ABCの謎1
「明子さん、こんなのあるわよ」
毎度の飲み友達にして、家主の一人の範子さんが、新聞の切り抜きを持ってきた。
もちろん、保冷バッグに缶ビールを詰めて、あげたての天麩羅やらフライ、サラダにデザートまで持って。
「これ、差し入れ」
毎度、ありがとうございます。
「あれから、一年以上経つわねえ」と感慨深い様子だ。
「そやねえ」と私も、遠くを見る目になる。
『あれ』というのは、強欲狸親父のオーナーから、スーパーの経営をまかされた件だ。
ど素人なりに、あれやこれやと寝食を忘れて考えて、毎日毎日朝から晩まで、スーパーにかかりきり。
「いい加減にしときや」と息子に言われるほどだった。
お蔭で、スーパーの経営は軌道に乗り、これから、という時に、狸オーナーは、伊勢のホテルの経営者を、スーパーの新しい雇われオーナーとして、連れて帰ってきた。
どうやら、ホテルを乗っ取ってきたらしい。
雇われオーナーの田鋤原さんの憔悴しきった顔を見たら、何も言えずに、スーパーを明け渡すことにした。
田鋤原さんは、狸親父に、妻を奪われ、娘を奪われ、ホテルまで奪われたわけだ……
気の毒すぎて、かけることばも無かった。
「あのスーパー、デパート並みの値段になったって、評判悪いわよ」と情報通の範子さん。
「そう……」
あんまり聞きたくもなく、考えたくもない話だ。
「どこでも、大安売りのデフレの時代なのに。
だから、最近、近所にできたコンビニの方に、客が流れている。
それと、私が、お肉と野菜の産地直送ルートを開発したし。
明子さん、仇は取ってあげてるから」
「いや、そんな……
仇やなんて」
「だって、ひどい話じゃない。
命の恩人であり、一緒に炎天下で野菜を売って、スーパーを盛り立ててくれた、明子さんをクビにするなんて」
「そやから、クビになったんやなくて、私が、仕事から手を引いただけやって」
「だって、新しいオーナーを連れて来るなんて、最低な話やない。
スーパー一つ、ポンとくれたって、いいぐらい、恩になったのに」
お金持ちの範子さんは、普段温厚な人だが、あのスーパーの話になると、激情家だ。
「ま、今に私が潰してあげるから、楽しみにしておきなさい。
絶対、あそこのスーパーでは、ものを買わない」
元超お得意さまにして、この辺りの大地主の範子さんを敵に回せば、本当に潰れるかもしれない。
元々、潰れかけのスーパーだったわけだし。
「弁護士と相談して、借地料を値上げしたし」
そう言えば、スーパーの建っている土地も範子さん達のものだった。
先祖の代からのまま値上げせず、借地料月に500円という、私でも払える値段だったのだ。
「まあまあ、それより、先に、乾杯しよ」
というわけで、かんぱーい。
「春行……いえ、春樹さんは?」
実は、範子さん、うちの息子の春樹が、初恋の『春行』さんに瓜二つなもので、息子登場以来、シェイプアップに励み、何と10才以上若返ってしまったという、奇跡の人だった。
私も、スーパーの経営に情熱を傾けていた頃は、だぶついていた、おなかの贅肉も綺麗に取れて、ナイスボディを誇っていたが。
今は昔。
「春樹は、最近、隆さんの家に行ったきりで、ここには、気功の教室の時しか戻って来なくなってる」
そうなのだ。
変人の師匠・隆さんに、「十八歳を過ぎた男は、親元を離れるべきだ」と吹き込まれ、我が息子は、最近、この家に帰って来なくなってしまった。
「明子さん、それはいけないわ」と範子さん。
「親一人子一人じゃない。
一緒に暮らすべきよ!」
私のためを思って言ってくれているのか、この家で息子に会いたいために言っているのかは、不明。
「そうそう。
これ」
ようやく、新聞の切り抜きの出番になった。
『ABCのホームティーチャーになりませんか』とあった。
『ABC』と言えば、テレビで宣伝もしている英会話が専門の塾チェーンだ。
『説明会、随時開催中。
まずは、フリーダイヤルで、気軽にお問い合わせください』
「ねえねえ、私もホームティーチャーになれると思う?」と範子さん。
「前から、先生ってのになってみたかったのよね。
料理の作り方とか教えるのは、好きだし。
明子さんみたいに、教員資格とかは無いけど、『教育に情熱のある方』って、書いてあるし」
うーん、教えることから遠ざかって久しい。
大体、今住んでいる、この家の管理人の仕事をすることになったのは、高校講師の仕事にあぶれたせいだった。
それ以来、身辺がそれまでになく目まぐるしくて、そんなことは、遠い昔の物語のような気がする。
「ここは、広いし、お兄さんの気功の教室以外は、あんまり有効に使ってないし」と周囲を見回す、範子さん。
「ねえねえ、善は急げよ、明子さん。
フリーダイヤルだし、かけて聞いてみたら?」
塾か。
長い間やっていたけど、大変と言えば、大変な仕事だった。
私は、大きな海老の天麩羅を、「大きな海老さん、お久し振りです」とシミジミと食べている最中だった。
当然、ビールを片手に。
「私がかける」と善が急いでいる、範子さんは、電話の子機を持ってくると、ダイヤルをプッシュし始めた。
「もしもし、ホームティーチャー募集の新聞の広告を見た者ですが」と電話をかけている。
「はい」
「はい」
「あ、そうなんですか。友達も一緒に行きたいんですが」
「はい。明日。わかりました」
何がわかったのか、わからなかったが、何とか話はついた模様だ。
「明子さん、明日の10時。
大阪だから、便利よ。
車でない方が早いわね」と勝手に、説明会に行く算段をしている。
ここから、ABCの過酷な渦の中に巻き込まれていったものだったが、その時の私には、知るよしも無かった。
翌日。
午前7時起き。
シャワーを浴びて、洗濯をして、家中に掃除機をかけて、拭き掃除。
家の管理人の仕事、一丁上がり。
さて、何を着て行こうかと迷っていた8時半。
ピンポンパンポンパーン、というマヌケなドアチャイムが鳴った。
このインタフォンだけは付け替えようと思っていたのに、火事に会って、新築に建て替えた時に、なぜか、前と同じドアチャイムがついていた。
誰の仕業かはわからない。
しかし、慣れとは、麻薬に似た、恐ろしいものだ。
いつの間にか、気にならなくなっている。
『明子、頑張ってくるんやで』と亡くなった母の声が登場。
『グオオ、グオオ』という元悪霊の声も聞こえる。
言い忘れたが、この家は、色々な霊が遊びに来る場所になってしまっている。
元々、霊の寄りやすい場所に、家が建っていたものらしい。
ま、そういうことに慣れてしまった自分も怖いけれど、霊より生きた人間の方が怖いかもしれない、と最近思い始めている私だった。
「はい」とインタフォンに出ると、予想通り、「わたし」の範子さんだった。
門まで出てみると……
堅苦しいスーツに身を包み、コンタクトレンズを、また眼鏡に変えた、どこから見ても
「先生です!」と全身で訴えている、範子さんが立っていた。
いかにも「先生」らしい雰囲気に、思わず、後ずさりする。
「きっと、明子さん、何を着ていこうか悩んでると思って」
ご明察の通りでした。
塾で教えていた時も、高校で教えていた時も、スーツなんかとは全然縁の無かった私。
毎度、Tシャツにパンツ姿で、「先生は、ほんまは、先生と違うやろ」と生徒達に言われる始末だった。
「先生と違ったら、何かなー?」
「ロッカーや」
え?
あのロッカー?
物入れの?
しかし、どうやら、ロック歌手のロッカーらしい。
アホタレ、歌なんか歌えねえよ、と内心思った。
「はい。先生ルック」と範子さんが紙袋を渡す。
もう少しぐらい、甘い過去の追憶に浸らせてくれてもいいのに……
紙袋の中には、範子さんの着ている服と色違いのスーツが入っていた。
どうも、堅い服は、昔から苦手。
何とか着てみたけれど、どう見ても、借り着。
どこか、七五三風。
「うーん」と範子さんも、眉間にしわを寄せた。
「明子さん、元先生だから、似合うと思ったんだけど……」
やっぱり、慣れたパンツルックでしょう。
普段着に毛の生えた恰好で、決まり。
鏡の前で並んで見ると、先生(範子さん)とその辺のおばさん(私)という感じ。
「説明会だから、いいかー」と範子さん。
「いいんと違う」と私。
範子さん愛用の車も、今回は出番無し。
先生風とおばさん風は、並んで、電車に乗った。
駅まで、徒歩で10分、大阪までは、電車で5分の道のりだ。
夏の名残と、秋の涼しさが、微妙に合体している季節。
平日の朝なのに、電車は、なぜか超満員。
微かに、冷房が入っている模様。
大阪駅から、地図を頼りに、少し迷いながら、15分ほど歩いて、目的地に到着。
「明子さん、ここ。このビル」
グレイビル。
名前の通り、灰色のビルだ。
周囲に立ち並ぶ、大きくて豪華なビルではなく、もしかすると素通りしてしまうような、小さな目立たないビル。
何となく、中に入りたくない気がした。
「ふーん。
こんなビルの5階に間借りしてるんだ」と範子さん。
大地主の範子さんにして、言える台詞だ。
エレベーターで5階に上がるまでに、心臓がドキドキし始めた。
変に緊張してしまっている。
ま、先生(範子さん)に引率されている生徒(私)みたいな雰囲気のせいもあるかもしれない。
5階に着き、範子さんは、平気で、スタスタと『ABC』と書かれたガラス張りの部屋に入って行った。
私は、後をついていくのみ。
「佐藤です」と勝手に名乗って、挨拶をしている。
「あ、こちらは、坂口です」と私の紹介までしてくれていた。
「どうぞ、こちらへ」と部屋に案内される。
全体に、私の嫌いな学校の職員室の雰囲気と、お役所の匂いが混じっている。
室内の空気が、とっても、重苦しくて、息が詰まる。
入って5分ぐらいで、気分が最悪になって、額からは、油汗がタラリ……
こういう雰囲気で、いつもと変わらない範子さん、あんたは偉い。
役所(職員室)の中に、大小6つぐらいの会議室(教室)があるといった感じだ。
その中の一つに通されると、ビデオを見せられ、それから、突然、テストが始まった。
えーー!
今日は、説明会のはずで、そんなテスト用の心の準備はできていない。
テストは、英語、数学、国語。
主要三教科だ。
説明会と言っても、私達二人しかいない。
「では、1時間後に、テスト用紙の回収に来ます」と言って、案内したスタッフは、部屋を後にした。
まあ、こうなっては仕方がない。
ここ数年、全然勉強とは無縁だった身、スッカリ忘れているだろうと思ったら、案外、覚えているもので、スッと集中態勢に入る。
と、一列離れた席にいる範子さんが、借り物の鉛筆の先で、私の脇腹をつついた。
ジェスチャーをしている。
親指で自分を指差して、両手を交差させて、×の形。
そこから、外国式のカモンポーズ。
どうやら、答案用紙を見せろ、と言いたいらしい。
私も、両手で、×の形を作って応戦するが、結局、できた用紙から、渡す羽目になった。
カンニングは、ご法度だと思うけど、ま、学校のテストじゃないし、よしとした。
大体、よく考えてみたら、私は、範子さんほど、乗り気ではないし。
範子さんが、写し終えて、しばらくしてから、スタッフが、用紙を回収に来た。
その後、二人は、離れ離れになる。
会議室の一番最後に、個人面談用の小部屋が、6つぐらいあった。
その小部屋に、それぞれが、別のスタッフと幽閉されたからだ。
何が行われるかと言うと、まずは、色々と聞かれることになった。
家の間取り、教室にできる部屋、家主の了解、また、教育関係の仕事を今していないかどうか。
何となく、警官に尋問されている、被疑者の心境となり、何でも白状しますとばかりに、何でも正直に答えた。
とは言っても、霊の入りびたっている家だとか、日本人形の話す声が聞こえるなんてことは、白状しなかったが。
向こうも、そんな話は聞きたくないだろうし。
「では、週に3回は、気功の教室として使われているわけですね」
「はい」
「何曜日ですか?」
「ええと、月曜日と水曜日と金曜日です」
「では、他の日は、教室として使ってもいいということですか?」
「はい」
「大家さんの承諾は、得られそうですか?」
「はい。あの佐藤さんが大家さんなので」
「ああ、あの方が」
「はい」
そう、あの方と、兄上の隆さんが。
その後で、英語のヒアリングとスピーキングのテスト。
大体、英語検定2級レベル。
「私、話すの苦手で、アハハハハ」と笑ったが、2級レベルなら、教えていた身なので、何とか答えられた。
「テストの結果は、2週間ぐらいで、お手元に届きます」ということで、説明会改め、テストは終わった。
範子さんに再会すると、「英語って、何語?」という、答えようのない質問が待っていた。
どうやら、ヒアリングとスピーキングのテストは、完全に、訳がわからなかった模様。
「落第かなあ」
と気をもんでいる。
まあ、それは、それ。
「明子さん、合格した!!」と範子さんがやって来たのは、それから、3日後の夕刻。
私の合格通知より、一日早かった。
2週間後と言っていたけど、随分早い。
テストの後、すぐに投函したのだろうか。
その時は、それを、「成績が良かったせい」だと解釈したものだった。
「これで、私も先生ね」と範子さんは、素直に喜んでいる。
「でも、一応、兄に相談しておかないと」
ゲ。やっぱり、もう一人の家主の隆さんの了解も必要か……
どうも、隆さんは、色々お世話にはなっているけど、かなり苦手だ。
お世話になりすぎたせいもあるかもしれないが。
第一に、ハンサムすぎる。
目の保養のレベルを超えている。
二十歳の息子と並んでも、兄弟にしか見えない。
最初に見た時、三十代か、下手したら、二十代かと思ったものだ。
それが、聞いてビックリ。
私よりも遙かに年上の五十代。
確か、57歳だった。
正に、ルックス詐欺。
それに、霊能者のせいか、気功の先生のせいか、または、生まれついての性格なのか、態度が非常に偉そうだ。
それと……勝手に、私が、隆さんに気があると思い込んでいる。
そりゃあ、最初会った時、余りの美貌に、ぼうっとなったことは認めるけれど。
その時は、隆さんの性格をまだ知らなかった。
「明子さん、兄とのその後の進展は?」
話をさらにややこしくしているのは、何でも色恋に結びつけて考える、隆さんの妹の範子さんの存在。
「気功のお稽古の時に、門を開けるだけ」と私。
「もう、何やってんのよ。
ああいう変人は、よっぽど積極的にアタックしないと、すぐに、人形だとか霊だとかいう、訳のわからないものに、気持ちが行ってしまうのよ。
そうでなくても、兄を慕っているお弟子さんは多いわけだし……
もう!!」
もう!!
と言われても、お互いに、何の用事があるわけではないし、私にとっては、息子の先生で、この家の大家さんで、自分の家なのに、気功の教室代として、月に3万もいただいている、ありがたい方だ。
その上、不登校の上に、チャネリングだとかサイコキネシスだとかポルターガイストなんかに異常な興味を持っていた、
「あー、もうどうなるんだろう、この息子」を、気功の弟子にしてくれ、今では、隆さんの用のある時なんか、代稽古で、日給1万円ものお金を稼ぐ身分にしていただいた。
ありがたすぎて、近寄りにくい存在と言えば、いいのだろうか。
その瞬間、空中に、日本人形が現れた。