可哀想な女編-8
文花は殺人現場のビルを後にすると、真っ直ぐに自宅に帰った。
もうすっかり夕方になって薄暗い。
自宅の明かりがついてみるのが見えると、文花走って家に入る。
明かりがついているという事は、夫が帰ってきたのだ。
夫は、いつも以上にだらしがない表情で、シュトーレンをかじっていた。せっかくラッピングしたものだが、お構いなくシュトーレンもぐもぐと咀嚼していた。
「あなた、帰ってきたのね!」
「え、は? 何? ぎゃああああああ」
夫は浅山ミイそっくりな文花を見ると、狼狽えて悲鳴をあげていた。どうやら文花を浅山ミイと勘違いしたらしい。
「幽霊だ、こわい、こわい」
「あなた、気を確かに持って。浅山ミイじゃないわよ。文花よ。浅山ミイでは無いわよ」
小心者の夫は目に薄っすらと涙まで浮かべていた。怯えながらも、文花を直視し、ようやく幽霊でない事に気づいてため息をついた。
そしてあろう事か床に座り込み、土下座までし始めた。
今度は文花が面食らう番だった。
プルプルと震えている夫の丸い背中を見下ろしながら、戸惑うばかりだった。
「あなた、一体どうしたの? このメイクはちょっとしたコスプレのようなものよ」
まさか事件を調査する為にメイクアップアーティストに会って来たと本当の事は言えやしない。
「本当ごめんなさい。文花ちゃんをここまで苦しめていたとは知らなかった。ミイちゃんになりきるほどメンヘラだったなんて、僕は知らなかったよ!」
「いや、そんな深い意味があってこのメイクしたわけじゃないんだけど…」
文花の戸惑いなど無視して夫は、謝罪し続けていた。
「常盤くんにも怒られたよ。そんなホイホイ怪しい佳世ちゃんの所に行くなって」
「そんな事言ってたの? たまにはマトモな事も言えるのね、あの常盤さん」
「だから、もうそんな悲しいメイクなんてしないでくれよ」
夫の声は涙声だった。
「本当にわかったよ。そこまで文花ちゃんを追い詰めていた事を」
夫はこの浅山ミイ完コピメイクを、夫の為だけにしているものだと思い込んでいるようだ。確かにそういう意味だったら、かなりのメンヘラかもしれない。実際、浅山ミイのルックスは夫のかなり好みではあったが。
死んだ夫の愛人のメイクを真似る事は、確かに病んでいる。しかし、これは調査の一環で、軽いノリだ。夫が思う意味はあまりない。
「ごめんよぉ、文花ちゃん」
「そうねぇ。そこまで謝るんだったら許してあげるわよ」
夫の誤解は解かなくても良いかもしれない。むしろこのまま誤解させておいて、ずっと土下座させておくのも悪くないのかもしれない。
「本当? 許してくれる?」
夫は顔を上げて、許しを乞うように文花を見つめていた。
「ええ。でももう朝比奈佳世のところに行かないでね」
薄ら笑い浮かべながら、文花は優しく言った。この状況での妻の優しい声はかえって怖く、夫は再び謝罪をした。
「もう、いいわよ。あなた。それより、お腹空かない? 昨日の残りでいいなら、何か作るわ」
「許してくれるの?」
「ええ。でもこのメイク落としてくるわね」
「是非そうして下さい!」
メイクを落としていつもの顔に戻りと、夫は土下座をやめた。
昨日作った秋刀魚の煮物を卵でとじて丼によそった。坂井智香の事件のとき、似たような丼を向井に食べさせた時は評判が良かった。夫も気に入る確率が高いかもしれない。
普段、自分の料理を嫌う夫だが、この丼物がもぐもぐと食べていた。
「あなた、本当に朝比奈のところにはもう行かないわよね?」
一応念を押した。
「行かないよ! 文花ちゃんが、本当のメンヘラになってしまったら、どうしよう」
小心者らしく夫はプルっと震えた。
「それは良かったわぁ。ところで朝比奈さんは本当に大丈夫?」
心配してそう言っているわけではない。夫の目から何か不審な点がないか知りたかった。
「うん、まあまあ元気になってきたと思うよ。友達のキリコちゃんや安優香ちゃんが来て一緒に励ましたし」
またキリコ安優香の名前が出てきた。キリコはともかく安優香については全く知らない。
「安優香ちゃんってどんな人?」
「聖ヒソプ学園の国語の先生だってさ。佳世ちゃんとも中良さそうだったよ」
夫はリスみたいに口いっぱいにご飯を入れて咀嚼していた。
「卒業した学園で先生するなんてさ、よっぽど思い入れがあるんだろうね」
「そうねぇ」
その夫の言葉に何か引っかかるものを感じた。やはりこの事件は、あの学園が無関係では無さそうだ。
文花も食事をとりなが考える。やはり、あの学園に潜入調査する以外の方法は無いようだ。
朝比奈が犯人である鍵もきっそこにあるだろう。




