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燃え尽き令嬢、茨に出会う


――イバラ侯爵夫人。


 社交界でその名を知らぬ者などいない。氷のように冷たく、針のように鋭い知略と影響力を持つ、シアテーラス侯爵家の現当主。四大公爵家でさえ彼女の動向は無視できず、多くの貴族から畏怖と敬意を込めて『イバラ侯爵夫人』と呼ばれている。


「弁えなさい。公衆の面前で無作法を撒き散らすなど、下賤な者のすることですよ」


「も、申し訳ありません……っ!」


 私を地面に押さえつけていた二人が、弾かれたように後ずさる。

 おかげで、ブレスレットは無事に死守できた。


「……蒼穹の青玉ですか」


「?」


 夫人がポツリと、何かに納得したように呟く。そしてジロリと、冷や汗を流す二人に目を向ける。

 刃のように鋭い視線を向けられた少女達は、蛇に睨まれた蛙のように固まった。


「早々に帰りなさい……。これ以上、貴族にあるまじき愚行を重ねる前に」


「ッ! は、はい! し、失礼いたします!」


 怯えた令嬢達が大慌てでその場から離れていく。

 イバラ侯爵夫人は、逃げるように立ち去る背中を、視界から消えるまでジッと射抜いていた。


「あの……ありがとうございます。お見苦しいところをお見せいたしました」


 砂のついたスカートを摘み、貴族としての礼を示す。ドレスは汚れてしまっているけれど、決して礼儀を忘れたわけではない。


「……ふふふ」


(……笑ってる?)


 顔を上げると、先ほどまでの氷点下の表情は消え、夫人は柔和に微笑んでいた。それはどこか、数年前に他界した祖母を思い出させる温かさだ。


「あの、私、何かおかしなことをいたしましたか?」


「いいえ。聞いていた通りの子だと思って」


「え?」


「フィルミナス家の御息女よね。若くして一人で領地経営をなさっていること、聞き及んでいるわ」


 驚いた。最近は婚約破棄の噂ばかり言われていたのに、父が遺した領地を必死に守ってきた日々を労われるなんて。


「もし良ければ、お礼をさせていただけないかしら?」


「お礼、ですか? 助けていただいたのは私の方ですのに……」


「そのことではないわ」


 夫人は静かに首を振る。


「わたくしの領民を助けてくれたことに、感謝しているの」


(まさか、さっきのお爺さん?)


「だから、何かご馳走したいのだけれど」


 侯爵家の晩酌に預かれるなど、普通の貴族なら泣いて喜ぶ状況だろう。でも、自分には、もっと大事なことがある。


「……申し訳ありません。私には、待ち人がいるのです」


「ふふ……そうよね」


 知っていた、と言わんばかりの顔で頷く夫人。エルドレッドのことはまだ言っていないのに、恐ろしい観察眼だ。

 夫人は少しだけ眉を下げたあと、優しく私の手を握り――。


「いずれ、ちゃんとお礼をさせてちょうだい」


「そんな……。夫人の手が、砂で汚れてしまいますわ?」


「構わないわ。そのドレスも、わたくしが弁償しましょう」


「えぇ!? け、結構でございます! 申し訳ない……」


 しかし、気がつけば私の手には金額の欄が空白の支払手形が握られていた。利用目的の欄には『ドレスの弁償代金』と、夫人の流麗な筆致で記されている。


「こんな、いただけません!」


 急いでこの『なんでも買えてしまう紙』を返そうとするも、シアテーラス家の当主はくるりと歩いて行ってしまう。


「それじゃあ、またお話ししましょう」


 夫人はひらりと手を振り、手形を返す隙も与えず去ってしまうのだった。


「……貰えないわ。流石に」


 ドレスを汚したのは自分の判断だ。つまり、ただの自業自得。誰かに肩代わりしてもらってはいけない気がする。


「どう……お返ししたらいいのかしら」


「何がだ?」


「っ!?」


 心臓が跳ねる。振り返ると、そこにはエルドレッドが立っていた。薔薇の姫とやらとの逢瀬は終わったのだろうか。

 彼は私と目が合うなり、深く頭を下げ――。


「めちゃくちゃ待たせてごめん! ……その格好、何かあったんだろ?」


 砂に汚れた純白のドレスを見て、彼は眉をハの字に寄せる。


「えっと……これは、ただ転んだだけで……」


「でも、その腕の傷……明らかに誰かに掴まれた痕だ」


 やはり、めざとい。


「転んだ拍子に、自分の指先が食い込んだんですの!」


 自分でもどうかと思うくらい適当な嘘。本当のことを言ってしまうと、エルドレッドは悲しむと思ったから。

 『平民』というだけで馬鹿にされた老人。婚約破棄は私のせいだとしている噂。そして彼から貰ったプレゼントが奪われかけたこと。

 心優しいエルドレッドには、酷すぎる出来事ばかりだ。


「だから、心配せずとも大丈夫ですわ。エルドレッド様」


 彼は私の腕に残る血の滲んだかすり傷を、労るようにゆっくりさすった。


「……わかった。今は、そういうことにしておく。……だがな、医務室には付いて来てもらうぜ?」


「大袈裟ですわ、これくらい――」


「いいな?」


 不意に、彼の言葉が鋭く響いた。いつもヘラヘラと笑っている彼からは想像もつかないような、冷淡でいて、芯から燃えるような赤い瞳。


「……はい」


 その威圧感に気圧され、私は思わず、小さく首を縦に振ったのだった。

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