表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ABCの謎  作者: まきの・えり
6/10

ABCの謎6

 最初から、ABCに対して、かなり距離を置いていた私と違って、範子さんは、本当に、担当者や会社に言われるまま、いや、それ以上に頑張ってきた。

 春の香りのする3月になっても、入学者は、2名から増えることは無かった。

 範子さんは、それでも、新聞に折り込みチラシを入れ、私と一緒に、ポスティングしてはいたが、息子登場以来若返った分以上に、老けこんでいった。

 私は、どう慰めたらいいものか、ことばを知らなかった。

 ただ、一緒に、手配りしたり、ポスティングするだけだった。

 範子さんの顔は、徐々に、眉間に皺が寄り、目が釣り上がり、私の知っている範囲で言えば、夜叉の顔に似てきた。

 と言っても、私は、本当には、夜叉の顔なんて知らないんだけど、表情が険しくなり、範子さんらしい丸みが無くなってきているのは、わかる。

「私のこと、笑ってるんでしょ」と獲得した生徒二人の教え方について、我が家で相談していた時に、範子さんが、私に言ったので、内心、ギョッとした。

「私なんて、元々、先生の資格もないし、教えるのなんか無理だと、ずっと思っていたでしょ」

 私は、隆さんから相談されていたので、しばらく、どう答えようかと思案した。

 多分、何を言っても、無駄な気がした。

「うん。そうだったら、どうする?」と尋ねてみた。

 すると、範子さんは、顔をクシャクシャにして、泣き始めた。

「ごめん。

 本当は、そんなことが言いたかったんじゃない。

 何で、生徒が集まらないんだろう、と思っただけ」

「範子ちゃんは、よくやったよ」という声が、背後から聞こえて、またまた、ギョッとした。

 師匠の隆さん同様、足音を立てなくなった息子だった。

 範子さんの泣き所である息子を送り込んだか、と隆さんの妹想いに、今回は、感動もせずに、感心した。

「春行さん……」

 範子さんが、息子を『春行』という前世の名前で呼ぶ時は、相当以上に酔っぱらっている時だけだった。

 しかし、今回は、アルコール抜き。

 泥酔するぐらいの状態なのね、範子さん。

「何で、そんなに落胆してるんや。

 範子ちゃんは、できる限りのことをやったんやないか。

 ほんまに、ようやったよ」

 今回は、目をつぶることにした。

 私の息子と、私と同じ歳の範子さんが、私の目の前で、ヒシと抱き合っても。

「春行さん……」

「ほんま、よう頑張った。

 ようやった。

 偉いよ」

 ま、私では、範子さんを、そこまで慰めることはできない。

「私、頑張ったよねえ?」と少女のような表情で、息子に尋ねる範子さん。

「うん。

 ほんまに、よく頑張った」とお父さんのように答える息子。

 えーと、私の居場所がないんですけど……と思っていると、

「あー、これ、隆さんからの差し入れ」と息子が、玄関に戻って、綺麗な布に包まれた物を出してきた。

 手品師か、お前は、と思わず突っ込みそうになったけど、私が気がつかなかっただけ。

「隆さんが、蔵元に頼んで、手に入れた地酒やそうやけど」と息子は、キッと、私の方を見た。

「お母さん、飲み過ぎたら、アカンよ!」

 ウッ。

 何なんよ、そのド迫力。

「けど、お母さんは、絶対に飲み過ぎるから、オレと隆さんも手伝う。

 範子ちゃんも、手伝ってくれるよね?」

 ちょっと待てよ、我が息子。

 私と範子さんは、飲んべえ度では、紙一重。

 と思いながら、隆さんまで出てくるというのは、何か、やばいの? とも思った私だった。

「はい。私もお手伝いします」と範子さん。

 ま、これは、息子を前にした時の、いつもの範子さんなので、別に驚かないけど。

 と思っているところに、隆さんが登場した。

 あのね、どういう念やら気の研究をしているのか知らないけれど、一応、インタフォンぐらい鳴らしてくださいね。

 ま、まさか、鉄の門を素通りしてきた?

 いや。

 考えないおこう。

 考えると、頭が変になるから。

 念で電話をかけられるんだから、前もって、電話するとか。

「それで、春行を先に行かせた」と隆さん。

 あ、そう。

 私の息子が、電話とインタフォン代わりですか。

「まあ、飲め。

 蔵元が、自分用に作った酒を、頼みこんで分けてもらった。

 本当に、うまいぞ。

 春行にも、注意して、持っていかせた。

 酒は生きて醗酵しているから、振動には弱い。

 春行は、うまく運んだようだし、これは、本当に、うまいぞ」

 クッソー。

 私の泣き所を知っている。

 一回目の『本当に、うまいぞ』で、身体が自動的に動いて、食器棚から、一口ビール用のグラスを人数分並べている自分が嫌いだ。

「えー、蔵元って、あの坂田さん?

 よく分けてくれたわねえ」などと言う、範子さんのことばも、場を盛り上げるBGM。

 フッ、と隆さんが笑った。

 クッソー。むかつく。

 私が、犬みたいに、ハア、ハア、ハア、一体どんな酒だろー、と期待している心を見抜いてやがるな。

「ま、そう言わずに、春子も飲め」

 何も言うてへんわ、アホタレ!

 と思いながら、コップにつがれる酒は、私を引きずってしまうような芳香を放っている。

 しかも、何か、生きているかのように泡立っている。

「じゃあ、範子さんと隆さんも」という息子の声で、ハッと我に返った。

 もう少しで、乾杯もしないうちに、グイーッと飲んでしまうところだった。

「春行も、今日は、飲め」と隆さん。

「はい、いただきます」

「酒は、清めにもなる」という隆さんのことばに、飲んでもいない先から、酔いが醒めた気がした私だった。

 え? 何か、清めなければならないことがあるんだろうか。

「幻のお酒」という範子さんの声。

「そうだ。

 中々、思い通りの出来には、ならないらしい。

 しかし、今回は、蔵元の思い通りらしい。

 そこまでなるには、長い年月がかかるし、長い年月をかけても、うまくいかない時の方が多いらしい。

 今回は、そのまれに見る出来らしい」

 私の心臓は、勝手にドキドキしていた。

 隆さんは、範子さんの熱中している、ABCに関しても言及している。

 隆さんは、最初から、ABCを始めるのには、反対だった。

 長い年月、どれだけ頑張っても、ダメな時もある、と妹を慰めてもいる。

 範子さんは、それに対して、一体、どう答えるのか……

「明子さん、すっごくラッキー。

 皆で、乾杯しましょう!」

 しまった。

 私も、酒のことだけ考えていれば良かった。

「かんぱーい」

 それだけ隆さんが能書きをたれるんだから、私は、他の皆とは違って、ゆっくりと酒を味わってみた。

 クー。おいしい。

 濁っているのに、清らかな味。

 一言で言えば、『清純な熟女』。

 フッ、とまた、隆さんが笑った。

 どーせ、私の考えていることなんか、どなた様にもお見通しでございますよ。

「春子、お前みたいだな」

 えーとー……

 私は、瞬間的に、酒のせいばかりではなく真っ赤になり、息子は、咳払いをし、突然、空中に現れた人形は、

「お前みたいだな」と言いながら空中を旋回し、当の隆さんは、もう一杯グラスに酒を注いで一気に飲み、範子さんだけが、

「お兄さん、何言ってんのよ、バカみたい」とケラケラ笑いながら、息子に、お酒をついでいた。

 本来なら、これだけおいしいお酒、私が一番に飲み過ぎて、酔いつぶれるはずが、ずっと、しらふのままだった。

 別に、私が『清純な熟女』と言われたせいでは……

 あるかもしれないけど、どうも、隆さんの挙動が気になる。

 範子さんが、一番に酔い潰れて、息子の部屋に寝かした。

 まあ、範子さんも、ずっと頑張り過ぎて、結果が思うようにいかなくて、大変な思いをしているのだ。

「春子は、どう思う」と隆さんが言った。

 ちょっとは酔っているのもあって、毎度のこういう訳のわからない尋ね方に腹が立った。

 言うてちょうだいよ、『何をどう思うのか?』って。

「いや。何も思わないのなら、いい」

 あーーー。むかつく。

 ちゃんと言えよ!

「お母さんも、きちんと口で言ったほうがいいで」と息子。

 お前は、ほんまに、誰の味方やねん。

 わかりましたよ。

「私が、何をどう思ったらいいんれすか?」

 あれー。

 全然、しらふだと思っていたのに、口調が酔っている……

「お前は、いつもそうだ」と隆さん。

 あー、むかつく。

 ま、そりゃあ、何度か……何度も……ご迷惑をおかけしたかもしれましぇんが……

 あれー? 思考も酔っている?

「くれぐれも、気をつけてくれ。範子を頼む。春行帰るぞ」

「はい」

 と言って、変人師弟は帰って行った。

 一体、何をどう思えっちゅうねん!

 顔を洗って、パジャマに着替えながら、『そりゃあ、私は、ABCなんか嫌いですけどね』と思った。

 んなこと、特別に言われなくても、最初から、そうじゃん。

 アホなこと、聞くなよ、と思いながら、おいしいお酒を飲んだせいか、物凄く幸福な気分で熟睡した。


 夜中に、誰かがブツブツ呟く声を聞いたような気がしたけれど、私の熟睡は、破られなかった。

 朝起きると、プーンといい味噌の香りがしている。

 コトコトコトというネギを刻む音。

 あー、早く起きなければ、範子さんが朝食の準備をしてくれている。

 ようやく起き出してみると、午前7時。

 範子さんの姿は、既に無かった。

 そりゃそうだ。

 旦那さんがいるんだから、朝食の準備もしないといけなかっただろうし。

 でも、我が家の冷蔵庫に、ネギは無かったはずだが。

 まさか、朝早くから買い物に行った?

 または、自分の家から持ってきた?

 とネギの謎を解いていたはずだったが、味噌汁もネギも姿が無かった。

 どういうことだろうか、と思いながら、御飯を炊いて、味噌汁を作る。

 息子がいなくなってから、何だか、料理する意欲が極端に減少。

 今日みたいに、卵御飯と味噌汁と漬物とか、スーパーで巻き寿司を買ったり、コンビニ弁当を買ったり。

 範子さんの差し入れがなければ、栄養が偏ってしまうところだ。

 この家も私が毎日磨いているので、とっても綺麗。

 特にトイレと玄関なんかは、常にピカピカ。

 ま、これが、私のお仕事。

 そして、最後に、ABC専用の部屋に入って、愕然とした。

 壁に貼ってあったABCのポスターが、押しピンを壁に残したまま、全部下に落ちていた。

 別に、引きちぎられた気配はない。

 何十枚もの教室掲示用のポスターが、自然に落ちたような感じに、まっすぐ下に落ちている。

 掃除をするためには、このポスターを、また、元通りに貼らなければならない。

 フーッと溜め息をついた。

 こんなことを、二度もやる羽目になるとは思わなかった。

 ポスターを貼っている間に、範子さんが来る10時になったが、インタフォンは、ウンともスンとも言わない。

 ま、仕方がない。

 ポスターが全部落ちていたなんて聞いたら、もっとガッカリするだろう。

 せっせとポスターを元通りに貼って、掃除機をかけた。

 本当に、素敵な教室になったけど、生徒は来ないもんだ。

 最低でも10人は来ると思っていたのに。

 この日、暇そうに、電話をかけてきた、『まるとくや』のオーナーの情報では、この辺りに10年以上前からあるABCの教室は、毎年何もしなくても、新しい生徒が10人は集まっていたけれど、今年は一人だけだったらしい。

 その他、うちと同じような新規の教室も、大体、生徒は二人から三人ぐらいらしい。

「佐藤さんのお嬢さん」とオーナーは、範子さんをこう呼ぶ。

「ちょっと、がんばりすぎたみたいやなあ。

 ABCは、しつこい、いう噂も流れとったで。

 それから、あんたは知らんやろけど、アメリカがイラクに攻撃をかけよった。

 これは、『戦争』なんてもんと違うで。

 弱いもの苛めや。

 イラクの石油が欲しいんやな。

 日本に、アメリカやイギリスは嫌いや、いう雰囲気ができてきてる。

 不況も長いし、その上、戦争や。

 英語やの何やのの勉強どころとちゃうわな」

「そうですか。

 それでは」と早く電話を切りたいのに、オーナーは、よっぽど暇なのか、なかなか電話を切らない。

「あんたも、そない強欲な塾なんかに関わってへんと、また、うちで働いたら、どないや?」

 この強欲オーナーに『強欲』だとは、いくらABCでも言われたくはないだろう。

「それは、勘弁してください」

 二度と、イヤ!

「そやけど、あんたが住んでる家は、この辺りでは、昔から『幽霊屋敷』言われて有名なとこやから、地元の人は、子供通わそうとか、自分が通おう、思わへんわな」

 ガーン。

 そうだったのか、と私は、ショックを受けた。

「佐藤さんのお嬢さんは、改装にえらいお金かけはったみたいやけど、お金捨てたようなもんや、て噂になってるで。

 それやったら、自分の地所に、ポンと教室建てた方が、よっぽどマシやったな」

 ほんまに、何でも、よく知っている親父だ。

「けど、隆さんの気功の教室は、繁盛してますやん」と私は、言わなくてもいいことを言った。

 話が長くなるだけなのに……

「あの人は、まあ、ある種、能力者やから、安心感があるんやろ。

 それと、人間、身体にいいことには、金を出す。

 それと、あの男ぶりやから、若い女が、怖いもの見たさもあって、顔を拝みに来るのやろ。

 お宅のボン目当ての女の子も多いみたいやで。

 気、つけとかんと」

 そう言えば、最近、新しく入門するのは、若い女性が多い。

 教室から、華やかな笑い声がもれてくるし、

「ありがとうございました」の声も若々しい。

「それと、あそこに気功を習いに行くと、スタイルがようなって綺麗になる、結婚運もつくみたいな噂も流れてる。 

 よう見ててみ。

 一年ぐらい経つと、ほんまに綺麗になって、彼氏ができて、結婚いうパターンが多いし。

 あんたも、気功でも教えてもろたら、どないや?」

 ガー、むかつく。

「最初から教えてもろてたら、今頃、ABCなんかに関わってなかったかもしれへんのになあ。

 残念やったな」

「……」と何も言い返せないのが悔しい。

「ほんまに、あんたの相手してたら、時間がかかってしゃーない。

 私は忙しいから、もう切るけど、かまへんな?」

「……はい」

 クッソー。

 これでは、まるで、私が、まるとく屋の親父に電話して、色々教えてもらったみたいやないか。

 けど、ま、向こうからかけてきたから、我が家の電話代には影響無し、と自分を慰めておいた。

 そーかー。

『幽霊屋敷』かー。

 そりゃ、いくら新築になっても、子供を通わせる気にはならないかも。

 成仏しているとはいえ、今でも、幽霊達は、自由自在に出入りしているわけだし。

 そう言って、範子さんを慰めてあげよう、と思ったけれど、彼女は、全然、霊の存在なんか信じない人だということを思い出した。

 ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴った。

 あ、範子さんだ、と思って、「はい」と出ると、この間、入学願書を書いてくれたお母さんだった。

「少々お待ちください」と言って、玄関から門まで走っていく。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ