ABCの謎5
当然ある進学中心の塾。
地域密着型で、学校教育を補助する教室。
英会話中心の教室。
私立中学受験者用の教室。
全国にチェーン展開している同じような教室。
こうやって調べている間にも、研修は進んでいるわけだけれど、大人用の英会話の研修では、もう子供用で開塾している先生方もいた。
現在、80人とか100人の生徒を抱えている大教室の先生から、去年始めたばかりの先生まで、色々だ。
二人から出発して、3年後に36人になった先生もいれば、10人で出発して、翌年には、自分の子供を入れて、二人になった先生もいる。
概して、長い間やっている先生方は、こう言っては失礼かもしれないけれど、大変に人相が悪い。
例外はもちろんおられるけれど。
ある時、すでに開塾している先生ばかりの集団が帰るところに出くわしたけれど、どの先生も険しい顔をして、本当に集団の雰囲気は悪かった。
「何か怖い顔の人ばっかり」といみじくも、範子さんが言った。
元旦の午前0時に配ったチラシにも、1月にどっさり入れた新聞折り込みにも、ほとんど反響は無かった。
「春子ちゃん、何人生徒が集まった?」という狸オーナーからの電話やら、突然、飛び込んできて、孫自慢をするお婆さんやら、消火器や浄水機を売り込みに来たり、新聞の勧誘が来たりした。
1月の2度目の折り込みチラシが、研修の時に、一番大事だと言われていたものだった。
大体、ここで頑張るか、頑張らないかで、結果に大きな差が出るらしい。
範子さんは、この地域にある全ての新聞販売店に2000枚ずつ折り込み広告を入れるつもりだった。
その数は、1万枚に登る。
プラス、手配り用。
ところが、その折り込みチラシが、全然到着しなかった。
それまでも、担当者と範子さんの間で、
「早くチラシを送ってくれ」
「あんまり早く送ると、先生が、いつ折り込みを入れるのかわからなくなる恐れがあるので」
「わからなくなるわけないでしょ」という押し問答があった。
範子さんは、ヤキモキしながら、折り込みチラシの到着を待った。
2000枚も入れる場合、前々日までに販売店に持ち込まなければならない。
ところが、前日になっても届かない。
その日、担当者から電話があって、配送業者のミスで、いつ到着するかわからない、という電話が入った。
「だから、早く送ってくれと言っていたでしょう!」と温厚な範子さんが怒鳴った。
怒鳴った上に、ブチッと電話を切ってしまった。
その後、鳴り続ける電話には、電話の元線をピッと引き抜いた。
「新入社員だからと、大目に見てたら、どんどん付け上がる。
研修の日だって、間違って教えたし」
そうだった。
範子さんが風邪をひいた師走の研修で、何度も確かめたのに、ガンとして、研修の予定表に乗っていない日を言うのだった。
それで、範子さんは、風邪を押して出掛けたら、その日は、別の地区の研修で、大阪地区の研修は、翌日だったというお粗末。
それを担当者に言うと、また、ガンとして、
「先生が間違えたんでしょう」という態度で、調べさせたら、担当者の間違いが判明して、
「先生、ごめんなさい」と謝って、幕となった。
その時は、範子さん、「まあ、誰でも間違いはあるんだし、仕方がないわね」と言っていたのだったが。
チラシ類は、その二日後に到着した。
一口に1万枚と言うけれど、その量は、並大抵ではない。
新聞紙四つ折りサイズ、B4版の紙が1万枚。
それに無料分が400枚、サービス用の小冊子が400枚。
段ボールにして、8箱分。
一箱でも、かなりの重量だ。
それにプラスして、算数用の段ボールが2箱、漢字用の段ボールが2箱、届いた。
またしても、私と息子の寝室が、段ボールに埋まることになる。
「明日、新聞店に持っていく」と範子さん。
「あー、一番大事な日に、折り込みを入れられなかった……」
範子さんの落ち込みは、相当なものだった。
経験から言えば、12月1月に力を入れるよりも、2月3月に集中して広告を入れた方が、よほど効果的だと思えるんだけど。
それに、内心、本当に、これだけのお金を使うんだったら、自分で塾を開いた方が、よっぽど効果的な気もした。
ABCのように、どれもこれも、帯に短しタスキに長しのようなクラスをバカほど作るより、中学受験なら受験用、教科書中心なら学校教育の補助という風にした方が、3才から大人まで、英語も国語も算数も何でもあります、よりも効果があるのではないだろうか。
そして、2月の始めに入った広告で、無料体験を受けたいという、本当の反響が三件あった。
厳密に言えば、家を尋ねてきた中学生を含めると、四件あった。
ゴミの日に、朝早くゴミを出そうと門から外に出ると、中肉中背の女の子が、ぼうっとした顔をして立っていた。
「あのう……何か御用ですか?」と言ってすぐ、
「勉強を習いに来たの?」と聞き直した。
うなずくでも無く、首を振るでもなく、ぼうっと立ったままだ。
制服を着て、カバンを持っているから、学校に行く前なんだろう。
「ちょっとゴミを出して来るから、待っててね」と言って、ゴミを出して戻ってみると、もう姿が消えていた。
10時に我が家に現れた範子さんは、悔しがった。
「私がいたら、家に入れて、入学させているのに」
範子さんは、ABCの担当者の言っていることを、全部、真に受けている。
ポスターを貼り、知り合い全部に、塾をすることを話し、サービスセンターと言って、そこの紹介なら入学金が半額になるという所を、高い菓子折りを持って、30軒以上にお願いし、毎度折り込みを入れる新聞店まで、サービスセンターにしてしまっていた。
範子さんが言われた通りに熱心にすればするほど、範子さんの姿を見ると避けるように逃げていく人が増えていった。
元々、お年寄りが多く、子供の少ない古い住宅街だ。
学校や幼稚園は近くにあるのだが、生徒は、ずっと遠くのマンション群の方角に帰って行く。
「じゃあ、お年寄りのクラスを作ればいい」と範子さんは、60才以上の『シニアクラス』も新設した。
老人会の集まりに、差し入れを持って出掛けたりしたが、何か運動したいというお年寄りはいても、英語や漢字を習おうというお年寄りはいなかった。
2月に、範子さんと私は、小学生の無料体験レッスンを6回した。
反響のあった三人に、2回ずつだ。
無料体験の時には、担当者とスタッフが、もう一人来て、範子さんが悪戦苦闘して、マニュアル通りに教えている間、父兄の勧誘をしていた。
私は、黙って、教材を出したり、範子さんがすがる目で見た時に、助け船を出したり、20分ぐらいで、ギブアップした時に、後を引き継いだりした。
あんまり、いい雰囲気ではなかった。
しつこく勧誘しなければ、三人共入学するタイプの人だったのに、あんまり勧誘がしつこくて、親御さんが引いているのがわかった。
また、範子さんが、マニュアル通りに、やりすぎて、生徒も引いていた。
マニュアルは、生徒が数名の場合を想定しているので、一人だと時間が余り過ぎる。
それを、範子さんは、マニュアルにあった通りに、同じ生徒に、生徒1、生徒2、生徒3、生徒4の役割までさせてしまったので、生徒は、混乱した。
それにも関わらず、そのうちの二名は、無事入学手続きをしてくれた。
奇跡と言うほかはない。
この頃になると、範子さんにも、ようやく現実が見え始めてきた。
折り込みチラシや、ポスティング、手配り、勧誘と努力している割には、反響は、異常に少ない。
「ターゲットを絞った方がいいわよね」と範子さんは、インターネットで、名簿業者から、小学生の名簿をゲットして、DM大作戦を開始した。
そのため、DM用に、封筒やら、パンフレットを発注した。
もう、この辺りになると、経費がかかりすぎて、私なんかは、気が遠くなる。
名簿が古かったせいか、DMは、半数近く
『転居先不明』
『宛て所に尋ねあたりません』
『部屋番号漏れ』で出戻ってきた。
しかし、それで、諦める範子さんではなかった。
出戻った以外の住所に、直接DMを配達することにした。
またも、封筒とパンフレット類を発注。
私と二人で、寒風の中、地図と住所を頼りに、町内中を歩いて、DMを配って歩いた。
正に、正真正銘の『ダイレクト・メール』だ。
チラシも同じように配る。
お蔭で、あんまり、この辺りのことを知らなかった私は、町内に詳しくなってしまった。
パンフレットが入っているので、封筒は重い。
郵便屋さんは、偉い、と自分で配ってみて思った。
海外旅行用のカバンに、パンフの入った宛名を書いた封筒を詰め込み、カバンをガラガラ引きながら、宛名の住所を尋ね歩いて配布。
範子さんは、ポストに入れるだけでなく、インタフォンやブザーまで押して、直接パンフレットを渡した。
私は、自分が塾をしていた時に、同じような営業をしたことがあるけれど、範子さんほど熱心ではなかった。
範子さんは、この辺りの大地主、色々な店にとっては、大のお得意様。
けれども、それと、高い教材費を払って、毎月子供を通わせるというのは、別の話のようだった。
気功の教室の終わった後、珍しく、隆さんが、台所にやってきた。
当然、気功の時には、範子さんはいない。
教室が終わって、誰もいなくなったら、即、ビールを飲もうと、枝豆を湯掻いていた私は、当然、ギョッとした。
「ほう、枝豆か」
「冷凍ですけどね」とつい、言い訳してしまう私。
「ちょっと、ご馳走になってもいいか」と隆さん。
あんたの、「いいか?」は、全然、尋ねていません。
いいのが、前提。
「話の枕詞だ」
「はあ」
勝手に、私の考えを読んで、難しいこと、言わんとって。
「お前の好きな地酒でも、持ってきたら、良かったな」
持ってきてない時に、そういうことを言うのは、ブー。
「今度、範子か、春行に届けさせる」
地酒をエサにしているけれど、言いたいことは、わかっている。
「それなら、話が早い」と隆さん。
「もう!
私の考えてることを、全部読まないでくださいよ!」
「ビールをもらおうか」
もう!
私の考えたことは読むくせに、私の言ったことは、全然聞いていない!
仕方がないので、コップを出してきて、ビールを注ぎ、湯掻いた枝豆を出した。
「お前と飲むのも、久し振りだな」
うーん、と。
一緒に飲んだことなんて、あったっけ?
あー!
あの女の人の幽霊の時!
「ABCは、どうだ」
おいおい!
話を逸らせるなよ!
「春子。悪いが、ことばにして、話してくれ」と隆さんの眉間に皺が。
はーん。
あの件は、言われたくない?
「春子、ABCのことを聞いている」
はい、はい。
「どうだと言われても、別に、本部に言われた通りにやってるだけですよ」
「範子の気持ちを考えたら、心が痛む」
へえ、やっぱり、お兄さんだ。
範子さんが、お兄さんのことを思っているように、隆さんも妹思いなんだ。
ウホン、と隆さんは、咳払い。
へえ、照れてる?
と思って、私は、思わず、自分の頭をかばったけれど、拳骨は、飛んで来なかった。
「どうも、色々な人間の恨みや悲しみ、憎しみや嫉妬という念が渦巻いている場所のようだ。
多分、お前は、教えるというのは、教えられること、というのがわかっているだろうが、大抵の人間には、わかっていない。
教える人間と、教えられる人間の間に、深い溝を作る。
人の上に人を作り、人の下に人を作る。
今、範子は、それをしようとしている」
私は、返事もせず、深く考えてしまった。
範子さんに限って、そういうことはない、と思う。
思いたい。
「言いたくはないが、範子には、勉強に対して、深いコンプレックスがある。
周囲にいた、オレや春行やお前が、あまり大したことと思わずに通り過ぎた学業に、深いコンプレックスを残した。
範子は、頭が悪いわけでも、記憶力が悪い訳でもない。
ただ、自分で考えようとせず、教えられたことを絶対と思う癖がある。
それは、自分自身を、自分以外の人間に委ねてしまうことだ。
頼む。範子を助けてやってくれ」
私は、ジーンとした。
胸が熱くなり、感動していた。
何という兄弟愛。
いや、兄妹愛か。
よっしゃ、わかりました。
私に出来ることなら、何でもやりましょう。
「多分、お前にしか、できないから、頼んでいる」
「はい」と答えたが、どこかに、しっくりしない気分が残る。
隆さんって、最初から、人の上に自分を置いて、話しているのでは??
「そんなことはない」と怒ったように言い、音も立てずに立ち上がると、滑るように帰って行った。
うーむむ。
後で思い返すと、お願いします、お頼み申します、というより、お前に頼んでやっているのだから、きちんとやれ、と言われたような気がしないでもない。
それって、目茶苦茶、上からものを言ってない?
でも、ま、いっか。
隆さんも、妹の範子さんのことを心配していて、私にまでお願いする羽目になったのだ。
う。内心、かなり、いい気持ち。
隆さんが、私に、お願いした。
わはは。
気持ちいい。
お。これは、かなり、気分がいい。
偉そうにしていても、私にお願いしたことには変わりが無い。
わっはっはっは。
と、内心笑っていると、
『笑うのは、まだ早い』と連呼する人形が、顔前に現れた。
『笑うのは、まだ早い』
『笑うのは、まだ早い』
フーン、よっぽど、悔しいと見える。
人形が私に、足袋キックを食らわせようとしたので、臨戦態勢を取ると、人形は、私の周囲をブーンと旋回して、姿を消した。
春樹、と息子のことを思う。
人形が、隆さん化している。
これは、あんまり良くないと思う。
一瞬、人形を間に火花を散らしている、息子と隆さんの姿が見えた気がした。
そうか。
人形も、二人の間の火花から逃れて、我が家に息抜きに来ているんだ。
師弟とはいえ、あんまり、趣味が合うのも考えものだ、と私は思った。