ABCの謎7
門を出ると、お母さんは一人ではなく、二人で連れ立って来ていた。
「あ、どうぞ、お上がりください」と言うと、二人共、何となく尻込みする様子が伺える。
もしかすると、遅ればせながら、噂を聞いた?
「この間、願書を書いたんですけど、主人と相談しましたら、まだ、英語を習わせるのは、早い。
中学生になってからでいい、と言うので、申し訳ないんですけど、また、次の機会にでもお願いすることにしたいと思って、お伺いしたんです」
「うちも主人に叱られまして、何で、先に相談しないのか、て言うて。
それと、そんな無料体験に来たその日に、よってたかって入学願書を書かせるところは、やめておけと言うものですから……」
「では、申し込み金をお返しさせていただきます」と、二人のもう決めているという顔を見ると、何を言っても無駄だと思ったので、そう言った。
「そうですか。お手数かけます」
二人共、申し込み金は、1000円以上ならいくらでもいいとスタッフに言われて、1000円ずつ払ったのだった。
「いえ、1000円ですから、結構です」と言うかと期待した私がバカだった。
どうしても、家に入ろうとしないので、また、門から玄関を通って、『ABC用』と書いてある封筒の中の1000円札を2枚取り出した。
いただいたまま、元の持ち主に返るの図である。
どっちがどっちかはわからないけれど。
「むきだしで失礼ですけど、お返しします」と1000円ずつお返しした。
「あのう……願書も返していただけますでしょうか」
一度に言えよ、と思いながら、
「承知しました」とまた、家に向かって走って行き、『ABC』と書かれたファイルの中から、たった2枚の願書を取り出した。
生徒数たった2名ではなく、ゼロ名になってしまったわけだ。
「あの、それから、後で、またしつこく勧誘の電話がかかってきたりしませんよね」とまで、言われてしまった。
「それは、大丈夫ですから、ご安心ください」と言うしかない。
「あのう、それから、ここで、気功の教室もやっておられると聞いたんですが……」
「はい。
月水金とやってますが。
火木土と、近くの区民センターでもやっているはずですし」
「それが、区民センターは、満員だということなので……
こちらでなら、何とか入れていただけるのではないか、と思ったものですので」
「私は、家を管理している者なので、直接お尋ねになってください」と隆さんの家の場所を教えてあげた。
「お電話番号を教えていただけませんか?」
「残念ながら、電話はないのです」
「携帯でも……」
「先生は、電話がお嫌いなもので……」と言うしかない。
「わかりました」
去っていくお母さん方の後ろ姿を茫然と見送っている私。
「すっごいハンサムなんで……」
「綺麗に……」
「ダイエット……」
という声が、切れ切れに聞こえていた。
ABCとは違って、無茶苦茶に繁盛しているのね、隆さんの教室。
区民センターで頼まれて教えることになった、と言っていたのが、一年ほど前。
満員……区民センターの広い教室が……満員……
たった2名の生徒もいなくなり、その生徒のお母さん達までが、隆さんの教室に行く。
不況も戦争も、『幽霊屋敷』も、何の関係もないのか。
フッ、と自嘲してしまった。
しっかし、範子さんに何と話そう。
物凄く気が重いかも……
そう思って、門の方を向いて、ギョッとした。
いつぞやの中学生が、またも、制服姿のまま、ボウッと立っていた。
仕方がない。
代わりの生徒を確保しないと、と思い、「中に入る?」と尋ねると、コクンとうなずいた。
言葉が話せない子なのだろうか。
それなら、英語は無理だから、数学か漢字はどうであろう。
無意識のうちに、ABC専用の教室に通した。
あーあ……
また、ポスターが全部落ちている。
「ちょっと、ごめんね。
そこに座っていてね」と椅子を勧めて、今回は、落ちているポスターを手早く拾い集めた。
貼っている暇はない。
集めたポスターは、ABC専用キャビネットに収納した。
「勉強しに来たの?」と尋ねると、コクンとうなずいて、持っているカバンから、教科書とノートを取り出してきた。
英語の教科書だ。
「英語を習いたいの?」
また、コクンとうなずく。
「何年生?」
「1年」と今度は、小さな声で返事が返ってきて、私は、ホッとした。
「4月から2年生になるの?」コクン。
「はい、って言おうね」
「はい」
私は、少々思案した。
ABCは、以前、中学受験コースについて問い合わせた時、きちんとした答えが返って来なかった。
ノウハウは、ほとんどない。
間違ったことを教えても大丈夫な幼児が専門なのだ。
受験コースは、開設3年目だったと思う。
「ABCの中学受験コースの説明をしようか?」
私の声の調子に合わせたのか、首を振った。
「けど、私のやり方で教えるにしても、ABCの受験コースに入学してもらわないといけないんだけど」と私は、契約書の内容を思い出しながら言った。
中学生は、また、首を振った。
私は、困った。
小学生2名でABCに半分取られて、月5000円の収入。
中学生1名、ABCに半分取られて、月3500円の収入。
しかし、ABC抜きで教えると、月7000円の収入。
「わかった」と私は言った。
契約違反をしよう。
訴えるなら、訴えればよろしい。
「大教室も夢じゃない」と言って、範子さんに散々大金を使わせて、生徒ゼロ。
そんなABCなんか、もうどうでもよろしい。
どうせ、この家は、『幽霊屋敷』、ABC関係の生徒なんか集まらない。
「じゃ、ちょっと教科書の復習しようか」と勝手に、一年の教科書の復習をした。
その結果、全然、英語が頭に入っていない生徒だと判明。
やりがいがありすぎるが、ま、昔取った杵柄。
小学生が来ることになっていた土曜日の3時から教えることにした。
「じゃ、教科書とノートを持って、土曜日の3時に来てね」
「はい」
門まで見送って、家に戻ってから、名前も住所も電話番号も聞いていなかったことに、気がついた。
月謝の値段も言っていない……
そう思って、悩んでいると、ピンポンパンポンパーンというインタフォンの音。
今度こそ、範子さんだと思って、出てみると……
「あのう、こちらで、勉強を教えてくださると聞いたもので」という声。
「少々お待ちください」と言って、慌てて、外に出る。
私は、しっかり者です、と顔に書いてあるほど、シッカリした感じの女の人が立っていた。
「どうぞ、お入りください」
尻込みするかな、と思ったけれど、「失礼いたします」と平気で、家の中に入って来た。
「どうぞ、こちらへ」と例の部屋に通す。
ポスターが無いけれど、『教室!』という雰囲気は、充分以上にある。
「うちの子供、進学塾に通わせていたのですが、宿題が多くて、ついていけない上に、成績も下がる一方なので、どこかいいところは無いかと、ずっと探していたんです」
「ああ、それで、ABCの広告を見て……」
「いえ、そうではなくて、学校で使っている教科書に沿って、教えていただけないかと思いまして」
「個人教授を、ということでしょうか?」
「先生は、個人教授の方がよろしいんですか?」
そうハッキリ言われると、困惑する。
別に、どっちでも構わないんだが、今の調子では、生徒がいないので、どうしても個人教授にならざるを得ない。
「正直に言うと、本当に、生徒さんが集まらないので、教えるのには、グループ学習の方がいいんですが、個人指導でも仕方がないか、というところなのです」
「そうお聞きしたのは、実は、同じようなお母さん方の代表として、お伺いしたわけでして。
進学塾の入塾テストに合格するというのが、この地域では、一種のステイタスなもので、一応、この辺りの母親は、入塾テストだけは受けさせるのです。
すると、自動的に入塾の方向に進んでいくのです。
でも、一年間通わせていましたが、効果が無い。
一クラス50人という大教室ですし、とにかく宿題が多い。
宿題をして来ないと、居残りになる。
けれど、先生、『これをして来い』と言われて、全部できるような子供は、塾になんか行く必要は無いんです。
自分で、勉強できます」
「まあ、おっしゃる通りですね」と私は答えた。
「そうでしょう? 先生。
で、私と親しいお母さん方で、学校の教科書が、どれだけわかっているか、と子供達にテストしてみたら、全然わかっていないのですよ。
塾の教科書なんか、言わずもがなでした」
「それは、子供さん達にとって、とても良かったですね。
本当は、ご家庭で、お母さん方が、子供の勉強をみるというのが、一番望ましい形だと、私は思います」
この件、一件落着。
そういう自慢をしに来たお母さん、ご満足、と私は思った。
「けれど、私の例で言いますと、看護婦をしていますので、夜勤とかもあって、とても、定期的に子供の勉強をみてやる余裕はないのです。
その他、家のローン返済のために、パートに出ている人とか、母子家庭で、朝から晩まで働かないといけない人とかばかりなのです。
で、私が、皆を代表して、夜勤明けの今日、寄せていただいたわけなのです」
どうも、言うておられることが、よく理解できない私であった。
「率直に申します」とお母さん。
ほんまに、率直に言うて欲しい私。
「ABCとかは、本当に、どうでもいいのです。
実は、同じご相談で、この近辺の個人塾とか、ABCの教室とか、全部回らせていただきました」
ご苦労さまな話だ……
「それで、ここまで、こちらの話を聞いていただいたところは、ここが初めてです。
どの塾も教室も、こちらが話すより先に、自分のところの宣伝をされ、すぐに、無料体験だとか、入塾テストの日ですとか、そういった一方的な話をなさいます」
なるほど。
「それに、こう言っては失礼ですけど、まず、住所氏名電話番号、生徒の学年を聞かれます。
先生のように、それをお尋ねにならないところも、初めてです」
それは、私がウッカリしているだけで、尋ねる方がフツーだと思うけど、ABCみたいなところが、世間には多いわけだ。
「ま、私は、ただの素人ですから」とつい自嘲した。
そうそう、それに言っておいた方がいいこともあった。
「それに、この家は、この付近の人からは、『幽霊屋敷』と呼ばれている、というのを、つい、今日知ったところです。
そういうところも、お考えになった方がよろしいかと」
「それなんです」とお母さんは、勢いこんで言った。
「『まるとくや』っていうスーパーがありますよね。
あそこで、『幽霊屋敷』のお話を伺ったのです。
だから、誰も子供を通わせる人なんかいない、という。
それこそ、『穴場』だと思いました。
実体のわからない幽霊なんかより、金の亡者の塾の方が、よほど怖いと思っています」
ま、そうかも。
「で、先生、これは、他のABCの教室で、『無理です』と言われたことなのですが、ABCに関係無く、子供達に勉強を、まあ、特に英語ですが、教えてやってもらえないでしょうか」
「一応、ABCとの契約で縛られていますから……」
アハハハと笑おうとしたけれど、相手が、あまりに真剣な顔をしているので、笑えなかった。
「先生、そこを何とかお願いします。
ABCの入学手続きが必要なら、そうさせていただきます。
でも、学校の勉強の方を中心にお願いします。
できたら、ABCとは関係無く、教えていただけたら、ありがたいんですが」
そりゃあ、私だって、ABCなんかとは、何の関係も無く教えたいよ。
「わかりました」と私は言った。
あのボウッとした中学生も教えることだし、もう、ABCなんかどうでもいい。
「ありがとうございました」とお母さんの目が、うるうるしている。
「本当に、もう、断られたらどうしようかと思いました。
佐藤先生に、ご相談して、本当に、良かったです」
「ええと……
佐藤先生と言われると……」
一体、誰だろう??
「もう、先生ったら。
区民センターで気功を教えておられる、佐藤先生ですよ。
私も、他のお母さん方も、佐藤先生に、気功を習っているので、知り合ったようなものなんです」
そこで、初めて、佐藤先生=隆さん、という図式が脳内に発生。
隆さんの紹介……
うう……
物凄くイヤかも……
「だから、先生が、塾とか高校の先生も、なさっていたということまで、教えていただいているんです。
本当に、ご迷惑になるかもしれない生徒ですけど、どうか、よろしくお願いします」
「は、はあ……」
「お引き受けいただいて、他のお母さん方も、喜んでくれると思います。
では、また、日を改めまして、他のお母さん方も、ご一緒に、ご挨拶に参ります」
「は、はあ……」
お母さんを門までお見送りしながら、茫然としていた。
そーかー、『幽霊屋敷』が怖くない人もいるんだー。
隆さんの気功教室の紹介かー……
範子さんには、どういう風に伝えたらいいんだろう……