メンヘラ地雷女編-2
「だから、夫のスケジュール詰め込み過ぎてませんか?って言ってるんですけどね」
文花は姿勢を正して、冷ややかに言い放った。
ここは昼出版の応接室である。
出された緑茶はすっかり冷えて不味い。安い茶葉を使っているのか、温かくても美味しくはないが。
夫が倒れて入院した。
坂井智香の事件が解決し『愛人探偵』のシリーズ化が決定した後、過労とストレスで一度倒れて入院した。その時は大した事はなく、すぐ退院できたが、再び夫が倒れた。
執筆している離れで血を吐いて倒れていた。医者の説明では、仕事の詰め込み過ぎが原因のストレスだろうと言われ、文花はこうして昼出版にクレームを入れているのである。
「それに関しては本当にスミマセン…」
夫の担当編集者である常盤純は、終始腰を低くして謝っていたが、文花は納得いかなかった。
「仕事の詰め込みすぎで夫が死んだらどうしてくれるんです?」
夫は『愛人探偵』だけでなく、新しくミステリの企画を立ち上げて忙しかった。その上、昼出版の連中は、坂井智香の事件の話題が風化しないうちに本を売りたいと考えたらしく、連続刊行などをする等と言ってきて、無理なスケジュールを要求してきた。夫は他の出版社とも取り引きがあるが、昼出版が一番ブラックな要求をしてきたのだった。
全く『愛人探偵』はあっさりと打ち切ったくせに、売れるとなるとこうして手の平を返す。文花はこの商業主義につくづくウンザリとしてしまった。
「もう作家業なんて辞めて欲しいわ。筆折って欲しいものだわ。そうすれば夫も再び不倫する事もないでしょうし」
「言うな〜、文花さん。さすがメンヘラ地雷女」
文芸局の編集長である紅尾は、呆れながら呟いた。
常盤は紅尾が挑発しているようにも感じてしまい、
冷や汗がながれる。窓の外はもう冬だ。クリスマスも近いというのに、常盤の気分はちっとも晴れなかった。
「で、文花さん。田辺先生が筆折ったとしたら、どうやって生活するんだい?」
「仕事するに決まってるじゃない」
「専業主婦で探偵事務所のパートぐらいの経歴で雇ってくれるかね?」
そう現実的な事も言われて、思わず文花も押し黙った。
板挟み状態である常盤はハラハラしながら二人の会話を見守っていた。
「別に今まで以上に節約すればいいし。どうせ今も夫はケチだし。まあ、お料理教室やってもいいしね」
「それもやってたのか。でも、旦那の分も養えるほど稼げるかね?」
珍しく文花は、紅尾に押され気味だった。いつもは不倫のクレームをつける文花だったが、今回はスケジュールの文句なので、若干押され気味だった。
「まあ、文花さんは探偵やればいいじゃないですか。その執着心絶対向いてますよ」
フォローを入れるように常盤が言った。
「コンビニで働いていた時は、万引き犯もバンバン捕まえてたんでしょ」
「よく知ってるわね。常盤さん。実はあのコンビニではクリスマスにケーキ売るから人手不足っでまた働いて欲しいとは言われてるのよね。そうは言っても行かないけど」
「だったらいいじゃないですか。コンビニバイトで夫も養ってあげな」
嫌味っぽい紅尾の物言いに文花もさすがにカチンとする。
「夫に無理させて今度また倒れたら、ノートに名前を書いてあんた達を呪ってやるわ」
そう笑えない冗談を言うと紅尾は押し黙り、緑茶を啜った。文花をモデルにした漫画『愛人呪詛ノート』では、ノートに名前を書くだけで人を呪えるという設定だった。坂井智香の事件の調査中に知り合った犬村猫子という漫画家に描いてもらっている漫画だった。夫も原案協力していて、文花をモデルにした主人公がホラータッチに描写されていた。この漫画が話題になったおかげで、夫の『愛人探偵』も売れてシリーズ化したので、複雑な気持ちであったが。
「まあ文花さん。今のところは田辺先生は不倫していないんでしょ?」
すっかり険悪ムードになっている文花と紅尾の間に常盤は割って入った。
「今のところは」
夫は今のところは、不倫をするきっかけになる恋愛小説は書いていないので不倫をしている様子はなかった。ただ、入院先の看護師や女医に鼻の下を伸ばそしてはいたが。看護師や女医は世界的に流行っている疫病の影響で忙しく、夫の事など全く興味がないのが救いだった。
「だったら良いじゃないですか」
「そうだよ。文花さん。まあ、スケジュールは調節してやるからさ」
ようやく紅尾がスケジュールの件について折れたので、文花はホッと息を吐く。
「そうね。まあ、私はあの人不倫さえしなければ良いのよ。あと、死ななければ」
「そうだろう。文花さんはクリスマスどうするんだい?」
紅尾にクリスマスと言われ嫌な記憶が蘇る。
夫と祝ったクリスマスは一回しかなかった。あとは夫は仕事か不倫相手とクリスマスを過ごしていた。不倫相手と宅配ピザやケーキを食べて過ごしていた。不倫相手はSNSで文花を挑発するような事も発信していたので、夫が不倫相手とどんなクリスマスを過ごしていたか良く知っていた。
「クリスマスねぇ…」
文花に表情はだんだんと曇ってきた。
「先生にケーキでも作ってあげれば良いじゃないですか」
常盤に気遣う様な事を言われても、文花の気持ちは晴れなかった。
今年は夫とクリスマスを祝えるだろうか。夫は不倫を辞めただけで、自分を愛してるかどうかは自信が揺らぐ。
「クリスマスねぇ…」
苦々しい顔で文花は小さくつぶやいた。