メンヘラ地雷女編-4
文花は昼出版を後にすると、その足で夜出版の方に歩いて向かった。
夜出版も夫のスケジュールがきつかった。昼出版ほどではないが、少しは釘を刺して置いても良いだろう。
応接室に通され、夫の担当編集者の町田にコーヒーを振る舞われた。少しフルーティな香りのする美味しいコーヒーだった。やはり昼出版の出されたお茶が不味いと思う。
「コーヒー美味しいわ」
「文花さん、ところで今日は何を?」
町田はクールそうにあまり表情を変えなかった。坂井智香の事件の時は、書けなくなった夫によく一緒に励ましたが、基本的にそつがない冷静な男だ。思っている事が顔に出やすい常盤とは正反対のタイプで、時々何を考えているかはわからない。もっとも文花もめったに笑わないし、笑ったとしても不気味な薄ら笑いばかりなので人の事は言えないが。
「夫のスケジュールの事ですよ。今年になって2回入院しているのよ。ちょっと詰め込み過ぎじゃないかしら?」
「それについては謝ります」
本当に悪いと思っているのか疑問に思う町田の表情を見ていると、文花イライラとしてくる。昼出版も平和ボケして無神経な連中ばかりだが、この町田ものらりくらりと本心を言わない曖昧な態度が、受け入れられない。
「全く恋愛小説なんてウンザリだわ。夫は不倫して、忙しくて身体を壊すし。もうやめて欲しいわ。筆折って欲しいものだわ」
昼出版で似たような事を言うと、仕事はどうするんだと紅緒にネチネチと嫌味を言われた。この町田にもてっきり似た様な事を言われるのだろうと思ったが。
町田はしばらく沈黙した後、突然ポロポロと涙をこぼし始めた。
思ってもみない反応で、文花は面食らった。驚きで瞬きを繰り返す他ない。
「ちょっと、町田さん? 何泣いてるの? 私酷いこと言ったかしら?」
「ええ、酷いでずよ!」
町田は鼻声のため、日本語が変になっていた。
「いぐら奥さんだからって田辺先生の筆を折る権利などありまぜん!」
「あら、恋愛小説のお陰で51人も不倫されていた妻の気持ちがわかるのかしら?」
それを思い出すとこっちが泣きたい気分である。町田のようにみっともなく泣かないが。町田はグズグズと鼻水を垂らしながら、押し黙った。みっともな姿に文花はため息をつき、カバンからポケットティッシュを出して貸してやった。
そういえば夫と結婚する前、付き合って始めたとき一緒に映画に行って余命いくばくもないヒロインの話に号泣していた夫を思いだす。こんな風にティッシュを貸してやると、特に映画のストーリーに感化されず冷静にいる自分に夫は余計に感動していた記憶がある。そんなどうでも良い事を思い出しながら、町田が泣き止むのを待った。
普段冷静で何を考えているのかよくわからない男の涙ほど気持ち悪いものはないと思う。夫のような頭の悪い小心者が、泣いて叫ぼうがいつもの事なので、動じない。やっぱり夫のようなわかりやすい男の方が良いかもしれないと文花は思う。
「気が済んだ?」
「ええ」
冷静さを取り戻した町田を見て、文花はコーヒー啜る。嫌な気分で飲むコーヒーは、いくら良い豆でもあまり美味しく感じられなかった。
「一体どうして泣いたのよ。私、よく夫に口も性格も悪いって言われてるけど、何か酷い事言ってたらごめんなさいね」
「全くですよ。文花さんは口も性格悪すぎですよ。特に口は今すぐ京都に行ってもイケズな会話できますよ」
こう他人にはっきりと言われしまうと、さすがの文花も居心地が悪く肩をすくめる。
「僕は先生の話が好きなんですよ。先生の作品は僕のバイブルと言っていい」
「そんな事言ってキリスト教徒の人に怒られるんじゃない。普通の恋愛小説ならともかく、不倫で出来た小説よ? 聖書では不倫は性的不品行って書いてるはずだわ。よく知らないけど聞いた事あるわ」
「文花さん、ごちゃごちゃとうっさい!」
今度は町田は怒り始めた。
そして熱っぽく夫の小説がいかに素晴らしいかスピーチし始めた。なんでも大学生の時に大失恋した町田は、夫の恋愛小説を読んで相当励まされたのだと言う。編集社になったのも夫の小説を一緒に作りたかったからだそうで、Fランク大学から死ぬほどの努力をして夜出版に入った事など述べていた。
文花は町田の話を聞いて納得する。坂井智香についてはやたらと好意的だったのも作品の役にたつからだったのだろう。ホテルに缶詰させていた時も夫の小説についてやたらと情熱的だったと思う。
不倫の温床となる恋愛小説を忌み嫌っている文花とは全く違う態度だった。そういえば昔から「町田サトル」という男のファンレターがよく届いていた事も思い出す。町田の下の名前はすっかり忘れてしまったが、確かそんな名前だったと思う。
「そんな夫の小説好きだったのねぇ。でもネタ元は全部不倫よ? 結婚前も相当遊びながら書いてたんだから」
思えば夫が女遊びをしていなかった時期は新婚当初とミイの事件の後と今ぐらいのものだ。
「それでもいいんです! 先生の小説は至高です。最推しです! 神様です!」
「下らない。不倫されてた妻の気持ちはどうでも良いのね」
熱っぽく語る町田と裏腹に文花の気持ちは冷えていく。思えば夫の不倫がこうしてダラダラ続いたのも、恋愛小説が売れ続けたせいではないか。こうして読む読者がいるからこそだ。この町田も夫の不倫の片棒を担いでいたようにも見えて、急に薄汚い男に思えて仕方ない。もっとも何も知らない読者には罪が無いが、こも男は恋愛小説がどういう経緯を経てできているか知っている。こうして文花ともあっている。怒りというより虚しさや悲しさのようなものが、文花の胸に宿り始めた。
「先生には不倫をしてでも恋愛小説書いて欲しいな」
「は? 何言ってるんですか。冗談じゃ無いですよ。そのたびに私はどれだけ苦しい思いをしているのはご存知?」
町田はこの時、悪戯がバレた子供のような顔をしていた。何か嫌な予感がした。
文花はもう一度コーヒーを飲んで、冷静さを保つ。心を落ち着かせて、町田の表情をよく観察する。
何か隠している。証拠はないがピンときた。常盤ほど顔に出ない男の子だが、よくよく観察すれば何か隠している事にピンとくる。
「あなた、主人に不倫女を紹介したりしていないわよね?」
カマをかけると、町田は目が泳ぎ始めた。文花の目を見ずに、肩や壁の方を見ている。何か隠しているのは一目瞭然だった。
「昼出版の連中も取材だとか言って似たような事をしてたのよね。浅山ミイの事だって昼出版の担当編集者が引き合わせたようなものよね」
あの時の常盤の態度などを思い返すと再び苛つく。ミイが夫に持ってきたノートをあの男が渡さなければ、不倫にはならなかったかもしれないのに。
「何か知ってますよね? 町田さん。さあ、黙って無いで全部事情を説明してもらおうじゃないですか?」
文花はドスのきいた低い声を出しながら、町田を睨みつけた。
町田は震え上がり、全てを吐いた。
文花はこの場で町田を締め上げてしまいたかったが、呪いのノートに名前を書くと言うだけで勘弁してやった。
町田は再び文花に泣きついてきたが、無視して朝出版に向かった。