燃え尽き令嬢、元婚約者にキレられる
「貴様! 自分が何をしたのか分かっているのか!?」
淑女寮の一角。先ほどまでニエラを招き、穏やかにお茶を楽しんでいた私の自室に、その怒号は響き渡った。
「何をそんなに慌てていらっしゃるのですか、ブラク様」
彼は、帰宅するニエラと入れ替わるように部屋へ押し入ってきた。相変わらず礼儀も何もない乱暴な男だ。おかげで意図せず異性と密室に二人きり――それも、激昂した元婚約者と、である。
(マキア、早く帰ってきてくれないかしら……)
「貴様が、我がエバーレンス家に送りつけたこれだ!」
バンッ、とテーブルに叩きつけられたのは数枚の書類。先日、マキアに頼んで郵送してもらった『貸付金取り立て通知書』だ。無事に届いたようで何より。
「なんだ、このあり得ない金額は! 貴様からこんな借金をした覚えなどないぞ!」
「いいえ、しておりますわ。私が貴方に続けていた資金援助。あれはすべて、結婚時の持参金として『前渡し』していたお金ですもの」
「ならば借金ではないではないか!」
……本当に話の通じない男だ。
吠え立てるブラクに深い溜息をつき、私は子供に言い聞かせる時のような丁寧な口調を心がける。
「本来、持参金に前渡しなど存在しません。まだ結婚もしていない相手に、大金を渡す義務などありませんもの。ですから会計帳簿上の処理として、この金はあくまで『フィルミナス家からの貸付金』とし、成婚時に持参金へ振り替える。……そう契約書に明記してありましたのよ」
「ふ、ふざけるな! 子爵家の分際で、伯爵家に金を貸すだと!? そんな不敬が許されるものか!」
顔を真っ赤にして怒鳴る男を見ても、不思議と恐怖は湧かなかった。ただ、ひたすらに――。
(哀れね……)
彼の会計学の成績は惨憺たるものだったと記憶していたが。こんな初歩的な「振替処理」すら理解していなかったとは。
その結果、私から貰ったお金をすべて自分の実力だと思い込み、あのような無茶な散財に耽っていたわけだ。
「残念ながら、これはエバーレンス伯爵……貴方のお父様と交わした正式な契約によるものです。その通知書も、お父様から渡されたのでしょう?」
「っ!? 嘘だ……。こんなふざけた契約を、父上が結ぶはずがない!」
ふざけていたのは貴方の頭の中だけよ、という言葉を飲み込み、私は事務的に続けた。
「貴方が一方的に婚約を破棄したことで、振替先を失ったお金は、ただの『貸付金』として確定したのです。……さあ、全額返していただきますわよ」
「……そん、な」
ブラクはその場に崩れ落ちる。書類に並んだ金額は、豪華な屋敷が軽く数軒は建つほどの大金。貯蓄を食いつぶしてきたエバーレンス家に、支払えるあてなどない。
(それでも、一リン残らず完済してもらいますわ)
人として。貴族として。そして一時的にせよ、私の人生を捧げた相手として。
これは報いだ。私の、そして領民たちの三年間をあんな女への貢ぎ物に変えた罰。
「……騙したな」
床を見つめるブラクの口から、掠れた声が漏れる。一瞬なにを言ったのか分からなかったが。
「騙したな騙したな騙したな騙したな騙したな……ッ!」
呪文のように怨嗟を連呼し、彼は亡霊のような動きでゆっくりと顔を上げた。
「っ……!?」
ゾワリと、背筋に冷たいものが走る。
……そこにいたのは人間ではなかった。
血走った眼球は野獣のように濁り、全身を怒りのままに痙攣させている。
(逃げなきゃ――!)
「灰女ぁ!!」
本能が警鐘を鳴らした時には、男はテーブルを乗り越えて飛びかかってきていた。涎を垂らし、理性をかなぐり捨てた獣の手が、私の細い首筋へと迫る。
「ッ!?」
声にならない悲鳴。金縛りにあったように動かない体。
不思議と、周囲の音が消え、視界がゆっくりと流れていく。死の間際の走馬灯だろうか。
私は今日の「適当」な出来事を、なぜか冷静に振り返っていた。
――ニエラという、少し泣き虫な友達ができたこと。
――大嫌いなクラスメイトたちを、完膚なきまでに叩きのめしたこと。
――初めての遅刻が、意外と気持ちよかったこと。
そして。
今日最初に出会った、あの美しい少年に……。
「――が、ふッ!?」
バキャッ、という鈍い衝撃音が部屋に響き渡る。
直後、ガシャーンと家具が粉砕される破壊音が続く。
(……あれ?)
私は、椅子に座ったままだった。痛みもなければ、衝撃もない。
恐る恐る閉じていた目蓋を開けると、そこには――。
「大丈夫か、アーシュ嬢」
「……エルドレッド、様?」
逆光の中に、揺れる金糸の髪。
私の前には、真っ赤に燃える瞳を怒りに染めた少年――今日、恋人になったばかりのエルドレッドが、私を護る盾のように立っていた。




