新しい夫婦関係編-3
文花は安優香が自分を殺そうとしているのは、わかっていた。最初に首を締められた時から、はっきりとこの女がもつ殺意に気づいていた。
一瞬、安優香に腕を押さえつけられそうになったが、すぐに身をかわす。
「待ちなさい!」
安優香にそう言われても待つわけがない。
全身に力を入れ、文花は安優香から逃げた。万引き犯を追うために身につけた脚に速さがこんなところで役に立つなんて。
とにかく裏庭を駆け抜けた。
「待つわけないじゃない。あんな朝比奈に口答えもできずに脅されてた万引き犯の言う事聞くわけ無いじゃない」
この言葉に安優香はさらに怒ったようで、文花をさらに追っていた。ただ、安優香は日頃からこうやって万引きで追われているのか、意外と脚は遅くはなかった。
「本当にバカねぇ。殺人までして。得してるの私だけじゃない?」
さらに挑発しながら走り続ける。安優香は包丁を持ち、鬼の形相で追いかけているようだが、ちっとも怖くない。やはり夫に不倫される事よりマシだ。夫に不倫されて瞬間から自分の心は壊れて居るんだろうと文花は思う。不倫は心の殺人というのもあながち間違っていないかもしれない。
裏庭をぬけ、気づけば校舎の方に走っていた。周りはもう何も見えない。安優香に挑発もしない。ただただ真っ直ぐに走り続けた。
マリア像の前の方まで来た。
夫がいた。
夫は何故か向井と一緒にコーヒーを飲見ながら、マリア像を見上げていた。マリア像は相変わらず単なる石のようで、夫達を無表情に見下ろしているだけだった。
「あなた! 助けて、包丁持った犯人に追われてるの!」
文花は半分笑いながら叫んだ。普通の人ならこの状況は、怖いかもしれないが、文花は少しも怖くなかった。
「は? え? ぎゃああああああああああ」
夫は包丁を持った安優香の姿を見ると、みっともなく叫んだ。やはり、夫の小心者の本性はそう簡単には変わりそうにない。それでも文花は、放心状態の夫にしがみつきように抱きついた。
「はあ? 一体どう言うこと?」
「あの女、安優香が犯人よ! さあ、あなた、捕まえて!」
しかし夫はプルプルと震えるばかり。文花はため息出そうになるが、仕方がない。せっかく夫は犯人を捕まえていい所を見せられるのに、そのチャンスはこの小心者では活かせないらしい。
「ゴラァ、黙れ! くそ女!」
その代わりに向井が、安優香を抑えてていた。包丁がその場で安優香の手から滑り落ちる。
学園の教師や生徒達が何が起こったのか、ガヤガヤと集まってくる。その内警察もやってき、安優香を取り押さえた。週刊記者らしき男も現れ、写真も撮っている。
安優香は放心状態で、人形のような顔で夫にしがみつく、文花を見ていた。
「ふ、文花ちゃんを傷つけたら許さないぞ!」
夫はプルプルと震えながらも、安優香にはっきりと言い放った。捕まっている安優香にそう言うだけで、たいしてかっこよくも見えず、相変わらず気が小さいと思ったが、まあ良しとしよう。あの小心者が犯人にここまで言えるのは、ちょっとした奇跡かもしれない。
「あなたら、こうして抱き合っていると意外と仲良さそうだな」
向井は呆れながら呟いた。
「向井さん、来てくれたんですね」
「いや、そっちの夫がどうしても一緒に来てって言うもんだからな」
「っていうか、この人すごい震えているんですけど」
夫は安優香が捕まった今でも小刻みにプルプル震えていた。
「どうしたの、あなた」
「僕は怖いよ…!」
「ええ、そうね」
「殺人犯に追いかけられているのに平然としている君が本当に恐ろしい!」
少し泣きそうな顔までして叫んでいる。向井も文花も呆れ顔で、夫を見ていた。
「それぐらい不倫の方が辛かったって事だろ。なあ、田辺先生、それぐらいわかってやれよ。不倫される方はそんな風のなるぐらい心が死ぬって事だよ」
「う…」
向井の正論に夫はすっかり言葉を失っていた。
「でもこんな小心者の妻は私しか出来ないと思わない? あなた」
こんな状況でもニコニコと笑っている文花を見て、夫は天を仰いで誓うように呟いた。重たい雲からは、ふわふわと白い雪が舞い降りていた。
「ごめんよぉ。文花ちゃん。もう不倫はしないよ!」
「ようやくわかってくれたのね!」
文花は嬉しくなってさらの夫にきつく抱きしめた。こんな風になる事は、文花にとって奇跡みたいな事だった。今度こそ夫は不倫をしないと素直に信じる事もできた。
「うわ、なにこれ!」
夫は文花の両足を掴んで、持ち上げ、お姫様抱っこのような体勢をとった。
「お姫様抱っこは、少女小説で女性に受けるって書いてあったからな!」
夫は少し自慢気に言う。本当は腰や腕がだいぶ辛そうではあるが、それを何とか隠しているのが、ありありと伝わってきて、文花は思わず吹き出した。
「やれやれ、やっぱりこの二人は意外と仲は良いじゃないか」
向井の呆れた声も耳に入ってこなかった。
マリア像は相変わらず無表情に文花や夫達を見下ろしていた。




