現代と生き方について
夏が終わる頃、川沿いを散歩していると橋の歩道が雪でも降ったかのように白くなっていた。
よく見ると、それらはすべて力尽きたオオシロカゲロウたちの白い身体だった。橋の街灯に吸い寄せられたのだろう。原型を留めたままの彼らは今にでも飛び立ちそうで、その亡骸がとても美しく感じられた。
夏の夜、街灯や自販機に虫が集まる光景を見たことの無い人はいないだろう。光に対して移動、又は遠ざかろうとする習性を「走光性」と言うらしい。光に集まるのは正の走光性だそうだ。
私はあまり虫の生態について詳しくは無いので自信をもって書けないのだが、オオシロカゲロウは成虫になってから2時間程しか生きられないらしい。その間に交尾をして産卵をして生命のバトンを現代まで残しているのだから大変だなと思う。
日本の平均寿命が年々増えているという話を耳に挟むことがある。高校生の時に介護に関する系列で学んでいたこともあり、自分自身の生き方について影響を受けるところもあった。そんな私は現代の「長寿崇拝」するメディアと「健康で長生き」を目指す現代の医療に疑問を感じることがある。
現代は長生きすることがありがたいことのように取り上げられて、「長寿はこんな食生活をしていた」「長寿の体にはこんな成分が多かった」などと調べればキリがないほど様々な情報がある。
私の身の回りにも健康に気を使う人がおり、スマホで調べた健康食品やストレッチを欠かさず行う人がいる。彼らの長生きという概念には「健康で」という前提がある。
私は肉体の老化の進行を遅らせながら、健康寿命を伸ばそうとするのは本来の正常な死から遠ざかっているように感じる。
医療や食事、運動によって本来死を迎えるはずの個体の寿命を引き伸ばすのは、人や人と関わりを持つ動物だけである。そこまでして生きることが素晴らしいことだろうか。私は、現代の人々がなんだか死を恐れすぎているような気もする。
若く多感な時期は、死について考えを巡らせて怖く感じるのも仕方の無いものだ。人というのは知らないものを恐れるものだし、テレビの暗いニュースやホラー映画による負のイメージを消すことは難しい。また、生存本能がある以上、人は基本的に本人の意思と無関係に生きることを優先して体が活動している。
しかし、成人して社会と関わり「大人」として数十年生きた人々が死を恐れるのは、死について個々が自分なりの死生観を持つ機会を与えられなかったことが大きいのではないかと思う。
私は長生きすることより個人が死をどう受け止め、人生をどう生きるかを考える機会を増やしていくことが大切であると思う。医療がいくら発達しても、寿命は個人差があることを忘れてはいけない。当たり前だが、生命が生まれることは同時に死ぬことへのスタートを切ることだ。まずはこの事実を受け入れることから始めて欲しい。そしてもっとポジティブに捉えてほしい。
オオシロカゲロウが光に集まって雪のように舞っては散っていくような意味の無いような生き方にも、それぞれの幸福があるのかもしれない。生き方というのは個人のもので誰にも干渉されるべきでは無いと思う。
私は「私の死」が追いついたら抱きしめてあげたい。数十年も私のことを追いかけてくれてありがとう。お疲れ様でした。一緒にゆっくり休もう、と声をかけてあげたい。実際にこんな風に死の間際に考えられるかは分からないが、今の私の理想はこんな感じだ。
未だに文章の締め方が分からずじまいです。いつも思いつきで書いているので終わりに近づくと上手く収束しきれない所があります。中途半端ではありますが、読んでくれた皆様には感謝しかありません。




