ABCの謎10
「先生、こんにちはー」
「オッス」
「ハロー」
「グッド・アフターヌーン」
と言いながら、次のクラスの生徒達が門から走り込んで来たけど、しばらく、私は、茫然としたままだった。
「先生、どないしたん?」と言われながら、半ば上の空で授業をした。
長年の経験のお蔭か、上の空でも授業はできる。
ふと机の上を見ると、紅色の綺麗な指輪が置いてあった。
その下に、「お礼です」と書いた、小さなメモが……
「佐藤範子」……
次の授業も上の空。
「先生、先生?」と消費者金融のテレビのコマーシャルみたいに、私の顔の前で手を振る生徒あり。
上の空のまま、授業は進行して、定時に終わった。
「グッバイ、クラス」
「グッバイ、ミズ・サカグチ」
生徒を送り出すと、門の前に、隆さんが立っていた。
これは、何となく、予期していたことなので、余り驚かなかった。
お互いに、目を見つめ合ったまま、ことばが無い。
知らない人が見たら、恋人同士と思うだろう。
同じことを考えていることはわかった。
「どうぞ、お上がりください」
「うむ」
今日は、お供の息子を連れてないんだな、と思ったら、爺ちゃんが一緒だった。
「春子ちゃん、久し振りやなあ」
「爺ちゃん」と調子を合わせたけれど、爺ちゃん、今日の夕方に会ってるって。
隆さんは、気功の教室の定位置に座ると、その前に座った私に、何と、深々と頭を下げた。
「この度のことは、いくら礼を言っても、言い足りない。
本当に、世話になった。
感謝している」
「そ、そんな、隆さん、困ります」と本当に困った私。
「私の方こそ、いい生徒さん達を紹介していただいて、感謝しています」
「範子も来ただろう」
「はい。
範子さんだとは、わかりませんでしたが」
「中1の終わりか」
「はい。
全然、勉強がわからないようでした」
「その頃、範子は、学校に行こうとすると、腹痛を起こして、よく休むようになった」
「はあ……」と言われても……
「時折、幽体離脱も起こしていたようだ。
そして、ちょうど、今の時期に、また、学校に行けるようになった。
何があったのか、オレにはわからなかったが」
「というと……」考えたくないけれど……
「今回のABCでは、範子は過度のストレスから、過去のトラウマの時期の人格が分離して、それが実体を持つようになった」
う。また、訳のわからない話が……
「いわゆる、生き霊となってしまった。
これは、オレでは、どうしようもない。
昔、オレでは、どうしようもなかったのと同じだ」
「範子は、春子ちゃんに勉強を教えてもらって、やり方がわかるようになった、と言っていた」と爺ちゃんが言った。
「やっぱり春子ちゃんは、生きてるんや、とわしは嬉しかった」
「父が言っているのは、中学時代の範子のことだ。
オレは、春子を殺してしまった、と思っていたし、父は、その頃から少し、精神を病んでいた」
「え?
え?
では、今日、範子ちゃんを迎えに来たのは、昔の爺ちゃん?」
爺ちゃん、若い時から、爺ちゃんだったんだ……
「いや。自分では覚えていないだろうが、現在の父だ。
中学生の範子がお前のところにいるのがわかったんだろう。
父には、そういう奇妙な能力がある」
他人事みたいに。
自分は、もっと奇妙なくせに。
「しかし、まさか、中学時代の範子が、お前に勉強を教えてもらって立ち直ったとは、今の今まで、思いもつかなかった。
ありがとう。お前は、範子の恩人だ」
また、隆さんは、深く頭を下げた。
この男が、人に頭を下げるなんてことは、一生無いだろうと思っていたのに。
やっぱり、妹は、特別なのだろう。
「で、生き霊は、どうなりました?」
「成仏したという言い方は、できないが、無事、範子の記憶の一部として、元に戻った」
「元に戻らなかったら……」
あー、怖い。聞くんじゃなかった。
「うまくしたら、その時期の記憶を喪失する。
が、下手をすると、人格が分裂して、収拾がつかなくなる。
もしかすると、原因不明のまま死んでしまったかもしれない」
私は、ゾオッとした。
私がいくら教えてもダメだったら、そんな恐ろしいことにもなったのだ。
今頃になって、ブルブルと寒気がしてきた。
ピンポンピンポンパーン、というインタフォンの間抜けな音が救いだった。
「春行が、ビールを買いに行って戻ってきた」と隆さん。
「うまい地酒があったが、お前に酒は禁物だからな」と隆さんは、フッと笑った。
門まで迎えに行こうとする私に、隆さんは言った。
「春行は、鍵を持っている」
え?
そうか。
そうだったのか。
この変人師弟が、鉄の門を通り抜ける術を覚えたわけではなく、息子は、鍵を開けて、入って来ていたのか……
謎は、呆気なく解けてしまった。
「こんばんはー」という声は、範子さんの声。
差し入れが入っている大きな保温バッグを持っている。
その後ろから、両手にビールの缶を下げた息子がいた。
場所をキッチンに移して、宴会が始まった。
「ねえねえ、お兄さん、ABCが、新聞折り込み代と、改装費用の半額も出すと言ってきたんだけど」
「それは、譲歩したものだ。
これ以上、裁判沙汰を続けていると、どんどん生徒が減り、契約解除を申し出る教室が後を絶たなくなるからだろう。
社会的に、イメージダウンにもなる。
もう、当初の目的は達したことだし、和解に応じてやれ。
なるべく早くにな」
「そうする。
料理教室が忙しくて、裁判どころじゃなくなったし」
「立派な料理の先生になったじゃないか」
「んもう、何もかも、お兄さんのお蔭です」
「いや、オレよりも、春子に礼を言っておけ」
「いいですよー、そんなこと」と私は、キョトンとしている範子さんに言った。
「あー、その指輪」と範子さんは、私が指にはめていた指輪を見て叫んだ。
「母からもらって、大事にしてた指輪。
でも、いつなくしたんだかわからないうちに、どこかに行ってしまったの」
私は、指から指輪を抜いて、範子さんに渡した。
「今度は、なくさないように」
「えー、どこで見つけたの?
ねえ、どこで?」
「範子、オレが、怖い話をしてやろう」と隆さんが言った。
「春子の生徒の一人が幽霊で、その子が、その指輪を春子にプレゼントした」
まあ、簡単に言うと、そういうことだな、と私は思った。
キャハハハハ、と範子さんは笑った。
「もう、本当に、霊オタクなんだから。
さ、温かいうちに食べて。
それから、乾杯しましょう」
爺ちゃんが、コマメに動いて、ビールのグラスを人数分より一つ多く出した。
息子は、料理をテーブルに並べている。
ビールに合う、中華料理のオンパレードだ。
「お父さん、グラスが一個多いって」と範子さん。
「何言うてんねんな。
これは、中学の時の範子の分やがな」と爺ちゃん。
「もう、お父さんたら」と範子さんは、ブツブツ言いながらも、
「かんぱーい」。
皆のおなかがふくれた頃、ふと思い出したように、範子さんが言った。
「そう言えば、私、中学の時に、誰かに勉強を教えてもらったような気がする」
そして、ジッと私の顔を見た。
「まさかね」と首を振る。
「範子は、春子ちゃんに、勉強を教えてもらった」と爺ちゃん。
「もう、お父さんが、変なことを言うから、私まで、変なことを考えてしまう」
それから、この春の青春18切符の旅の話になり、今度は、九州までの無謀な旅に挑戦したらしい。
話を聞いて、全員で、アハハ、アハハ、と大笑い。
箸が転んでも、笑う程度に、酔いが回っている。
「あー、わかった」と突然、範子さんが言った。
「お兄さん、この指輪、どこかで見つけて、それを、明子さんにプレゼントしたんでしょう」
「何を、バカなことを」と隆さんは、かなり動揺している。
「それを隠すために、お得意の霊の話をでっちあげた。
あー、もう少しで信じてしまうところだった」
そして、「はい、明子さん」と意味ありげな顔をして笑うと、指輪を私の薬指にはめた。
「いや、そんな、これは、範子さんの大事なもので」としどろもどろな私だ。
「もらっておけ」と隆さんが言った。
「お前は、それ以上のことをした」
「え?
え?
それ以上のことって、何かな?
お兄さん、白状しなさい。
それ以上のことって、何をしたの?」と範子さん。
酔っているので、かなりしつこい。
「中学生のお前が、春子に勉強をみてもらって、その礼に、指輪をプレゼントしたのだ」
と隆さんは、ついに、事の真相を話した。
「何言ってんの。
中学生の私が、明子さんに勉強をみてもらう訳ないじゃないの。
そんなことで、誤魔化されませんからね」
「まあ、範子さん、人のことより、ビールが空ですよ」と息子が、助け船を出した。
「春行さん……」と突然、他のことは全て忘れてしまった範子さんだった。
「春子ちゃん」と爺ちゃんが、ビールの缶を持って、私の横に来て、私にビールを注いだ。
「ありがとな」
「うん。良かったね」
「良かったな」
大宴会が終わって、皆が帰って行った後、『グオオ、グオオ』という元悪霊の声と、
『明子』という母の声が聞こえてきた。
『あんた、それ、スター・ルビーやで。
本物やったら、500万ぐらいするんと違う?』
気配は消していても、やはり一部始終を見ていたか。
『それ、本物でーす。
本物、凄ーいです』というハワイ人の声も聞こえる。
『猫目石でござるな。
大切にするがよろしかろうぞ』という侍の霊。
あー、もう、プライバシーが無い。
範子さんは、翌日、ABCとの和解に応じ、告訴は取り下げられた。
これで、ABCがらみの裁判は、地上から消えた。
隆さんが、「早く、和解に応じろ」と言っていた理由が、それから1ヵ月も経たずに判明。
敗戦後から連面と続いてきた、株式会社エービーシー(正式名称)は、夏休みに入る直前に倒産した。
小子化の影響とアメリカとイラクの戦争の影響で、そうでなくても生徒数が減少していた上、教室の先生方の抗議集会がマスコミで報道され、裁判沙汰にもなり、生徒数・教室数の激減が、倒産の原因となった模様だ。
範子さん宅には、マスコミが押し寄せ、一時は、料理教室が開けないこともあったが、次第に、マスコミの興味は他に移って行き、元通りの生活が戻ってきた。
「明子さん」と、ある時、範子さんが言った。
「お兄さんが言ったことも、当たっているのよね」
「何が?」
「私、ABCの研修の時、明子さんに散々教えてもらったもんね。
本当に、ありがとう」
「何言うてるの。
私、範子さんの大事な指輪まで、もらって、申し訳ないわ」
「指輪ね。
そうそう。
お兄さんが、どう言って渡したか、白状しなさい」
しまった。
詰まらないことを思い出させてしまった。
『白状しなさい』
『白状しなさい』と人形が現れて、空中旋回を始めた。
あー、うるさい。
「隆さんは……」
「お兄さんは?」と好奇心をむきだしの範子さん。
こういう心の声を読んでよ、範子さん。
あれは、中学生の時のあなたがくれたの。
「お兄さんは?」
ダメか・・・
「『もらっておけ』って」と確かに言った。
「それだけ?」
「それだけ」
「あーあ。
お兄さんらしい。
もっと、気の効いたことを言えばいいのに」
もっと気の効いたことは、範子さん、あなたのことでした。
でも、それを言ったって、絶対に信じないしねえ。
了