一話「そうだ、海に行こう!」
「風車 我が人生の 轍也 唯風赴くままに ぶらり黄泉路旅」
男は就職活動に使う手帳の一番最初のページに、そう書いた。この一文は男にとっての辞世の句であった。
特に文才もなく、詩才もない。そんな男が書いた一文である。だが彼にとってそんなことは関係なかった。
男は満足し、手帳をゆっくりと閉じて頷いた。そうして目を閉じ彼は思う。
これでいつ死んでもいいな、と。
男は疲れていた。半年に渡る就職活動で何社も会社を巡り、説明を受け、履歴書を書き提出し、面接をし、全く同じ質問と答えが帰ってくる事に絶望したのである。馬鹿らしくなったのだ、就職が。同じ質問と同じ返答と、同じ結末。この無限にも似たループに男は精神的に耐えられなくなったのだ。
だから死のうと思う。こんな馬鹿げたループは終わりにしよう、そう決意したのである。
疲れてはいた、しかし男は同時に満足もしていた。人生そのものに不満があったか、と言うと不満はない。それでも強いて不満があるとするならば、この日本社会に一言物申したい、とそういう思いだけはあった。
まあ、自殺するので一言言えないのが残念ではあるが。
男の年齢は三十歳前だった。一度就職し、仕事を辞め、資格を取ろうと専門学校に入り直し、そして改めて就職活動している立場である。
この立場がどういう立場か。男は「人生再出発」と決意したこの道も、日本世間一般様から見れば「人生負け組の最後のあがき」に似た物であり、「負け犬」のレッテルを知らぬうちに貼られていた。
その事に気付かされたのも就職活動を改めてやって知ったことである。
多くの面接官が目をぱちくりさせながら、大抵「何しに来たの」と遠回しに言われる。
更に前職を辞めた理由を言うと、「何処にでもあるような話ですね」と言われ、「まだ若いのに」と鼻で笑われる、それをもう何度繰り返したか分からない。
ちなみに前職を辞めた理由は多々ある。
例えば、労働時間。20時間の残業代なしの睡眠時間3時間の、しかも室温50度を超える汗が蒸発する部屋でほぼ休みなく働かされたり。汗って綺麗に蒸発しないから服が黄色くなるんだけど、そんなこと社会に出て初めて知りました。そんな労働環境に堪えられる人間等ほとんどおらず、倒れる人間や、病院送りになった人間も何人も見てきた。離職率は8割を超える。
更に外国への出張は実費で、しかも後で費用請求が来たり、決めていたシフトがコロコロ変えられどうにもならなかったり、言ってしまえばキリがない。
が、それを上手く包んで言えば包むほど、「ああ、よくある話ですね」「そういう残業は、どこの企業でもあるんじゃないかなあ」「そういう言い方よくないね、残業が嫌だと捉えられてしまいかねないよ」「それくらいも我慢出来ないのか」
と言われる始末である。
男はそこに来て考えた、否、考えさせられた。
所謂ブラック企業なんて物は何処にでもあって、それをこいつらは容認してるんだな、と。
これは例えるなら体罰問題だ。
例えば面接で「前職で体罰があったから」と言うと、決まって「体罰なんてどこの企業でもあるんじゃないですかね」と薄ら笑いを浮かべながら言われる、そんな事を繰り返しているようなものだ。
で、色んな人に相談してみればやっぱり「体罰ねえ、まあ多少はあるけど我慢しなきゃ」とか言う。何処かおかしくないか、この世の中、と男はなったわけである。
また世間知らずの人間はこういう事も言う。
「そういう環境で仕事してて苦痛だったなら、出る所に出ればよかったんじゃないの。裁判とか、労働基準監督署行くとか、幾つも方法はあったはず」
確かに仰られる通りですけど、訴えた結果どうなるか知ってるのかと言いたくなる。実は所謂ブラック企業の中小企業で、特に長生きしてきた企業には黒い影がつきまとっていたりする。所謂「ヤクザ」である。暴力団より性質が悪いものが背後についているのだ、そりゃ訴えることも躊躇いますね。
家に火をつけられたり嫌がらせをされてもいいと言う、しかも家族を巻き込んでしまう結果になってもいいならどうぞと言いたくなった時もあったが、乾いた笑顔で乗り切った。
とにかくそんなことの繰り返しで男は絶望していたのである。
別に人生に対して絶望したわけではない。寧ろ満足していた。仕事を辞めた数年は無駄ではなかったし、結果として自殺するわけだが、満足して死んでいくわけだから男自身に何の問題もないのだ。
男が不満に思うのは、己自身の人生ではなく、男を取り巻く環境がおかしな事を容認しているこの現実と社会である。そしてその社会を作り上げてきた日本人達である。
人は社会のせいにするんじゃないと言うんだろうけど、死ぬんだから何かに当たったってバチは当たらないんじゃないのか、男はとにかく我慢の限界だった。自らを殺すことに限界が来たのだ。
「そんなに不満なら自分自身で起業すりゃいいんじゃね」なんて事もあった。が、それを相談してみた所、結局生き残れないね、と全てのアイデアを蹴られた。要は危ない橋は渡りたくないわけである。それはそうだろうな、誰もがそう思う。けど、渡るべき時には、そこにしか道がないなら渡らないと、とも思うけれどそれもまた家族を巻き込むとなると躊躇してしまう所か。致し方ない事である。
もうそう考えると、男に残された選択肢はただ一つ。こんな日本社会に生きてても仕方ないから死のう、つまり真の意味での「自殺」しか残されていなかったのである。
何、これこそよくある話の一つだろう。ニュースで「死体が発見されました」と報道されるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。ニュースキャスターが淡々と「どうしてこの男はこんな所で死んでいたのでしょうね」と言われ、専門家がそれらしい顔をし、言葉を並べながら「まあ、よくある事ですよ」と言いながら説明するのだろう。そのことが真に腹立たしいが、死後の事はとやかく言うまい。死人に口なしだから言えない、と言うのが正しいが。
男の不満はそこで尽きることなく一人悶々と繰り返し爆発していた。
そしてそんな社会を作り上げてきた大人がこれから先老人になり年金暮らしになるわけだ。そしてそんな老人を支えるのが若者って、どういう事だ。しかも一人で三人支える時代になるとかなんとか。
支える価値があれば若者も支えるかもしれないが、とてもじゃないが今の五十歳、六十歳を見て「支えよう」と思える老人は一人もいないけれど。
終身雇用は時代と共に終わりを告げるのに、老人の終身雇用は続くわけです。男にとって、それは勘弁ならぬ事であり、そこから逃れられないならもう死んだ方がよっぽどマシ、となったわけである。
そう、人生に絶望なんてしていない。取り巻く環境に絶望していたのである。そして何より、未来に絶望していた。
いくら身体が健康でも、心がそれに伴わないと生きていけない事を男は知った。
己の心を殺してまで働いて生きていくという物は、本当に「生きている」と言うことになるのだろうか、と男は思う。
それは生きているようで死んでいる、つまり「自殺」しているようなものだ。そしてそれは問題として浮き彫りにもされず、日本人お得意の「通例」となって社会に浸透しているのだろう。
そんな精神的に自殺することが当たり前の社会なら、肉体的に自殺したって何の問題もないのではないか。
そこに己の命を賭けて一石を投じたいと思う。とはいえ、そんな所に命を賭けて死ぬ、なんて誰にも言わずに死ぬからどうしようもないんだけれど。
一石を投じる、とは的を射た言葉だ。
───そうだ!
文字通り一石を己の身と置いて、海に飛び込んで死のう、男は笑顔でそう決めた。
そう決めた瞬間、男の中で渦巻いていたとりとめのない不満も怒りも何処かに消え去っていた。
寧ろこれから訪れるであろう「死」に喜びすら感じていた。




