ABCの謎6
最初から、ABCに対して、かなり距離を置いていた私と違って、範子さんは、本当に、担当者や会社に言われるまま、いや、それ以上に頑張ってきた。
春の香りのする3月になっても、入学者は、2名から増えることは無かった。
範子さんは、それでも、新聞に折り込みチラシを入れ、私と一緒に、ポスティングしてはいたが、息子登場以来若返った分以上に、老けこんでいった。
私は、どう慰めたらいいものか、ことばを知らなかった。
ただ、一緒に、手配りしたり、ポスティングするだけだった。
範子さんの顔は、徐々に、眉間に皺が寄り、目が釣り上がり、私の知っている範囲で言えば、夜叉の顔に似てきた。
と言っても、私は、本当には、夜叉の顔なんて知らないんだけど、表情が険しくなり、範子さんらしい丸みが無くなってきているのは、わかる。
「私のこと、笑ってるんでしょ」と獲得した生徒二人の教え方について、我が家で相談していた時に、範子さんが、私に言ったので、内心、ギョッとした。
「私なんて、元々、先生の資格もないし、教えるのなんか無理だと、ずっと思っていたでしょ」
私は、隆さんから相談されていたので、しばらく、どう答えようかと思案した。
多分、何を言っても、無駄な気がした。
「うん。そうだったら、どうする?」と尋ねてみた。
すると、範子さんは、顔をクシャクシャにして、泣き始めた。
「ごめん。
本当は、そんなことが言いたかったんじゃない。
何で、生徒が集まらないんだろう、と思っただけ」
「範子ちゃんは、よくやったよ」という声が、背後から聞こえて、またまた、ギョッとした。
師匠の隆さん同様、足音を立てなくなった息子だった。
範子さんの泣き所である息子を送り込んだか、と隆さんの妹想いに、今回は、感動もせずに、感心した。
「春行さん……」
範子さんが、息子を『春行』という前世の名前で呼ぶ時は、相当以上に酔っぱらっている時だけだった。
しかし、今回は、アルコール抜き。
泥酔するぐらいの状態なのね、範子さん。
「何で、そんなに落胆してるんや。
範子ちゃんは、できる限りのことをやったんやないか。
ほんまに、ようやったよ」
今回は、目をつぶることにした。
私の息子と、私と同じ歳の範子さんが、私の目の前で、ヒシと抱き合っても。
「春行さん……」
「ほんま、よう頑張った。
ようやった。
偉いよ」
ま、私では、範子さんを、そこまで慰めることはできない。
「私、頑張ったよねえ?」と少女のような表情で、息子に尋ねる範子さん。
「うん。
ほんまに、よく頑張った」とお父さんのように答える息子。
えーと、私の居場所がないんですけど……と思っていると、
「あー、これ、隆さんからの差し入れ」と息子が、玄関に戻って、綺麗な布に包まれた物を出してきた。
手品師か、お前は、と思わず突っ込みそうになったけど、私が気がつかなかっただけ。
「隆さんが、蔵元に頼んで、手に入れた地酒やそうやけど」と息子は、キッと、私の方を見た。
「お母さん、飲み過ぎたら、アカンよ!」
ウッ。
何なんよ、そのド迫力。
「けど、お母さんは、絶対に飲み過ぎるから、オレと隆さんも手伝う。
範子ちゃんも、手伝ってくれるよね?」
ちょっと待てよ、我が息子。
私と範子さんは、飲んべえ度では、紙一重。
と思いながら、隆さんまで出てくるというのは、何か、やばいの? とも思った私だった。
「はい。私もお手伝いします」と範子さん。
ま、これは、息子を前にした時の、いつもの範子さんなので、別に驚かないけど。
と思っているところに、隆さんが登場した。
あのね、どういう念やら気の研究をしているのか知らないけれど、一応、インタフォンぐらい鳴らしてくださいね。
ま、まさか、鉄の門を素通りしてきた?
いや。
考えないおこう。
考えると、頭が変になるから。
念で電話をかけられるんだから、前もって、電話するとか。
「それで、春行を先に行かせた」と隆さん。
あ、そう。
私の息子が、電話とインタフォン代わりですか。
「まあ、飲め。
蔵元が、自分用に作った酒を、頼みこんで分けてもらった。
本当に、うまいぞ。
春行にも、注意して、持っていかせた。
酒は生きて醗酵しているから、振動には弱い。
春行は、うまく運んだようだし、これは、本当に、うまいぞ」
クッソー。
私の泣き所を知っている。
一回目の『本当に、うまいぞ』で、身体が自動的に動いて、食器棚から、一口ビール用のグラスを人数分並べている自分が嫌いだ。
「えー、蔵元って、あの坂田さん?
よく分けてくれたわねえ」などと言う、範子さんのことばも、場を盛り上げるBGM。
フッ、と隆さんが笑った。
クッソー。むかつく。
私が、犬みたいに、ハア、ハア、ハア、一体どんな酒だろー、と期待している心を見抜いてやがるな。
「ま、そう言わずに、春子も飲め」
何も言うてへんわ、アホタレ!
と思いながら、コップにつがれる酒は、私を引きずってしまうような芳香を放っている。
しかも、何か、生きているかのように泡立っている。
「じゃあ、範子さんと隆さんも」という息子の声で、ハッと我に返った。
もう少しで、乾杯もしないうちに、グイーッと飲んでしまうところだった。
「春行も、今日は、飲め」と隆さん。
「はい、いただきます」
「酒は、清めにもなる」という隆さんのことばに、飲んでもいない先から、酔いが醒めた気がした私だった。
え? 何か、清めなければならないことがあるんだろうか。
「幻のお酒」という範子さんの声。
「そうだ。
中々、思い通りの出来には、ならないらしい。
しかし、今回は、蔵元の思い通りらしい。
そこまでなるには、長い年月がかかるし、長い年月をかけても、うまくいかない時の方が多いらしい。
今回は、そのまれに見る出来らしい」
私の心臓は、勝手にドキドキしていた。
隆さんは、範子さんの熱中している、ABCに関しても言及している。
隆さんは、最初から、ABCを始めるのには、反対だった。
長い年月、どれだけ頑張っても、ダメな時もある、と妹を慰めてもいる。
範子さんは、それに対して、一体、どう答えるのか……
「明子さん、すっごくラッキー。
皆で、乾杯しましょう!」
しまった。
私も、酒のことだけ考えていれば良かった。
「かんぱーい」
それだけ隆さんが能書きをたれるんだから、私は、他の皆とは違って、ゆっくりと酒を味わってみた。
クー。おいしい。
濁っているのに、清らかな味。
一言で言えば、『清純な熟女』。
フッ、とまた、隆さんが笑った。
どーせ、私の考えていることなんか、どなた様にもお見通しでございますよ。
「春子、お前みたいだな」
えーとー……
私は、瞬間的に、酒のせいばかりではなく真っ赤になり、息子は、咳払いをし、突然、空中に現れた人形は、
「お前みたいだな」と言いながら空中を旋回し、当の隆さんは、もう一杯グラスに酒を注いで一気に飲み、範子さんだけが、
「お兄さん、何言ってんのよ、バカみたい」とケラケラ笑いながら、息子に、お酒をついでいた。
本来なら、これだけおいしいお酒、私が一番に飲み過ぎて、酔いつぶれるはずが、ずっと、しらふのままだった。
別に、私が『清純な熟女』と言われたせいでは……
あるかもしれないけど、どうも、隆さんの挙動が気になる。
範子さんが、一番に酔い潰れて、息子の部屋に寝かした。
まあ、範子さんも、ずっと頑張り過ぎて、結果が思うようにいかなくて、大変な思いをしているのだ。
「春子は、どう思う」と隆さんが言った。
ちょっとは酔っているのもあって、毎度のこういう訳のわからない尋ね方に腹が立った。
言うてちょうだいよ、『何をどう思うのか?』って。
「いや。何も思わないのなら、いい」
あーーー。むかつく。
ちゃんと言えよ!
「お母さんも、きちんと口で言ったほうがいいで」と息子。
お前は、ほんまに、誰の味方やねん。
わかりましたよ。
「私が、何をどう思ったらいいんれすか?」
あれー。
全然、しらふだと思っていたのに、口調が酔っている……
「お前は、いつもそうだ」と隆さん。
あー、むかつく。
ま、そりゃあ、何度か……何度も……ご迷惑をおかけしたかもしれましぇんが……
あれー? 思考も酔っている?
「くれぐれも、気をつけてくれ。範子を頼む。春行帰るぞ」
「はい」
と言って、変人師弟は帰って行った。
一体、何をどう思えっちゅうねん!
顔を洗って、パジャマに着替えながら、『そりゃあ、私は、ABCなんか嫌いですけどね』と思った。
んなこと、特別に言われなくても、最初から、そうじゃん。
アホなこと、聞くなよ、と思いながら、おいしいお酒を飲んだせいか、物凄く幸福な気分で熟睡した。
夜中に、誰かがブツブツ呟く声を聞いたような気がしたけれど、私の熟睡は、破られなかった。
朝起きると、プーンといい味噌の香りがしている。
コトコトコトというネギを刻む音。
あー、早く起きなければ、範子さんが朝食の準備をしてくれている。
ようやく起き出してみると、午前7時。
範子さんの姿は、既に無かった。
そりゃそうだ。
旦那さんがいるんだから、朝食の準備もしないといけなかっただろうし。
でも、我が家の冷蔵庫に、ネギは無かったはずだが。
まさか、朝早くから買い物に行った?
または、自分の家から持ってきた?
とネギの謎を解いていたはずだったが、味噌汁もネギも姿が無かった。
どういうことだろうか、と思いながら、御飯を炊いて、味噌汁を作る。
息子がいなくなってから、何だか、料理する意欲が極端に減少。
今日みたいに、卵御飯と味噌汁と漬物とか、スーパーで巻き寿司を買ったり、コンビニ弁当を買ったり。
範子さんの差し入れがなければ、栄養が偏ってしまうところだ。
この家も私が毎日磨いているので、とっても綺麗。
特にトイレと玄関なんかは、常にピカピカ。
ま、これが、私のお仕事。
そして、最後に、ABC専用の部屋に入って、愕然とした。
壁に貼ってあったABCのポスターが、押しピンを壁に残したまま、全部下に落ちていた。
別に、引きちぎられた気配はない。
何十枚もの教室掲示用のポスターが、自然に落ちたような感じに、まっすぐ下に落ちている。
掃除をするためには、このポスターを、また、元通りに貼らなければならない。
フーッと溜め息をついた。
こんなことを、二度もやる羽目になるとは思わなかった。
ポスターを貼っている間に、範子さんが来る10時になったが、インタフォンは、ウンともスンとも言わない。
ま、仕方がない。
ポスターが全部落ちていたなんて聞いたら、もっとガッカリするだろう。
せっせとポスターを元通りに貼って、掃除機をかけた。
本当に、素敵な教室になったけど、生徒は来ないもんだ。
最低でも10人は来ると思っていたのに。
この日、暇そうに、電話をかけてきた、『まるとくや』のオーナーの情報では、この辺りに10年以上前からあるABCの教室は、毎年何もしなくても、新しい生徒が10人は集まっていたけれど、今年は一人だけだったらしい。
その他、うちと同じような新規の教室も、大体、生徒は二人から三人ぐらいらしい。
「佐藤さんのお嬢さん」とオーナーは、範子さんをこう呼ぶ。
「ちょっと、がんばりすぎたみたいやなあ。
ABCは、しつこい、いう噂も流れとったで。
それから、あんたは知らんやろけど、アメリカがイラクに攻撃をかけよった。
これは、『戦争』なんてもんと違うで。
弱いもの苛めや。
イラクの石油が欲しいんやな。
日本に、アメリカやイギリスは嫌いや、いう雰囲気ができてきてる。
不況も長いし、その上、戦争や。
英語やの何やのの勉強どころとちゃうわな」
「そうですか。
それでは」と早く電話を切りたいのに、オーナーは、よっぽど暇なのか、なかなか電話を切らない。
「あんたも、そない強欲な塾なんかに関わってへんと、また、うちで働いたら、どないや?」
この強欲オーナーに『強欲』だとは、いくらABCでも言われたくはないだろう。
「それは、勘弁してください」
二度と、イヤ!
「そやけど、あんたが住んでる家は、この辺りでは、昔から『幽霊屋敷』言われて有名なとこやから、地元の人は、子供通わそうとか、自分が通おう、思わへんわな」
ガーン。
そうだったのか、と私は、ショックを受けた。
「佐藤さんのお嬢さんは、改装にえらいお金かけはったみたいやけど、お金捨てたようなもんや、て噂になってるで。
それやったら、自分の地所に、ポンと教室建てた方が、よっぽどマシやったな」
ほんまに、何でも、よく知っている親父だ。
「けど、隆さんの気功の教室は、繁盛してますやん」と私は、言わなくてもいいことを言った。
話が長くなるだけなのに……
「あの人は、まあ、ある種、能力者やから、安心感があるんやろ。
それと、人間、身体にいいことには、金を出す。
それと、あの男ぶりやから、若い女が、怖いもの見たさもあって、顔を拝みに来るのやろ。
お宅のボン目当ての女の子も多いみたいやで。
気、つけとかんと」
そう言えば、最近、新しく入門するのは、若い女性が多い。
教室から、華やかな笑い声がもれてくるし、
「ありがとうございました」の声も若々しい。
「それと、あそこに気功を習いに行くと、スタイルがようなって綺麗になる、結婚運もつくみたいな噂も流れてる。
よう見ててみ。
一年ぐらい経つと、ほんまに綺麗になって、彼氏ができて、結婚いうパターンが多いし。
あんたも、気功でも教えてもろたら、どないや?」
ガー、むかつく。
「最初から教えてもろてたら、今頃、ABCなんかに関わってなかったかもしれへんのになあ。
残念やったな」
「……」と何も言い返せないのが悔しい。
「ほんまに、あんたの相手してたら、時間がかかってしゃーない。
私は忙しいから、もう切るけど、かまへんな?」
「……はい」
クッソー。
これでは、まるで、私が、まるとく屋の親父に電話して、色々教えてもらったみたいやないか。
けど、ま、向こうからかけてきたから、我が家の電話代には影響無し、と自分を慰めておいた。
そーかー。
『幽霊屋敷』かー。
そりゃ、いくら新築になっても、子供を通わせる気にはならないかも。
成仏しているとはいえ、今でも、幽霊達は、自由自在に出入りしているわけだし。
そう言って、範子さんを慰めてあげよう、と思ったけれど、彼女は、全然、霊の存在なんか信じない人だということを思い出した。
ピンポンピンポンパーン、とインタフォンが鳴った。
あ、範子さんだ、と思って、「はい」と出ると、この間、入学願書を書いてくれたお母さんだった。
「少々お待ちください」と言って、玄関から門まで走っていく。