少女小説家編-8
向井探偵事務所の仕事が終わると、船橋駅にあるオーガニック専門店で野菜や調味料を買い込んで帰宅そた。
今日はこの料理で、とっても意識の高い味噌汁や煮魚を作ろうと思っていた。
今のところは夫が不倫している様子はなく、食事も渋々ながら食べていた。
キッチンでせっせと料理をし、味噌汁や煮魚を食卓に並べる。
夫は執筆がひと段落ついたのか、若干疲れた顔で食卓にやってきた。
意識の高い和食の食卓を見て、夫はあからさまに嫌な顔をしていた。
「ねぇ、文花ちゃん。ハンバーグとか作れないの?」
「だめよ、ハンバーグなんて。少しお肉は控えましょう。そのかわりタンパク質は魚とゆで卵から取りましょうよ」
夫は渋い顔をしながらもボソボソと食事を始めた。
「アレ? 味噌汁にサツマイモ入ってるんだ。ちょっと甘みがあって少し食べやすいよ」
「そうよ。今日は食べやすくしてみたのよ。せっかく作ってもあなたが食べないと本末転倒じゃない。また、倒れたら嫌だから」
珍しく健気な様子を隠さない文花に夫はバツが悪いようだった。肩をすくめ、黙々と食事をそていた。
「文花ちゃんさ、明日は取材で町田君と都内のオシャレなカフェに行ってくるんだよ」
「そう。頑張ってね」
「アレ? 文花ちゃん、不倫しに行くんじゃないかって疑って鬼の顔しないの?」
夫はいつもと様子の違う文花に、呆然としていた。
「また変な恋愛テクニックでもしてるの?」
「はは、してないけど」
恋愛テクニック本では夫を立てる妻でいればモテると書いてあり、健気に実践した事があった。しかし、夫に不自然だ、不気味だと言われやめた。今は恋愛テクニックをするわけでは無いが、朝比奈の挑発している言葉の数々が心に残り、少し疲れてしまったのも事実だった。
別に大人しい奥さんになるつもりは無いが、毎日不倫を疑うのもそれはそれで疲れる。ここらで夫を信頼しても良いかもしれないと思ったりもした。それに夫は『愛人探偵』だけでなく、ミステリの新作も準備中だ。恋愛小説は全部やめるわけにはいかないだろうが、徐々に辞めていけるだろうと淡い期待もあった。
「いや、何か文花ちゃんが聖母マリアみたいに懐大きくならなくたって良いんだよ? 相変わらず悪妻で」
「そうなの?じゃ、また愛人調査を復活させようかしら」
「それはやめて」
夫はあまり美味しそうにはしていなかったが、味噌汁も煮魚も雑穀ご飯も全て完食そていた。
「あなた、やれば出来るじゃない。その調子よ。私の料理を食べていたら、絶対病気にはならないはずよ」
空になった食器類を見ていると、嬉しくてついついそんな事を言っていた。
夫は再び面食らってポカンとしていた。
北風と太陽ではないが、いつものように厳しすぎる物言いもやめた方が良いのかもしれない。まして今は不倫もせず、意識高い和食も完食した。坂井智香の事件でも、容疑者の一人に優しく接したら全て事情を吐いてくれた事があったし。
夫は何か思い詰めたようにしばらく考え込んでいた。目も少し泣きそうにうるうると潤んでいた。
「決めたよ、文花ちゃん」
「何を?」
「僕はもう恋愛小説は書かない」
「どうして?」
望んでいた事だが、いざそう言われると心の準備が追いつかなかった。
「もう、恋愛小説を書いて文花ちゃんを苦しめたくない。そう思ったんだよ。今書いてるのが終わったら、新しい恋愛小説の企画は出さないよ」
夫は真っ直ぐに文花を見て言った。さっきまで嬉しい気持ちがあったし、望み通りの結果なのに、何故かあまり幸福感は感じなかった。
「ミステリを書くの? 売れないかもしれないわよね?」
「良いんだよ、もう。それに朝出版の牧野から、『余命666日の花嫁』と似たようなものを書けとか言われてね。既存の小説に似てるものを書けと言われる事は珍しい事では無いんだが、正直なところ辛いわな…」
夫は俯いた。
やはり牧野のあの要望は夫を傷つけていたのだ。夫を傷つけるののは、何であろうと妻として容認はできない。
「わかったわ」
「収入は落ち込むかも」
「今だって月10万円ぐらいしか使ってないのよ。私もパート増やしたり、色々やってみるわ」
「文花ちゃん、資格とかないじゃん」
「大丈夫。何とかなりますよ。あなたもコンビニバイトぐらいはやってくださいね」
そっけなく言ったつもりだが、夫は何やら感動した様に声を詰まらせていた。
「ごめんよ、文花ちゃん」
「何が?」
「何もかも…」
北風と太陽の作戦は大成功のようだった。むしろ、今までチクチクと嫌味うぃ言っていたのが逆効果だったのかもしれない。坂井智香の事件の時、夫が好きな牛丼やファストフードを毒まみれなどとキツく言ったことなどを後悔した。
「そうね。私も色々と悪かったわ」
「嘘! 文花ちゃんがしおらしく謝ってる…」
夫は、目を丸くして驚いていた。
しかし、この事で冷え切っていた夫婦間にも光が差し込み始めた。不倫が始まってから全くなかった温かな空気を二人は感じていた。




