第一部 曙 一
かつて、世界は三つに分かれていた。天神のもとで世界の恵みを司る天の民の住む天の国と冥神のもとで災いを司る冥府の国、そして、その二つの民によって虐げられる地の民の住む地の国である。
降誕暦一年、天神は地の民を憐れみ、地の国に降臨し、地の民の女と一夜を過ごし、その女に託宣を与えた。
「私は天神である。いづれお前は私の子を産む。お前の子が十五になったら私はお前の子の前に姿を現し、重大なる使命を下すだろう」
一年後、女は男子を産み、その子をヘロと名付けた。
十五年を経てヘロの前に天神が現れた。
「ヘロよ、私は天神であり、お前の父だ。今から、お前に使命を下す。お前は民衆を扇動し、冥府の国に通じるテル山の四つ目の洞窟をもぐり、冥府の民を皆殺しにせよ。ただし、冥神は不死身だ。神の血を引くお前が封印の呪文を唱えることでしか冥神を封印できない。地の民が冥府の民を滅ぼしたら、我等、天の民と手を組み、理想郷を作り上げようではないか」
「父上。父上が冥神を封印することはできないのですか」
「ヘロよ、天の民と冥府の民は互いに干渉できないのだ」
「父上、分かりました」
ヘロは民衆を扇動し、冥府の国へ進軍した。冥府の民は全滅し、冥神は封印された。
天神は勝利の宴を催そうと天の国から地の国に向けて虹の橋を下し、地の民を宴に招待した。天の民が酒に酔っているとヘロは口笛を吹いた。すると地の民は隠し持っていた武器を取り出し、天の民を殺戮し始めた。
「ヘロ、なぜだ」
天神は言った。
「父上、私は騙されない。理想郷を作ると言って我々を利用し、冥府の民を滅ぼそうとしたのは、天の民が独占的に地の民を支配したかったからだ。我々は誰の支配も受けない地の民だけの国を造るのだ」
天神と天の民が追いつめられると、天神は呪文を唱え、自らと天の民を白鳥の姿に変え、どこかへ飛び去って行った。
地の民は地の民だけの国を造り、ヘロを皇帝に選んだ。ここに、ヘロ帝国が誕生し、ヘロの在位中、隆盛を極めた。しかし、ヘロが崩御するとヘロの八人の息子の間で後継者争いが起こり、帝国は八つに分裂し、以降、この争いは国土統一戦争と名を変え、何代にも渡って続いた。
この物語の舞台となるヘロ=ターカ帝国は度重なる出兵によって地方は荒廃し、治安は悪化、政府の役人は排除され無法地帯と化した。税収は激減し、軍事力は衰え、皇帝権力は無きに等しい。もはや、国土統一戦争続行は不可能であった。どこの国でもこのような状況が発生し、降誕暦百八十四年、休戦協定が結ばれた。
降誕暦三世紀頃になると地方の無法地帯を独自の軍事力を以て支配する者たちが現れた。降誕暦二百七十五年、政府は彼らに爵位を与え、統治権を認める代わりに税を徴収する。ここに、皇帝による中央集権体制は崩壊し、封建制が開始した。こうして、諸侯は次第に権力を強めていく……。
降誕暦三百四十五年、一大勢力となったレンブラント公が反乱を起こし、一時、帝都を制圧した。この反乱は間一髪で帝都を脱出した皇帝が隣国ヘロ=オーチ帝国に服属する代わりに反乱鎮圧の増援を得たことによって終息した。
この反乱を機に三百年間続いたヘロ=ターカ帝国は王国となり、ヘロ=オーチ帝国の属国となり果てた。
政府はこの反乱を教訓に諸侯を帝都に住まわせ、政治に参加させ、反乱を起こせないようにした。しかし、こうなると地方の領主代が力を蓄えるようになる。政府に癒着しない領主代は農民と結託し、重い税を搾取する政府に憎悪を燃やし、反乱の兆しを見せているが、何とか、ヘロ=オーチ帝国の増援が抑止力となっている。都ではヘロ=オーチ帝国の増援に安心しきっており、不穏な地方に目もむけないで、ひたすらに政治闘争に明け暮れている。しかし、地方がヘロ=オーチ帝国の増援などというものはただの子供だましに過ぎないことをいつか気付くだろう。その時こそ、ヘロ=ターカ帝国の最後である。……滅びの日は近い……。
戴冠式……。今まさに片膝をついたフランツ王子の頭上に冠が載せられようとしている。フランツは感無量だ。感激に頬を震わせている。思えば長い年月であった。三男のフランツにまさか玉座が回って来ようとは想像に難かった。フランツは今に至るまでの不遇の毎日を振り返る。
……
フランツの不遇の毎日は長男の早逝によって、次男のアントニヌスが即位したことから始まった。長男の死が余りに不自然であり、暗殺の噂が立ち始めるとアントニヌスは極度な人間不信にとらわれた。臣下を誰一人として信用せず、自身は部屋の奥底に引きこもり、政務にも姿を現さなかった。情緒不安定で訳もなく臣下を罷免した。妻でさえ、信用することがなく、扉を一つ隔てて違うベッドで眠った。しかし、四年前、そんな王妃が身ごもったのは奇跡的であった。
アントニヌスがもっとも冷たくあしらったのが弟のフランツである。アントニヌスはフランツを信用できなかった。いつか自分は弟に殺されるのだという強迫観念にとらえられ、フランツを頻繁に左遷した。フランツは任地を転々とさせられる度に兄に信用されない悲しみを感じた。その悲しみは知らぬ間に兄に対する憎しみへと転化していった。
そんなフランツが先週、急に上洛せよとの命令を承った。フランツは悟った。謀反の罪を着せられて処刑されるのだと。フランツは今死ぬわけにはいかなかった。各地を転々とする度にこの国の真の姿を知ったのだ。領主の力は国王の権力を無視できるほどに強大化している。領主は軍事力を保持し、いとも簡単に国家を転覆できる力を持っているのだ。そうとも知らずに都では少しも地方を顧みることなく、権力闘争に明け暮れている。民衆は多額の税に圧迫され、飢え、至る所に屍を晒している。「この国は腐りきっている。変革せずば、私は死ねぬ。」フランツはそう確固たる意志を持っていた。
フランツが都に到着するとすぐさま議会が開かれた。そこに兄の姿があった。数十年ぶりに見た兄の姿だ。部屋の奥底に閉じこもっていたためか酷く蒼白な顔をしている。無表情で冷たい。
「弟よ。お前を王位継承者に定めよう」
議場に冷たい空気が流れた。貴族たちが周りを見渡す。陛下はご乱心か、子がいらっしゃるではないか。そう、貴族の目は語っていた。奇妙なことにアントニヌスがフランツを王位継承者に定めた一週間後、アントニヌスは急死した。
……
フランツは哀しみよりも嬉しさが勝り、無意識的にほくそ笑んだ。まるで、運命が私を中心にして回っているようではないか、と。
しかし、フランツの感激はすぐに消し去られる。突然、締め切られている扉が開け放たれ、外界の陽光がフランツをこれでもかと照らしつける。
「申し上げます。申し上げます。フランツ殿下は王に相応しくありません。即刻、戴冠式を中止すべきです」
場内がざわつく。
「なぜだ」
関白ルイスが問う。
「なぜなら、アントニヌス陛下が崩御なさいましたのは、殿下が陛下に毒を盛られたからでございます」
この乱入者の言葉にフランツは青ざめる。
「馬鹿な。何を根拠にそのようなことを」
フランツは焦りでどもりながら、やっとのことでこれだけ言った。
「殿下、あの夜のことはもうお忘れですか。あの夜、私は陛下の寝室の扉の前で番をしておりました。その時、王妃様が用を足しに寝室から出て行ったのを見計らって殿下が私の前に姿をお現わしになり、私の顔をじっと見つめ、金貨を握らせてこうおっしゃったじゃありませんか。『今日、ここに私が現れたことは内緒にしてくれ。内緒にしてくれればこの金貨をやる。私はお前が金に困っていることを知っているのだ』と。私は病気の妻のことを思い出しました。これだけあれば、妻の病を治すことができる。ふっと魔が差したのでしょう。殿下のなさる恐ろしい行いをただ見ていることしかできませんでした。殿下は寝室の扉を思いきり開けると陛下のお休みになっている傍らに腰を下ろし、陛下の口を無理にこじ開けて毒薬を流し込みました。陛下は一瞬、呻きを上げたかと思うと泡を吹きだし、息絶えました。殿下はそれを見届けると布巾で陛下の口周りを拭き取って寝室から出ていきました。暫くして王妃様がお戻りになって息絶えた陛下をご覧になって悲鳴を上げるのを聞きました。王妃が私のもとにいらっしゃって『お前は何か知らないのか』とお尋ねになりましたが、私はただ、首を振るだけでした。私は卑怯者です。私は金のために陛下を見殺しにしてしまったのです。もう、罪の大きさに耐えることができません。罰してください」
乱入者は一気にしゃべり、ポケットから数十枚の金貨を投げ捨てた。フランツはがくりと膝を落とした。額からは物凄い量の冷や汗が滴っている。
「知らない……知らない……やってない……」
やっとのことでこれだけ言っても、余りに小声だったため、誰にも聞こえなかった。関白ルイスは視線を乱入者から外さないで「そうか、お前は陛下を見殺しにしたのだな」と言って関白ルイスは手で親衛隊に合図した。すると、親衛隊数人が乱入者を取り囲んで「やれ」と関白ルイスがそう言うや否や親衛隊の一人がすぐさま乱入者を剣で突き刺した。何か言葉を発する暇もなかった。
「殿下、真ですか」
関白ルイスの問いにフランツはパクパク口を動かすだけである。何も言葉が出てこない。
「殿下をお連れしろ」
関白ルイスが護衛に指差して命じると護衛は腰を抜かして一歩と進めないフランツを引きずりながら出て行った。……場内騒然である。
フランツはそのまま引きずられて行き、独房に投げ込まれた。一筋の光すら差さない完全なる闇である。数時間前までは王になろうとした人間が今や一囚人である。何という運命のいたずらであろうか。
その後、フランツが民衆の面前に姿を現したのは一週間後のことである。フランツは獄吏に広場まで引きずられた。先週とは打って変わって酷いやつれ様である。広場に集結した大衆がフランツを見つけると雨あられのように怒りの言葉をぶつけ、思い思いに石をぶつける。それは、日々抑圧された民衆による、かつての支配者に対するささやかな復讐であった。
フランツが広場の中央に据えられると遅れて関白ルイスもやってきた。
「殿下、お久しぶりで」
フランツは無反応である。
「単刀直入にお尋ねします。陛下を殺めたのは殿下でございましょう」
フランツは固く唇を噛んでいる。関白は獄吏に合図すると、獄吏はいばらの鞭を手に携えて来て、それでフランツを打った。フランツの肉体に一筋の朱が走る。フランツは悲鳴を上げた。
「早く白状するのが身のためだと思いますよ」
しかし、フランツは何も答えない。フランツは再び打たれる。これが昼まで続いた。
「意外としぶといですねえ。殿下、殿下が陛下を殺したのは分かりきっていますよ。皆、殿下の策謀に加担した者どもは白状しましたからねえ。あれを御覧なさい」
獄吏が鎖につながれた者たちを連れる。フランツはそれを見て息をのんだ。
「ヨーゼフ、カール、ルーク、ウィリアム……」
フランツは乾ききった声でただ、これだけを吐いた。絶望的な声音である。
「殿下、申し訳ございません……」
フランツは拳をぶるぶる震わせた。
「こんな自白など無意味だ。私は何もやっていないと言っているだろ。ヨーゼフ、カール、ルーク、ウィリアム等には何も命じていない。そもそも、私が陛下を殺す理由など何もない。待っているだけで私は王位を継承できるのだ」
フランツはついに怒りが爆発した。
「すでにマリウス殿下がいらっしゃるというのに陛下が二週間前、殿下を世継ぎにしたこと、これは奇妙なことですなあ。殿下が陛下を脅したのでしょう」
「違う、私は何もしていない。私が世継ぎになれるなどとは夢にも思わなかった。仮に、私が本当に陛下を脅したにせよ、待っていれば王位継承できるのであるから、わざわざ殺す必要もないではないか」
「殿下、殿下は陛下を憎んでいたのではないのですか。特に理由もなく任地を変更させられて、殺意が募ったのではないのですか。かわいそうな殿下。それに殿下ももうお歳ではございませんか。殿下が王位を継承する頃には、殿下はお亡くなりか、余命いくばくもございますまい。殿下はお若いうちに即位したかった。だから、陛下を殺したのです」
最早、フランツには何を言う気力も残ってはいない。ただ、絶望的な眼差しで空を仰ぎ見て、うなだれるだけである。
日が傾く頃にフランツの拷問は終わった。傷だらけになり、呻きながら独房まで引きずられて行く。フランツは独房の中で独り、何やらぶつぶつ呟いていた。
翌日、フランツは赤い水溜まりの上で吐息を立てずに眠っていた。傍らには陶器の破片が落ちている。