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Sigyn

作者: 水無飛沫



――ぽつん。


真っ暗な地底に、水滴の落ちる音が響く。


――ぽつん。


私はそれを小さな壺で受け止めてやる。


――ぽつん。




――ぽつん。







「いやいやいや、すまないすまない」


(ロキ)が、悪びれた風も見せずに謝罪の言葉を口にする。

そんな彼の態度にも私は柔らかい微笑みを返す。

だってこれは強情なこの人の、最後に残された『自由』なのだから。

丸裸の体は大きな岩に鉄の鎖で縛り付けられ、彼から行動の自由を奪っている。


「またずいぶんと派手にやられましたね」


残忍な女巨人(スカジ)が無残な方法で殺してやろうとでも画策したのか、夫の頭上には見るもおぞましい毒蛇が括り付けられている。


――ぽつん。


その凶刃から毒を含んだ唾液が滴り落ちる。

それが身動きの取れない彼を傷つけないように、桶でもって毒液を受け止める。


ははは、と笑う夫が痛ましくて、目をそらす。


すぐ傍には、子どもたちの死骸が憐れにも転がされている。

その(はらわた)は体から引きずり出されて、鉄の鎖となって彼らの父親を縛り付けていた。


今すぐにふたりの亡骸を抱きしめて、ちゃんとした場所に葬ってやりたいが、今は生きている()を介抱するのが先だった。


震える腕をいなすように、小さく身悶え。


「あんな人たち、呪われてしまえばいいんです」


ため息の合間を縫うようにして、言葉が漏れる。


「おいおい、そんなことを言うものじゃない」


どこで誰が聞いているか、わかったもんじゃないぞと夫が続ける。

けど、私は我慢ができない。

堰を切ったように、言葉が溢れ出す。

夫は誰とでも寝るし、義理を破ることをなんとも思っていないような最低の男であるけど、

こんな非道な戒めを受けるようなことは、断じてしていない。


「だってそうじゃない。

巨人が城壁を築いた時も、獺の姿かたちを財宝で作り上げた時も、イドゥンの林檎が盗まれた時も、スカジが憤怒の表情で父親の仇を取りに来た時も。

彼らは何もできやしなかった。あなただけが事態を収めることができたというのに」


悔しさに胸の内が震える。

夫の名誉が踏みにじられている現実に、感情が煮えたぎる。


「あなたがどんな悪いことをしたのです。

約束を反故にしたのは彼らの方です」


恩義も感じぬ不義理者が誰か、彼ら知らしめてやりたい。

そう憤る私に――


「それでも、俺はあの義兄弟たちが羨ましいのさ」


夫はおどけるでもなく、まじめな声音でそう告げた。


「生きることに必死で、欲望に忠実で、滅ぶべき運命に浅ましくもあがき続けている。

あいつらと居ると、俺も楽しくてしょうがなかったのさ」


「その結果がこれです。

あなたは自らの息子の腸で括り付けられ、おぞましい毒液に曝されている」


私の胸の内を聞いた夫が、不意に表情をゆがめてニヤニヤと笑う。


「なんです、その表情は」


「お前も、怒ることがあったんだな」


邪悪なその表情にイラついて、彼の脛をそっと蹴る。


「私だって怒ります。

息子たちをむごたらしく殺されて、旦那を張り付けにされたとあれば」


それにあの時も、と言葉を続ける。


「魔女におぞましい子供を産ませたと聞けば、浮気相手の忌まわしい魔女もその子供も殺してしまいたいと思ったくらいだし」


『浮気』と聞いた夫がばつの悪そうな表情に転じる。


「けど、あれは呆れを通り越して笑ってしまったわ。あなたが牡馬とまぐわって、馬を産み落とした時のこと」


「もういいだろ、そんな話は」


不貞腐れてうなだれる夫がどうしようもなく愛おしい。

その頭を、額を、頬を撫でてあげたいのだけれど、彼に降り注ぐ毒液がそれを許してくれない。


――ぽつん。


桶にはなみなみと毒液が溜まっている。

そろそろ桶の中身を捨てに行かなきゃ。

あぁ、けどその間、夫には直に毒液が降り滴ることになってしまう。


「……行かなきゃ。すぐに戻るわ」


「ああ。毒液に触れてしまったり、転んで桶を割ってしまわないように気をつけろよ」


地底湖に溜まった毒液を捨てている間、地底中に夫が毒の苦しみに悶絶する声が響き渡る。

あまりに可哀そうなその様子を、私には筆舌することができません。

きっとその声は地底だけでなく、地上をも揺らしていることでしょう。


私は駆け足で夫のもとへと戻る。


世界が終わる時までこのままだなんて、あんまりよ。


「せめてあなたに触れられればよかったのに」


思わずつぶやいた言葉に、夫が目を閉じて自嘲気味に笑う。


「お前との間にできた子どもは、本当に愛らしくて、おかげで恐ろしいくらいに普通の幸せを噛みしめることができた」


だけど、とその亡骸を見つめながら夫が言葉を続ける。


運命(ラグナロク)には一切関係がなかったのにこのざまだ。

どうしようもないのが旦那になってしまい、本当にすまないと思っているよ」


「バカな人。

私はあなたと一緒になれて、あの子たちを授かって、本当に幸せでしたよ」


「そうか。この世が終わるまではこうして夫婦水入らずの時間を一緒に過ごそう。

愛しているよ、シギュン」


「私もあなたみたいな人を好きになった大バカ者だから、いつかあなたを縛り付けるものを(ほど)いてしまうのでしょうね。


でも、今だけは。

私だけのあなたを堪能することにしましょう。


せいぜい私を飽きさせないようにしてくださいね。




愛しているわ、ロキ……」











「あなたの手綱を緩めすぎたのかしら」


「バカ言うな。この綱は頑丈すぎだ。

フェンリル狼だって、逃げられやしないさ」


「そう。そうね。だって私たちの息子だもの」





私はシギュン。ロキを縛り付ける彼の妻。

そして、その手綱を緩める女。






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