に灯っている眼光は、獲物の命を刈り取る怪物そのものだった。
「もしこれを破るなら――お前の地位も、家も、その命でさえも、この俺が刈り取ってやる」
「…………分かり、ました」
本能的な恐怖に全身が震える。私にできたのは、ただ深く首を縦に振ることだけ。
エルドレッドは満足そうに笑みを浮かべ、「よっしゃ」と軽快に呟く。
「もちろん、他言無用で頼むよ? ブラク・エバーレンス伯爵子息」
彼は立ち上がり、病室の扉へと歩き出す。
これからはもうアーシュに関わらない。そう心に固く誓って生きていこう。これで私の貴族としての体裁は保たれる……。
これで、ようやく安心できる――はずだったのに、なぜか私の口が勝手に動いていた。
「エルドレッド様……」
「……なんだ?」
「私は……彼女に、嫌われているのだと思っていました。……だから、身勝手にも、私も彼女を嫌いになってしまった。今思えば、とても……酷いことをしました」
天下の公爵子息に、いったい何を言っているのだろうか。
怪物を前にして、余計なことを言わない方が安全に決まっているのに。
なのに……それでも、言わずにはいられなかった。この『一言』を。
「アーシュを……どうか、幸せにしてやってください」
「………………」
長い沈黙。
当然だ。彼女を傷つけ、泥を塗った男がどの口で言えることか。
それでも、言わなければならないと思ったのだ。ここで言わなければ、二度とアーシェの幸せを願うことが出来ないと確信していたから。
身勝手極まりない言葉。だが、エルドレッドは一度だけ、短く答えた。
「……任せろ」
…………。
次に顔を上げたとき、そこには誰もいない。
私は、真っ白な天井をじっと見つめる。長くも、短かった三年間に想いを馳せながら。
彼女がくれた愛情も、その微笑みも。すべてを投げ捨てたのは、他でもない自分だったのだと、ようやく理解した。




