プロローグ
「はっ、はっ、はっ」
男が夜道を駆け抜ける。
その度に来ているゴージャスな服が邪魔そうに揺れる。
でっぷりと醜く肥え太った男の額から大量の汗が流れ出る。目の中に汗が幾つも入り、視界を遮ろうとする。
運動を滅多にして来なかった男の足は限界を超え、何度も転ぶ。
そのせいで、上等な布で作られた服には土がついたり、地面にこすれて布が傷み、見る影を失っていた。
普段ならワインが1滴でもかかれば怒鳴り散らしているところだが、今の男にそれを気にするだけの余裕はない。
なぜなら男の命は今夜、死神に狩られてしまうかもしれないからだ。
「くそっ。はぁはぁ、もう、ダメだ。どこかに隠れられる場所は‥…」
『夢に散り逝く花
一欠けらになりし頃 共鳴に喘ぐ』
美しい歌声が聞こえた。
それは男に感動ではなく恐怖心を与えた。
「ダメだ。今止まれば確実に殺される。くそっ。何で俺がこんな目に」
『夜空に舞う白き花弁
紅き焔に呑まれて消える』
「何で、走ってるのに距離が開かないんだ」
走っても走ってもずっと同じ距離感で歌声が聞こえる。まるで男の恐怖を増大させるかのように。
『灰となりし君の身に刃を突き刺し、参ろうか
屍踏み越え、向う先は天国か地獄か
その首取って確かめようぞ』
歌が終わる頃には男の目の前に美しい少女が月をバッグに佇んでいた。美しいモスグリーンの髪を夜風に靡かせ、黄金の瞳で冷たく見つめてくる少女に不覚にも男は殺される前だというのにときめいてしまった。
「泥梨に堕ちろ」
「うわぁぁぁぁっ」
男が我に返った時、死神の鎌が男の首を落としていた。
「姉さん、お疲れ」
夜の闇から美しい青年が現れた。白い髪に青い瞳をした青年は美しい少女の顔についた血を優しく拭う。
「帰ろうか、姉さん」
「ええ、そうね。戻りましょう。明日の朝はまた地味で根暗なオルテンシア・フィンスターニスに戻らなくては」
「地味な姉さんも素敵だよ」
青年の殆ど動かない表情に僅かな笑みが刻まれた。
青年の名前はヴィユノーク・フィンスターニス。六歳の時にオルテンシアに助けられ、フィンスターニスの養子になった。
少女の名前はオルテンシア・フィンスターニス。普段は地味で冴えない令嬢のフリをしているが本当の顔は国王の命令で国に害をなす貴族を排除する断罪の令嬢であった。
まさか、この世界に生まれた時思いもしなかった。
前世でやっていた乙女ゲームの悪役令嬢にそんな設定があったなんて。