ABCの謎2
『何か用か』と人形のくせに、偉そうに、隆さんの真似をしている。
これは、息子の可愛がっている美形の日本人形。
息子と一緒に、隆さんの家に行ってしまったが、時々、こうやって現れる。
「人形、『何か用か』やないでしょう。『何か御用ですか』」
『隆ウンコが、「何の用か聞いて来い」と言った』
「あ、そう」
用があるのは、わかってしまってるのね。
「明子さん、人形相手に、何一人でブツブツ言ってるの。
お兄さんみたいで、不気味よ」
そう。
隆さんに息子という変人師弟と付き合っているうちに、私まで、人形の話すことがわかるようになってしまった、というお粗末。
範子さんは、隆さんの妹なのに、まったくの普通の人。
人形の声なんかは聞こえない。
「けど、どういう仕組みか知らないけど、この人形って、宙に浮いてるのね。
これも、お兄さんの実験?」
「うん……
まあ、そんなもんでしょ」
人形は、ぐるぐると私と範子さんの上空を旋回すると、パッと消えては、違う空中に現れる、という芸を披露した。
「凄い!」と範子さんは、感激して、拍手している。
人形は、いつの間にか、人形版瞬間移動をマスターしている。
これは、あの変人師弟にもできない技だ。
『何か用か』
『何か用か』と言いながら、旋回しては消え、また、違う場所に現れては、
『何か用か』
『何か用か』と言って、旋回する。
範子さんは、拍手し続けていたが、人形の声が聞こえる私は、かなりイライラしてきた。
「人形、ここに来なさい」と怖い声で言った。
人形は、まだ旋回する気だったようだが、くるくるくると空中で回って、スタッと、私の前に着地した。
黙って、ジッと立っていると、ただの日本人形なんだけど。
「わあ、すごい、どういう仕掛け?」と範子さんが、人形を手に取ろうとしたので、人形は、表情のないまま、ススッと1メートルぐらい横滑りした。
「まあまあ」と範子さんの手を押さえる私。
「範子さん、多分、これ、隆さんの発明した電話のかわりやと思うから、この人形に、ABCのことを、電話やと思って、話してみて」
「お兄さんたら、そんなものを発明してたのね。
念の実験?」
「そ、そうやと思う」
「もしもし、お兄さん?
聞こえる?」と範子さん。
そして、ABCに面接とテストで行ったこと、合格通知が来たこと、この家で、塾を開く予定だということを話した。
「もしもし、本当に聞こえてるの?」と合間合間に、私の顔を見ながら。
話が終わったとたん、人形は、くるりと後ろを向いて、スッと姿を消した。
「凄い、凄すぎる」と範子さんは、興奮している。
「電話の時も、車の時も、パソコンの時も、そう大したものだと思わなかったけど、これは、凄いわ」
隆さんの家には、電話がない。
テレビも無ければ、冷蔵庫や洗濯機もない。
かろうじて、電灯はある。
電話は念でかけるので、いらないらしい。
車を念で動かす実験は、体力を消耗しすぎて、途中で断念。
今では、範子さんのマイカーになっている。
パソコンでも、電気も使わず、プロバイダー接続もせずに、インターネットを念でする実験をしていたらしいが、隆さんにとって、あんまり面白くなかったようで、これも、今では、範子さん専用のパソコンになってしまっている。
「あの人形も、私のものになるのかしら」と範子さん。
うーん、それは無理だろう。
「あれは、春樹のやから」
「キャッ。
ますます欲しい」と困った人だ。
「でも、明子さん、兄と春樹さんと人形で、三角関係になってるかもよ。
だって、兄は、元人形オタクだったんだから」
「んなアホな」と笑おうとしたけれど、本当に、あり得る話なので、笑いは、途中で凍りついてしまった。
そのとたん、ハーレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、と電話の着信音。
我が家で元気がいいのは、古いのが故障して、新品になった、電話の着信音だけだ。
「きっと、お兄さんよ」と不気味な笑みを浮かべる範子さん。
期待と好奇心でいっぱいの顔だ。
「はい」と電話に出た。
「お母さん、今から隆さんと家に行くから」ツーツーツー、と、隆さんではなく、息子だった。
「うん、わかった」とツーツーツーと切れた電話に答えながらも、
『家に帰る』ではなく
『家に行く』と言われたことに、かなり傷ついていた。
傷つきながらも、息子も、念で電話をかけられるようになったのか、とシミジミと思う。
3秒ぐらいだったが。
「春樹さんだったの?」
「そう」
「あー、私が、電話に出れば良かったー」
「今から来るって」
「えー!」
やおら、範子さんは、鏡の前に行き、髪型を整え、綺麗にお化粧直しを始めた。
真剣そのものの顔だ。
最初に会った時は、とげとげした感じのただのおばさんだったけど、今は、年齢不詳のマダムになってしまっている。
私も口紅ぐらい塗った方がいいかな、と思ったとたん、ピンポンパンピンパーン、というインタフォンの音がした。
範子さんのお化粧はバッチリ。
チ、出遅れてしまった。
「はい」とインタフォンにも、範子さんの方が素早く出た。
そして、門を開けるために、走り出て行った。
さすが、週に三日、シェイプアップのために、エアロビクスをしているだけある。
私は、うろうろと、範子さんの後をついて回っているだけ。
門に着くと、ますます態度がでかくなった感じのする隆さんと、どことなく隆さんに似てしまっている息子がいた。
「春樹!」と再会を喜ぼうとする私に、息子は、黙礼を返した。
……つ、冷たい……
後は、お殿様のように歩いている隆さんに、あれこれ話し掛けている範子さんと、その後ろを黙って歩く母子になってしまった。
その私の顔の正面に、人形がパッと現れては消える。
人形と遊んでいる心境ではない。
気分は、かなり暗い。
玄関を上がって、いつもの気功をしている広間の中央に、隆さんが座った。
息子は、少し、後方に控えている。
「ABCは、やめておけ」と隆さんが言った。
鶴の一声。
「春行と二人で、念写してみた。
どうも、気の流れが悪い」と隆さんが言うと、息子が、どこからか、1枚の紙を出して来た。
範子さんと二人で、顔を付き合わせて、紙をジッと見つめた。
子供がクレヨンで、灰色の雲を描いたような、もやもやした絵に見える。
「これが、お前達だ」と隆さんの指差すところに、米粒のように白く見える点が二つ。
灰色の雲みたいな訳のわからない絵を見ているうちに、説明会に行った時の、気分の悪さが蘇ってきた。
ま、大家さんの了解がなければ、この話は無かったということだ。
「けど、お兄さん、私達、テストにも合格したし、この家を有効に使って、塾が開けるのよ」と範子さんは、食い下がっている。
「お前はともかく、春子は、塾をやりたいのなら、自分でやれ。
ABCだかDDTだか知らないが、そんなところで、先生の御墨付をもらう必要はないだろう」
ここで、自分で塾を開く。
そーか、そういう手もあったか。
ちなみに、詳細は略すけれど、私は、隆さんには、戸籍名の『明子』ではなく、『春子』と呼ばれている。
息子は、『春行』。
「塾を開くことには、反対しない。
ただ、ABCは、やめておいた方がいい」
そう言うと、隆さんは、いつの間にか立ち上がって、玄関に向かっていた。
隆さんの歩き方は、人形歩き。
ススーと滑るように歩いて、足音がない。
後についている息子の方は、まだ、人間の歩き方だ。
でも、段々と足音が立たなくなっているような気がしないでもない。
その師弟の後方に突然、人形が姿を現し、『トアー』と言う声と共に、隆さんの後頭部に、両足でキック。
「何をする!」と隆さんが振り向いた時には、姿を消していた。
「春行、しつけがなってない!」と隆さん。
「すみません」と息子。
門まで見送りながら、私は、笑いをこらえるのに苦労していた。
きっと、隆さんの家でも、難しい顔をして話をしながら、時々、人形に、顔や頭を蹴られているに違いない。
「お母さん、あんまり飲み過ぎんように」と息子が門のところで言った。
範子さんと二人で、去っていく師弟を見送った。
家に戻ってからも、二人とも、しばらく声が無かった。
ふと見ると、範子さんの頬は紅潮して、目がうるんでいる。
「明子さん、一緒に、ABCやってくれるわよね」
「え?」
「春樹さんまで、兄と同じ変人になってしまったら、生きる張り合いもないわ」
けど、範子さん、あなたには、愛する夫と子供達が……
「うーん。けど、塾やるって、思ってる以上に大変やけどね。
生徒が増えてきたら、毎日みたいに教えることになって、自分の時間なんかほとんど無くなるし」
「けど、やってみましょう?」
ここまで熱心に言われると、断るのも悪い気がしてくる。
「最近、何か虚しいの。
子供達も大きくなって、下宿してしまって、滅多に家に帰って来ないし。
旦那は旦那で、仕事一途。
私の人生、一体何だったの、という感じがずっとしてたの。
外国に旅行もしたけど、それだって、もう行くところもないし。
そんな私の唯一の希望の星だった春樹さんも、どこか遠いところに行ってしまったみたい。
このまま、寿命が尽きるのを待つだけの人生なんて、イヤ。
何か、打ち込めるものが欲しい」
ガーン。
何不自由の無い生活を送っている範子さんが、そんなことを考えていたなんて、全然知らなかった。
あり余るお金で、毎日優雅に過ごしているみたいで、いつも羨ましいと思っていたものだ。
「お父さんまで……」と言うと、範子さんは、ワアッと泣き出した。
「春行と一緒がいい、と言って、お兄さんの家に入りびたりなのよー」
「お爺ちゃんまで……」
それで、最近、我が家へのご訪問が、めっきり減ったわけだ。
前よりぼけて、うちに来る道を忘れたのかと思っていた。
まあ、息子と爺ちゃんは、最初に会った時から、実の祖父と孫以上に気が合っていた。
それで、範子さんは、よく私の家に来ているのか。
「わかった。
範子さん、一緒にがんばろう」
「え、ほんと?」
「うん、ほんと」
そこで、私と範子さんは、ガシッと両手を握った。
その瞬間、『トヤー』という声と一緒に、後頭部にゴンという衝撃。
「人形!」と振り向くと、正に、人形の足袋が、私の鼻に向かって飛んでくるところだ。
ハッ、と反射的によけると、人形は、大きく旋回して、今度は、範子さんの顔面をねらっている。
範子さんは、全くの無防備状態。
「叩き落とす!」と言って、人形を叩こうとすると、パッと姿が消えた。
隆さんではないけれど、しつけが悪い。
我が家にいた時は、こんなに乱暴ではなかった。
きっと、隆さんの性格に似てきたせいだ。
「何か、さっきの人形が見えた気がしたけど、気のせい?」
「気のせい、気のせい」