ABCの謎8
とその頃、後で知った話だが、範子さんは、範子さんで、数名のお母さん方に取り囲まれていたらしい。
「それでね、料理を教えて欲しいって、頼まれてしまって。
私、そんな、教えるほどの腕前じゃないと断ったんだけど、
『先生、どーしてもお願いします』と言われて……引き受けてしまったのよ。
何でも、お兄さんの気功の教室で、料理の話が出て、お兄さんたら、やめておけばいいのに、
『うちの妹は、料理が得意で、凄く上手だ』なんて、自慢したらしいのよ。
それに、一緒にいた春行さんまで、
『本当に上手で、おいしいですよ』と太鼓判を押したんですって」
翌日、範子さんから、夜叉みたいなとげとげしたところが無くなって、いつものホワーンとした感じに戻っている。
あー、良かった。
「でね、私、考えたんだけど、どうも、勉強を教えるなんてのは、最初から向いていなかった気がしたの。
無理しすぎたから、生徒も集まらなかったのね。
で、こんなことを今更言っては悪いんだけど、あの2名の生徒さん達、明子さんが教えてくれないかしら」
そこで、私も、前日の出来事を順番に話すことになった。
二人とも、同じことを考えていたと思う。
「お兄さんったら」と範子さん。
「そうそう。
隆さん、物凄く範子さんの心配をしてた」
「やっぱり、勉強って、ガラじゃないのよね、私。
兄には、お見通しだったわけか」
「ABCの生徒は、ゼロになって、それ以外の生徒が数名」
「明子さん、ABCなんて、やめちゃって、自分で教えたらいいわ」
「けどね、契約書に縛られてるし」
「あー、あの契約書?
裁判したら、慰謝料取れますよ、って、弁護士が言ってた。
契約書無効の訴えを起こす?
それから、私言わなかったんだけど、明子さん、契約書と誓約書に『坂口春子』って書いてたの、覚えてる?
郵便局の通帳で、坂口明子に訂正されたじゃない」
「えー、そうやったっけ?」
「そうそう。
架空の人物との契約は、無効だって。
それ以後、契約し直してないでしょ?」
「うん。あの一回だけ」
無意識のうちに、『坂口春子』という通名(?)を書いていたのか。
な、何と賢い私。
ま、ただの間違いだけど。
「堂々と教えたらいいよ。
どうせ、ABC関係からは、誰も来ないんだし」
「ほんまに、そうやね」
という訳で、範子さんは、即、ABCに電話をかけて、ABCが無料体験の当日、もぎ取って帰った、生徒2名から、入学の断りがあったことを報告した。
「だから、生徒ゼロになりました。
はあ?
何言うてんの!
生徒2名いうたら、月に5000円でしょ?
そんな一日のおやつ代にもならないお金、誤魔化したりしませんよ!
あんまり失礼なことを言うと、名誉棄損で訴えるからね。
私が台所で教えるて言うてるのに、奥の部屋がいいて言うて、あの改装に、どれだけかかったか知ってるの?
折り込み広告代だって、お宅に払う印刷代に宅配代金だって、月5000円なんかだと何百年もか
かるだけ、お金かけたのよ。
『大教室も夢じゃない』なんて、騙されて!
名誉棄損・契約解除・慰謝料請求の訴えを起こしますからね!」
ガッチャーン!
範子さんが、怒ると怖い。
お金があるだけに、凄く怖い。
「訴えることにした」とのこと。
「もう、私、頭に来たわ。
明子さん、電話貸してね」ともう、電話をかけ始めている。
範子さんは、行動派。
スーパーの件でも、産地直送ルートを開発して、スーパーを窮地に追い込んでいる。
5000円が、一日のおやつ代にもならないのか……
我が家の5000円とは、100倍以上の開きがあるようだ。
「こんにちはー。
研修でご一緒させていただいた、佐藤です。
うちは、結局、2名入ったんですが、後で断られて、ゼロだったんです。
あー、3名ですか、でも、まさゼロだとか、2名だとか3名だなんて思いませんでしたよねー。
そうですねー。
詐欺みたいですよねー。
で、私、弁護士と相談したら、あの契約書や誓約書は無効ということで、生徒だって、自分が苦労して獲得して、ABCの高い教材まで買ってもらったんですよね。
部屋も労働も提供して、半分ピンハネじゃ、やっていけませんよね」
というような電話を各所にかけ、ABCのチラシでしか知らない近隣の先生にも電話をかけていた。
「ですよねえ。
弁護士が言うには、元ある教室のすぐそばに教室を作るのは、生活権の侵害に当たると言うんですよ」というのは、既存の教室の先生にかけているらしい。
一人の先生当たり数名の知り合いをいもづる式に聞き出して、とうとう、夜までかかって、百名近くの先生に電話した。
ABCの営業の時も、凄かったが、こういうところも、凄い。
「よし、インターネットでも呼び掛けよう。
明子さん、文章考えてね」
「えー!!」
おいおい。
どこまで行く気だ、範子さん……
そのまた翌日、私が徹夜で書いた文章を読んで、あれこれと、
「ここは、こういう風に書き直して」とか、
「こういうのも入れて」という範子さんの注文は果てしがない。
この一週間は、隆さんの気功教室は、春休み中。
隆さんと息子とお爺ちゃんとで、またも、青春18切符の旅に出た模様。
ほんまに、金持ちのすることは、訳がわからない。
私は、インターネットのことなんか全然わからないけれど、範子さんは、メルマガというのの発行申請をして
『学習塾チェーンの正体』というメルマガを発行するつもりらしい。
これには、他の先生方の体験談も載せる予定のようだ。
で……文章を書くのは、私の役目に……
そりゃあ、文章を書くのは好きだけど、そんなメルマガとかいう訳のわからないものじゃなくて、きちんとした雑誌とかに書きたい私だ。
「じゃあ、知り合いの発行しているミニコミ誌にも載せてもらおうっと」と、範子さん、まさか、あなたまで、私の考えていることが読めるようになった?
「だって、明子さん、顔に書いてあるんだもの」
思わず、自分の顔を触った私だった。
隆さんや息子の言うように、誰にでも、私の考えていることは、ザザ漏れ状態になっていて、わかってしまうのだろうか……
「それと、団体交渉には、明子さんも出席してね」
だ、団体交渉。
それは、一体、何??
「一応、各先生方と連絡を取り合って、こっちの言い分を、ABC側に聞いてもらう席を設けることにしたの」
「へええ」と言うしかない私。
「ABCというのは、昔からやってる先生によると、日本が戦争に負けた後、外人二人を雇って始めた所みたい」
戦後の焼け跡で、テントを張って、ABCの創設者は、外国人、多分アメリカ人だろうけど、その二人を使って、英会話の教室を始めた。
アメリカに負けた日本人は、これからは、英語が話せるようにならないとと思ったのだろう。
また、英語が話せれば、いい職にもつけたのだろう。
急激な成長をとげ、英会話専門学校として、発展していった。
その後、家庭で出来る英会話教室として、各地に教室を増やしていった。
戦後のベビーブームで、ABCは、発展に発展を続ける。
恐らく、ネットワークビジネスの黎明期のように、発展は、終わりなく続くものと思われたことだろう。
徐々に子供の数が減っていき、同業他社の進出も続き、ABCは、岐路を迎えた。
で、英語だけでなく、算数・数学、国語、漢字検定、予備校、パソコンと手を出して行った。
それが、契約書を交わす際の、異常な数の教科数の実体だったのだ。
従って、中身は、お粗末にならざるを得ない。
そういうわけだったのね。
教室を異常なほど新設していくのも、最後のあがきと思えば、思えなくもない。
まず、看板料3万円が入る。
教室代は、先生が自宅でするから無料。
範子さんみたいに熱心な先生が多いから、宣伝応援費として、5万円を出したって、差額は、2万円。
先生に、新聞折り込みを入れさせ、手配りやポスティングをさせるから、生徒募集の経費は浮く。
先生は、自分の教室の宣伝をしているつもりで頑張るけれど、結局は、ABCの宣伝になっているだけ。
ABC側からの援助は、どこの何の広告かわからないテレビCMと、誰も読まないような新聞折り込みチラシ。
後は、スタッフを使って、先生をどれだけ馬車馬のように働かせて、生徒をゲットするか。
生徒をゲットしたら、まず、入会金と教材費が入ってくる。
これは、完全に、ABCの丸儲け。
その上、先生が苦労して、無料体験をしたり、宣伝したりして、やっとの思いで獲得した生徒の授業料の半額をピンハネ。
しかも、消費税分は、まるまるABCのもの。
正に、『まるとくや』のオーナーに強欲と言われても仕方のないABCだった。
私は、驚くべきことに、木曜日と土曜日だけで、二十名プラス一名の生徒を獲得した。
せいぜい数人と思っていた私は甘く、例のしっかり者のお母さんは、新中学一年生の親まで、引き連れて来たのだった。
なぜか、土曜日の3時からは、例のボウッとした女の子に空けておいた。
4時半から6時までが、新中1のクラス、7名。
6時から7時半までが、新中2のクラス、7名。
木曜日の5時から7時までが、新中2のクラス、6名。
新中2のクラス分けは、長年の勘と生徒の希望を吟味した結果、決めた。
電卓を持ち出すまでもなく、月収14万。
例の女の子は、別に無料でもいいか、という気になっていた。
何となく、そもそもは、あの子が来てからの話だし。
範子さんの方も、火曜日と木曜日の11時から2時間、生徒さん全員で料理を作って、みんなで食べる、という方向に決まったようだ。
材料費込みで、月謝は、7000円。
ABCの中学生コースと同じ値段だ。
材料費込みなら、安すぎる値段ではないか、と内心、心配する私だった。
「明子さん、聞いて、聞いて」と範子さん。
「明子さんの台所、使わせてもらえるわよね。
私、大型冷蔵庫を買ったけど、置いてもいいわよね。
うちのダイニングでは、14人は座れないし」
な、何と、範子さんの生徒数28名。
月収19万6千円。
けど、範子さんの場合、材料費に糸目をつけないというのがあるし……
「明子さんも手伝ってくれるわよね」
「はい」と言うしかない。
「椅子が足りないから、買い足すつもりだけど、それまで立っていないといけないけど」
もう、何でも言うて下さい。
「私も、お兄さんみたいに、教室代払うし」
「範子さん!」と私は言った。
「何てこと、言うの。
範子さんが、凄いお金をかけて、改装してくれた部屋で、私は生徒を教えるんよ。
あの部屋、凄く教えやすい、と思う。
ABCの広告費だって、全部、範子さんが払ってくれたんだし、そんな水臭いこと、言わないで」
ま、これは、月収が14万入ってくるという、心の余裕から出たことば。
本来、私の方が、教室代を払おうと思っていた。
「私、明子さんが、全然乗り気じゃないのを知っていて、ABCに巻き込んでしまったんだから、そんなん、当たり前よ。
本当に、よく、私に付き合って、明子さんには全然必要でない研修に出たり、ポスティングやら、手配りなんかもしてもらったし。
私の夢に付き合ってもらった。
すっごく、感謝してる」
私と範子さんは、恋人同士のような、熱い視線を交わし合ったけれど、すぐに、お互いに照れて、視線をそらした。
ま、恋人同士じゃないし、そうならそうで、怖い話だ。
「それと、多分、明子さん、心配してると思うけど、私、料理を習いたい人って、どれだけ安い材料で、どれだけおいしい料理が簡単に作れるか、というのを知りたいんだというのは、わかってるの。
もちろん、新鮮な食材はそろえるけど、それは、どこででも、手に入るものがいいわよね」
範子さんは、一呼吸置いた。
「で、あの『まるとくや』でも買うことになると思うんだけど。
この近くで、何でも揃うのは、あのスーパーしかないし。
もちろん、新鮮な産地直送品も使うけど、あそこも利用しないと、間に合わない材料もあるのよ。
で、明子さん、相談なんだけど、『まるとくや』で材料買っても、気を悪くしない?」
またか。
私とオーナーとの、色恋沙汰があったという前提で話している。
「全然、平気」と言うしかない。
「ごめんね、明子さん。
無理してもらってるのは、わかるんだけど……」
無理なんかしてないって。
全然、関係が無いんだから。
「明子さんが、どうしてもイヤなんだったら……」
「全然、イヤじゃないし、店長の田鋤原さんのためにも、少しは繁盛した方がいいと思うし」
この間、微妙な間があった。
「……田鋤原さんだったのね。
私、全然、知らなくて……」
違ーう!
田鋤原さんは、ただの田鋤原さん。
私とは、何の関係も無い。
「そうよね、あの旅行の時、明子さんが行方不明になって、お兄さんや春樹さん、父までが心配していた時、田鋤原さんと一緒だったのよね」
はー……
確かに、田鋤原さんと一緒だったけど、範子さんが考えるような色恋で、一緒だったわではない!
「わかったわ。
あのスーパー撲滅作戦は、一旦中止」
一気に疲れた。
「オーナーは、若い女と結婚して、子供までいるけど、あの店長さんは、独身なんでしょ?
明子さん、頑張って」
「あのね」どこを、どうつつけば、そういう結論になる?
「でも、兄も、候補に入れておいた方がいいわよ」
もう、全て、おっしゃる通りです。
白は黒。
黒は白。
範子さんの料理教室は、本来ならABCの新学期の始まる4月にスタートし、予想外の盛況を見せた。
範子さんの料理の腕は、身内では、とっくに知っていることだったが、それが、身内以外で、異常な反響を呼んだ。
範子さんの言っていた、安い食材で、おいしい料理を作る、というのは、地域のケーブルテレビでも取り上げられ、実況中継まで行われた。
火曜と木曜だけでは、人数がさばき切れなくなり、土曜と日曜にも、教室を増やしたが、まだ希望者が殺到し、とうとう、水曜日には、ケーブルテレビの会場で、地域にオンエアされる、
『安い食材で、おいしい料理を作る』番組になってしまった。
地域で有名だった『幽霊屋敷』は、教室の欠員を順番待ちする『人気料理教室』になってしまった。
範子さんの産地直送の品々も、近隣の家庭の必需品になり、範子さん人気のお蔭で、倒れる寸前だった『まるとくや』も、息を吹き返した模様だ。
私の方も、木曜と土曜では追いつかなくなり、火曜日に、新中学3年生のクラスを作ることになった。
塾での月収は、何と、一昔前のように、20万を越えた。
範子さんや隆さんには、到底及ばないけれど、光熱費や水道代をケチケチしなくても、よくなったし、よれよれの下着は買い替えられるし、今まででは無理だった、服代まで出るようになった。
美容院や歯医者にも通えるようになり、何年ぶりかに、コート類をクリーニングに出すことも出来た。