少女小説家編-1
翌日、夫が退院する日が決まった。あと3日で退院できるらしい。
病室に行くとだらけた表情の夫が、少女小説を読んでいた。キラキラとしたお姫様の絵が表紙で、作者名は「朝比奈佳世」とあって、文花は思わず顔を顰めた。男が少女小説を読んでいても、夫は作家だから気にならない。取材の為にスピリチュアルやBL本を夫は読んでいるのを見た事がある。問題はその作者名である。合コンにいた女の小説をなぜ読んでいるのだろうか。
病室は、他の入院患者もいるので、文花は声を落とし、極力冷静に話した。
「何で少女小説を読んでるの?」
文花はなるべく本心を悟られないように、ニッコリと笑顔を作った。
「いやぁ、この作家先生と知り合う機会があってね」
「そう」
「真面目で研究熱心な先生さ。執筆業だけでなく、創作講座を開いてたり、売れてるものの研究もすごいしている」
「そう」
文花は夫の表情を注意深く覗った。今のところ、夫の表情に変化はない。文花のカンでは、今の段階では不倫に至っていないのだろう。
ここでカマをかけてみる。
「その作家先生とはいい感じのようね?」
「ハァ? そんなんじゃないって」
あれ?
文花の予想と外れて、夫は今のところ朝比奈に何も感じていないようだったが。
文花のカンでも何も警告を発していない。夫の表情や態度も怪しいところがない。夫は頭が悪いので、嘘をつく時にはボロを出す。あまり賢くないのだ。少なくとも今の段階では、何も起きていないようだ。
文花はホッと胸を撫で下ろす。しかし、夫は文花の様子には何も気づいていなかった。
「病院食は美味しい?」
「文花ちゃんの和食よりは美味しいよ」
「何よ、それ。クリスマスにシュトーレン作ってあげようと思ったけど、やめた」
「嘘! 作ってくれるの?」
「まあ、お医者さんに問題ないって言われたらね」
「楽しみにしてるよ」
そうは言ってもクリスマスを一緒に過ごそうなどとはいわれず、再び不安が胸をしめる。夫は不倫をしていないはずなのに、どうも信用ができない。正直なところ、この中途半端な状況が気持ち悪かった。不倫されていたら、愛人調査に精を出し、ある意味寂しさは忘れられた。しかし、今は夫に愛されてるのか全くわからない。不倫をしていないだけで、自分の事を都合のいい同居人だと考えているのかもしれない。実際、新婚当初の甘い雰囲気は二人の間に全く流れていない。
「この本は何?」
ベッドの上のテーブルには、『キラキラ起業家女子になる方法』という本と『ヤクザな夫の愛し方』という本作も置いてあった。両方とも作者の名前が佐倉伊夜で、文花の表情が固まる。佐倉伊夜も夫が合コンであった女だった。
「いや、この作者の伊夜ちゃんとも知り合ってね」
伊夜ちゃん?
文花は、夫のデレっとした表情を注意深く観察する。
朝比奈の事を話した時より、だいぶ表情に締まりが無い。おそらく、女としては朝比奈より伊夜の方が気に言っているようだ。
「伊夜ちゃんも真面目ないい子だ、うん」
「それで、不倫でもするつもり?」
夫の表情が冷ややかに強張った。
文花が睨みつけると、夫は何故か悲しそうな顔もしている。
意味がわからない。
この様子では不倫をしていないようだが、何か夫の気に触ったのだろう。
「そんなんじゃないよ。仕方がないけどさ、あんまり疑うのやめてくれない?」
空気が冷凍庫の中にでもいるかのように冷えた。夫は明らかに機嫌が悪くなっている。
やはり、不倫はしていないだけであって、夫婦仲は特に回復していない事をありありと見せつけられる。
不倫されていたら女達を恨めるが、今のは完全に自分の言動がまずい。「長年、あなたが浮気したせいで疑い深くなったんじゃない」と言いたいのを奥歯を噛んでぐっと我慢する。そんな事を言っても返って夫の機嫌を損ねるだけだ。そんな事言って再び夫が不倫する事もあり得よう。
「この本面白いの?」
文花は、誤魔化すように『ヤクザな夫の愛し方』を手に取った。『キラキラ起業家女子になる方法』はタイトル通り、ピンク色のチャラチャラしたデザインの表紙だったが、こちらハードボイルド調の真っ黒な表紙で、ダンディな男のイラストも載っている。
本の裏のプロフィールを見ると伊夜は起業家女子だが、元ヤクザの男と結婚しているらしい。旦那の小指が無い事や入れ墨などをネタにした恋愛エッセイのようだ。文字も大きく、15分ぐらいで読めそうな薄い本だった。
ページをペラペラめくると、最後に伊夜と元ヤクザの写真が載っていた。
目つきは悪いが、白髪頭の50代前後の男だった。どことなく体型がだらしなく、肌艶も悪い。髪も傷んでいる。目以外のパーツもどこかだらしがない。
「こも旦那さん、あなたに似てません?」
「は?」
「そっくりよ。よく見て」
夫は文花は気づいた発見にさらに機嫌を損ねた。
「おいおい文花ちゃん。人っていうのは誰しもオリジナルティがあって、誰しも特別になりたいんだよ。そんな誰かに似てるなんて言われtら嬉しく無いね」
珍しく正論だった。
「そうね」
文花は、夫の言うことにコクコクと頷いた。