ABCの謎9
ABCからは、誰も生徒のいない全クラスの報告書を書く『報告書記入会』という研修の案内が来ていた。
私も範子さんも、考えてみれば、随分多くのクラスを開いたものである。
「アホちゃうん。
何で、一人もいない生徒の報告書なんか書く必要があるん」と範子さん。
「それは、最初からの約束ですので、必ず来てもらないと困ります」と範子さんを、毎度プチッと切れさせる、おバカ担当者。
余りの担当者のしつこさに、またも、我が家の電話線を抜いてくれた範子さん。
うちに、大事な生徒さんからの電話があったら、困るんですがね……
範子さん主催のABC関係の集会が、4月の中旬、ちょうど、例の『報告書記入会』の日の後、近所の区民センターの大講堂で開かれた。
これも、非常に盛況で、範子さんが呼び掛けた殆どの先生と、呼び掛けていない先生も噂を聞いて、全国から集まってきた。
範子さんは、既に、私も含めた数名の先生と、地裁に『ABCとの契約解除』の訴えを起こしており、これは、全国誌にも囲み記事で報道されたり、テレビで報道されたりしたので、全国から先生が集まるという事態になったものと思われる。
しかも、集会の模様は、地域のケーブルテレビで実況中継され、その一部が、全国ネットのテレビでも報道される模様。
私は、偉いことになってしまった、と緊張しまくっていた。
ケーブルテレビで、範子さんの料理教室の助手として、映ったことがあるとはいえ、全国に流れると思えば、話は別。
家庭のビデオとハリウッド映画ほどの差がある。
ABC側からは、弁護士が一名来ているだけで、総合センターからも地区センターからも、誰も現れなかった。
テレビカメラの前で、法的にまずいことを言ってはいけないからだろうか。
その弁護士も、白髪のお爺さん。
よれよれの背広を来て、ボソボソとした聞こえにくい声で、最初から最後まで、
「契約書の○条○項によれば」云々というのを繰り返すだけだった。
つまり、契約書を交わしたのであるから、お互い、契約書に忠実に、
「信義を守って」このままやっていきましょう、ということだ。
「一生、一緒に暮らしましょう、という約束で始める結婚だって、3日で別れることもあるんですよ」と範子さん。
会場は、爆笑に包まれた。
テレビ慣れしてる……
「それに、これは、生徒が大勢集まるという前提に立った契約じゃないですか。
うちみたいに、大金をかけて、半年間も脇目もふらずに、生徒募集に奔走して、生徒がゼロだった
場合、そんな契約に、何で縛られないといけないんですか。
ここにおられる、どの先生だって、皆、自分のお金と自分の手と足と汗で、必死で生徒を集めてきたんですよ。
それは、先生自身の生徒であって、ABCの生徒じゃない!」
わああ、という拍手と歓声が巻き起こった。
「一体、ABCが、生徒獲得のために、何をしてくれました?
何のCMかわからないのをテレビで流したり、全然効果のないチラシを新聞折り込みしただけで、スタッフがよってたかって、無理に願書を書かせたりして、本来なら来るはずの生徒まで、逃がしてくれただけじゃないですか!」
再び、歓声。
「大体、この契約書自体が、職業選択の自由を保証している憲法に違反しているわけですし、契約に違反した場合の先生方が払う違約金ばかりが書かれていて、教室発展のために支援するというABC側の契約違反には、全然触れられていません。
私達は、裁判で、この契約書の違法性と、ABCの詐欺まがい商法を徹底的に暴いていくつもりです」
何かわけのわからない感動と興奮に巻きこまれて、私までが立ち上がって、拍手していた。
目からは、一筋の涙が。
思えば、半年間、よく頑張ったものである。
こんな実りのないことのために、本当によく頑張った。
「佐藤先生!
佐藤先生!」と範子さんコールが起こっていた。
範子さんは、誰よりも、一生懸命に頑張った。
「大教室も夢じゃない」ということばを信じ、
「頑張れば頑張るだけ、生徒は集まる」ということばを信じて、半分ノイローゼになりかけながら、頑張ってきた。
苦手だった英語を、必死になって丸暗記し、研修の準備は、万全怠らず、休まず、遅刻せず、全研修をこなしてきた。
教室のために、和室を洋室への全面改装。
クリスマス会のパーフェクトな準備。
元旦午前0時のチラシ配り。
新聞折り込み、ポスティングに手配り、DMやパンフレット類の宅配。
その全ては、一切、報われることが無かった……
「ABCのバカヤロー!」と範子さんが絶叫すると、全員が一人になったかのように、
「ABCのバカヤロー!」コールが起こった。
泣いている先生がいる。
絶叫している先生がいる。
こぶしを振り上げている先生がいる。
その後、興奮した先生達が、一人、また一人とマイクを握って、生々しい現場報告を行った。
範子さん同様に、頑張ったのにダメだったという報告。
また、これだけ自分でやらなければならないのだったら、一人でやった方が、よっぽどマシだった、という不満。
十年以上続けている大教室の先生も、毎年毎年高い教材費を買うことに、父兄の間で不満があること、報告書やらレポートやら、月謝の計算が、ひどく大変なこと、本当に、自分で始めていれば、よほど楽だった、と思う、と切々と語った。
「でも、ABCをやめることができなかったのは、生徒可愛さのためです。
やめられるものなら、一刻も早く手を切りたい」
また、わあ、と歓声が上がった。
ほんまに、ABCって、評判悪かったのね。
後は、範子さんお手製のクッキーと紅茶が登場し、ひとしきり、ABCへの不満に花が咲き、テレビ局が引き上げ、先生方も
「佐藤先生、がんばって勝ち抜いてください」と激励の声を残して、一人また一人と帰って行った。
その日の午後7時のニュースでは、範子さんの演説の一部と、絶叫しているシーンのアップが、各局で流れ、範子さんは、その全部をビデオやDVDに録画していた。
手の回らない分は、友人知人に頼んだものらしい。
夜のニュース番組と、翌朝と昼のワイドショーでも取り上げられていた。
ABC問題は、学習塾チェーンの問題点を一挙にあぶりだし、ABC以上に悪質な塾チェーンも、その訴訟状態が、逐一、報道されるようになった。
ABC以外で、集団訴訟を起こされた、超のつくほど悪質な塾チェーンが、すぐさま倒産した。
この塾チェーンは、数十万の登録費を取りながら、全然、フォローをせず、生徒管理もずさんだということが報道され、一挙に生徒がいなくなり、倒産に到ったものらしい。
上には、何にでも、上があるものである。
裁判は、遅々として進まなかったが、ABC側は、個人的に和解案を持って、訴えを起こしている各先生を晦渋にかかっていた。
ABCの看板と教材を返してくれれば、生徒はそのままで、契約解除に応じる、というものが多く、範子さん以外の先生方は、その条件で和解に応じた。
私は、それで上出来だと思ったが、範子さんは、がんとして、和解には応じなかった。
最終的に、ABC側は、看板と教材を引き取りに来るとまで言い、申込金はお返しするとまで言い、範子さんが支払ったチラシの印刷代をお返しするとまで言った。
でも、範子さんは、和解に応じなかった。
「だって、もし、ここで私が和解に応じたら、マスコミはすぐにABCのことなんか忘れて、また、私と同じような人が、
『大教室も夢じゃない』と言われて、実りのないタダ働きをしたり、自分の大事なお金を投資したするわけでしょ?
それは、よくないことだと思うのよ」
私は、自分さえ良ければ、と思っていた自分を、かなり恥じた。
そうか、何も意地でやってるわけじゃなく、自分みたいな犠牲者を二度と出さないために、やっているのか……
「意地もあるけどね」
えーとー、範子さんにまで、考えを読まれる私って……
「本当に、お兄さんが言ってた通り、明子さんて、何考えているか、凄くわかりやすい」
「あ、そう」
「本当に、顔に書いてあるもんね。
ABCは、すごくイヤ、と顔に書いてあったし、研修は嫌い、と顔に書いてあったし、チラシ配りなんかしても無駄って、顔に書いてあったし、早く和解に応じればいいのに、って顔に書いてあったし……」
「もういい。
もう、やめて。
隆さんと息子に読まれるだけでも、大変なのに」
「私は、お兄さんや春樹さんみたいに、細かくはわからないけど」
「いや、もう、それだけで充分」
クリスマス会なんかやりたくない、ってのも読まれていたのだろうか……
「クリスマス会ねえ」
当然、ギョッとする私。
やはり、読まれていた?
「去年は、散々だったけど、今年は、料理教室と英語教室と合同で、派手にやりましょうよ」
「そ、そうやね。
派手にね」
あー、心臓に悪い。
しかし、そんな百人近くも収容できるような場所があるのだろうか。
「ホテルでも借り切って、豪華にやりましょう。
年に一度のことだし」
はあ、貧乏人には無い発想だ。
「お兄さんの気功教室も合同でやれば、春樹さんも謎の熊で登場できるし。
けど、春樹さんのハンサムが隠れてしまう……」
生徒がかぶっているとは言え、隆さんがそんなパーティーに来るかな?
「明子さんは知らないでしょうけど、お兄さん、毎年、1月には、この一年を盛運に導くパーティーをホテルを借り切ってしているのよ。
会費1万5000円も取って。
けど、これがまた、気功を知らない人まで、会費払って集まるのよね。
会社の社長さんとか、自営の人が。
何となく、新興宗教の集会っぽい雰囲気。
お兄さんのお札とかお守りなんかが、飛ぶように売れる」
なるほど、お金のあるところには、どんどんお金が集まってくるというわけか。
「今度、明子さんも、受付する?」
「いえ、とんでもない。
そんなパーティーなんて出たことないし。
着る服もないし」
「お兄さんの手を握って泣く人もいるし、小説のネタにもなるわよー」
う。
痛いところをつかれて、ググッと心が傾きかける。
実は、誰にも言っていないけれど、この家と関わり合って以来の不思議な出来事は、暇だった一年間に、全部記録風にまとめてある。
全5冊。
1200枚は越える。
安くてコンパクトな原稿用紙に鉛筆書きだけど。
私の寝室の押しいれの底の段ボールの中身は、原稿用紙の山だ。
しっかし、こんな本当の話、誰も小説だとしか思わないだろう、と思う。
「明子さん、角の文房具屋さんで、何度も原稿用紙を買ったでしょ」
「え?」
「私が、プリンター用紙を買いに行ったら、『お宅とこの坂口さん、何か書いてはるんですか?
いや、一度にあるだけ買いに来はるんで、毎度、追加で注文出さんとあきませんねん』と原稿用紙を見せられて、ピーンと来たわけ。
前に、『作家になりたい』と一度だけだけど、聞いた覚えがあるし」
「あははは。
趣味よ、趣味。
スーパーやめてからの一年間、暇やったし」
「読ませてー」
「字下手やし、鉛筆書きやし、まだ、まとまってないし……」
「途中でもいいから、読ませてー」
これは、困った。
範子さんは、最初から登場している。
「ははーん。
私のこと、書いたのね」
「いや、そ、そんなこと……」
あるけど。
「私がモデルとして出てるんなら、読む権利あると思うけど。
私、一度、小説に登場してみたかったの。
脇役でもいいから」と夢見る瞳になる範子さん。
ズバリ、脇役です……
「まだ、書いてないけど、今度書く小説は、範子さんが主役」だよね、絶対。
「え!
本当?
凄い!
主役?
わー、楽しみー。
早く書いてねー。
そして、早く読ませてねー」
「はいはい」
しかし、問題は、いつ書くかだ。
しかも、誰にも知られずに。
火曜、木曜、土曜は、塾で忙しい。
範子さんの料理教室もあるし。
日曜も無理。
とすると、月曜、水曜、金曜の隆さんの気功の日だな。
その日に、元ABCの教室のドアを締め切ったら、誰にも見られることはないし、たとえ見られても、教える下準備をしているように見えるだろう。
例のボウッとした女の子は、毎週土曜日の3時に、きちんきちんとやって来ていた。
声も小さいし、覚えは悪いし、今覚えたこともすぐに忘れるけれど、とにかく、熱心だった。
「覚えられなかったら、30回でも100回でも、声に出しながら、ノートに書いてきなさい」と言うと、本当に、30回100回とノートに書いてくる。
健気で律儀な女の子だ。
他のクラスは人数が多く、元気で騒がしい。
でも、全員熱心だ。
「うわ、何かいる!」とたまに、霊が見える子がいるようだ。
「まあ、気にせんと、勉強しよ」と言うしかない。
「先生、こんな『幽霊屋敷』に住んでて怖くない?」
「まあ、ここにいてるのは、全部成仏した霊やから、大丈夫なんよ」と一体、何を言わすのや!
「ええ、成仏て、あの世に行ったんやろ?
何で、ここにいるの?」
「ま、遊びに来るわけやね」
「ふーん。
成仏してない霊て、どんなん?」
「(それは、怖いでー……)さ、そんなん言うてんと、勉強、勉強」
毎日、暑くなったり涼しくなったりと気候の変動の激しい6月の半ば。
「凄い!
あんた、ほとんど教科書覚えたやんか!」と私は、言った。
例の女の子は、私を見て、ニッコリと笑った。
「やり方が、わかったから」
うう!
感動の瞬間。
先生と乞食は、三日やったら止められない、というのは、こういう瞬間があるからだ。
「先生、ありがとう」
う、いかんいかん。
ジワーと目に涙が浮かびかける。
「何、言うてんの。
あなたが、一生懸命に頑張ったからやないの。
ほんまに、よう頑張ったわ、ほんまに、一生懸命やったわ」
「うん。私、頑張った。
だから、やり方がわかった」
その時、ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴った。
次のクラスの一番乗りがやってきた。
「ちょっと待っててね。
門、開けてくるから」
「はい」
私は、インタフォンに出ずに、直接、門に向かった。
広い家は、こういうところが不便だ。
門を出ると、何と、お久し振りのお爺ちゃんが立っていた。
「お爺ちゃん!」
「春子ちゃん!」
と息子と爺ちゃんみたいに、感動の対面だ。
「元気やったか、春子ちゃん」
「爺ちゃんこそ、元気やった?」
「うん」
「今日は、どうしたん?
私、まだ、塾があるから」
「ああ、範子を迎えに来たんや。
春子ちゃんに教えてもらってるて、言うてたから」
「けど、範子さんは、もう帰ったけど」
ハッと気がつくと、横に、カバンを持った女の子が立っていた。
「範子、よう勉強したか?」
「はい」
え?
え?
え?
そうだ、名前も聞いていないままだった。
「あなた、範子っていうの?」
「はい。
佐藤範子です」
ズガーン。
これは……
一体……
どーいうこと……
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「先生、さようなら。
これからは、自分で勉強します」
「あ……はい、さようなら」
私は、茫然として、爺ちゃんと範子(?)ちゃんが帰って行くのを見送っていた。
どういうことか、訳がわからないまま。