前編
大人の童話として書いた作品です。
二月の札幌の夜、書き終えたばかりの手紙を投函しようとポストへ向った。
吹雪の夜だったが、書き終えたらたまらなく投函したい手紙だった。
暗い夜道に加えて横殴りの雪が吹きすさみ、正面を向いて歩くのが難儀だった。
投函を終えての帰り道に、どこかで道を一本曲がり損ねた。
目の前に赤い提灯が突然と現れて、道を間違えたことに気付いた。
それは路地裏などによく有る、焼き鳥屋の提灯だった。
興味を引かれたのはその焼き鳥屋の名前だった。
『鈴懸の枝』
なんて読むのかわからない。
普通の焼き鳥屋の名前は『とり一』だったり『鶏処』だったりと、とても分かり易い。
悩んでいると、染みっ垂れた縄のれんを払いのけて、店から帰る男が一人出て来た。
酔って赤くなった顔と一瞬目と目が合ったが、その男はするりと顔をそらして吹雪の中に消えて行った。
腕時計を見ると午後8時を少し回ったところ、アパートに戻っても特にやるべきことはない。お店の名前も気になるし、たまにはこんなお店に入ってみるのも良いかなと思った。
間口の狭い引き戸を開けて店内に入ろうとするなり
「なんだ、今日はもう店じまいをしようと思ったのに」
どてら姿の三十代半ばの女にそう言われた。
「はっ?はあ、それはどうもすみません」
そう謝って帰りかけたら
「良いから入んなよ」
「でも・・・」
「風が入るから、ぐずぐずしないで早く入ってよ」
何で俺が叱られるのだ、腹が立ちそうで立たなかった。寂しかったのかもしれない。
その女は「ここに座りなよ」とカウンター前の丸椅子を指差した。
どうも姐御肌の女らしい、ものの言い方からそんな想像をした。
カウンター前に丸椅子が五脚、二人掛けのテーブルが二つ、どこにでもある小さな
焼き鳥屋だ。
壁に貼られた短冊のお品書きも、薄茶色の縞模様が浮かんでいてこの店の年季を感じさせた。但し、この店が不潔と言うわけではない。むしろカウンターも割箸立ても綺麗に磨かれている。
焼き鳥を数本と熱燗を一本注文した。
すると今度は
「あんた、本当に大人なんだろうね」
「はあ!?」
今度は本当に腹が立った。確かに俺は童顔かもしれないが、その言い方があまりにも失礼な感じで、むかっとした。
「俺は23歳だよ、なんなら免許証を見せようか」
女は俺の剣幕に少したじろいだ様子だった。
「分かったわ、免許証なんていらないわよ。そんなに怒らないでよ」
「怒るというより気分が悪い」
「そりゃそうだわね、気分悪いわよね。ごめんなさいね」
そんな素直なところもあるのかと思ったら
「でもね、子ども扱いされても怒らないのが本当の大人よ」
と、まるで勝ち誇ったように言い返してきた。
こんな女と口げんかする気はさらさらない、が、つい言い返してしまった。
「違いますよ、怒るべきときに怒るのが大人ですよ」
女は笑って「理屈っぽい人ね」と言った。
ちょっとした後悔があった。あのまま吹雪の中を真っ直ぐに帰れば良かったと思った。
どこかに、ささやかな理不尽さが止めどなく渦巻いているようで不快を感じていた。
女はすでに焼き鳥を焼き始め、徳利を暖め始めている。もう遅い、そんな風景が虚しく見えた。
「ねえ、見かけない人だけれど、どこに住んでいるの」
「北区です」
「ここもそうよ」
「四十条です」
「ここもそうよ」
「三丁目です」
「馬鹿ね、初めっから、そう言えば良いのに」
どうして俺は捻くれてしまったのか、俺は金輪際、何を訊かれてもこの女には答えたくない気分になった。
「ねえ、いつから三丁目に住んでいるの」
無視した。
女は束の間の時間を置いて
「あら、私ってさっそく嫌われたのかしら」
カウンターに頬杖を付いてそ知らぬ顔を決め込もうと思ったが、耐えられなかった。
「去年の10月です」
女の耳には届いているはずの声だったが無視されように、何の反応もなかった。
間もなく女は熱燗徳利とお猪口を俺の目の前に置き、背を向けた。
この女はこの女で、俺を招きいれたことを後悔しているのだろうか。
けれどもすぐに向き直り、気を取り直したかのようにお猪口に酒を注いでくれた。
「学生でもなさそうだし、仕事でここに来たの?」
「いや、それがなんと言って良いのか、旅の途中みたいなもので・・・」
「変な人ね、で、出発地点はどこのなのかしら」
「神奈川県です」
女は感慨深そうに小さく息を吐いて
「へえ、あんた神奈川県なの。懐かしいな、私は以前に川崎市に住んでいたんだよ」
「俺はその川崎市の生まれですよ」
そう言うと女はおれの顔をまじまじと覗き込んで
「ありゃりゃ、それ本当?へえ驚いた。私は幸区よ、あんたはどこ?」
「同じです、幸区です」
元々大きな瞳の女だったが、ことさら目を開いて驚きの顔を見せた。
「初めっから『幸区』って言えば良かったですか?また、『馬鹿ね』って言われそうですね」
「あはは、あんたは根性が曲がっているね」
女はそう言って俺を睨みながらも、けらけらと大らかに笑っていた。
「ねえ、そう言えばあんたさっき、免許証を見せるって言ったわよね。見せてよ」
俺は女に免許証を差し出した。
免許証に記載された住所を確認したいらしい。
「どうですか?ウソは何もないでしょう」
「うん、それは信じる。でもね、もっと驚いたよ」
「何がですか?」
「私とあんたは誕生日が同じなんだよ」
熱燗の酒を飲んで、焼き上がったばかりの焼き鳥に噛り付いた。
俄かにほんのりと身体が暖まってゆき、心地よかった。
「あんたの干支は午なんだ。私と一回り歳は違うけれど干支まで同じなんだ。なんだか気持ち悪くなるね」
女はまだ俺の免許証を手放さなかった。
「石山剛か、名前は平凡だなぁ~。顔は童顔だし、背はちっこいし。まあ、ブ男ではないけれどね」
俺は茫洋と耳を傾けた。お酒のお陰か何を言われても、すでに怒る気にはなれなかった。
どこかで親しみをこの女に抱き始めていたのだろうか。
店の外は相変わらずの吹雪模様で、時折入口のガラス戸がガタガタと音をたている。それに比べてこの店内には、飛び交う言葉とはあべこべに、穏やかな時間が流れていることを感じた。
「ねえ、お姉さんの名前を聞いても良いかな」
お猪口の酒を飲み干して聞いてみた。
「私の名前を聞いてどうするのよ」
機嫌を損ねたのだろうか、何となく冷たい返事だった。
「どうするも何も、名前で呼びたいからですよ」
やがて女は何かを考え、何かを整理したかのように首を縦に振ると
「私の名前は『鈴』、鈴木さんの鈴よ。漢字一文字よ」
「あ~、あの金ヘンの鈴ですね」
「この名前、どう思う?」と俺の顔を見つめた。
「そう急に言われても、別に何もないですけど。何か考えましょうか?」
鈴さんは「無粋なヤツだわね」と露骨に嫌な顔を見せたが、そんな表情とは裏腹に
「これからオジヤを作るから一緒に食べよう」と誘ってくれた。
どうせ腹ペコなんでしょう、お酒と焼き鳥だけじゃいい若い男の身が持たないでしょう、と言いながらも、その動きはカウンターを越えて入口に向った。何をするのかと見ていたら、赤提灯の電灯を消し、暖簾を店内に片付けてしまった。引き戸の錠を内側から締めようと鍵棒を回し始めた時に、鈴さんの動きがためらいがちに止まった。
何かをためらった鈴さんの手は、逆回転をして鍵棒を元の位置まで戻した。
俺は漠然とその手を見つめていた。
鍵棒を逆回転させる指先に、何とも危なげな鈴さんの脆さと気丈さを感じた。




