婚約破棄されて修道院送りになった公爵令嬢ですが、性格の悪い皇弟殿下に共犯を申し込んでみました
思いつきで書き殴りました。
「ロザリア・ハーナヴェルズ。そなたとの婚約を、今日この場をもって解消する」
皇太子アルフレッドの口から告げられた言葉に、ロザリアは耳を疑った。
皇帝の御前には重苦しい沈黙が満ち、居並ぶ重臣たちの視線が一斉にこちらへ向けられている。何かの聞き間違いではないかと思い、目の前に立つ婚約者を見つめたが、よく知る青い瞳には、かつてないほど厳しい決意が宿っていた。
「……恐れながら、殿下。理由をお聞かせいただけますか」
「ハーナヴェルズ公爵に、国家反逆罪の嫌疑がかけられている」
父の名が出た途端、ロザリアは眉を寄せた。
「父が、国家に反逆を?」
「公爵とその嫡男は、すでに拘束されている。現在、刑務省が事実関係を調べているところだ」
思わず一歩踏み出しかけ、寸前で足を止める。父も兄も、今朝まではいつもと変わらず屋敷で過ごしていたはずである。朝食の席では兄と他愛のない話を交わし、父からは帰りが遅くなるなら知らせるようにと言われたばかりだった。
その二人が、今は拘束されているという。
「お待ちくださいませ。父は長年、帝国に忠誠を尽くしてまいりました。兄もまた、ハーナヴェルズ家の嫡男として、その務めを果たしてきた人です。国家への反逆など、何かのお間違いではございませんか」
「間違いか否かは、これからの審理によって明らかになる」
答えたのは皇帝だった。
ロザリアはすぐさま膝を折り、深く頭を下げる。
「陛下。恐れながら、父と兄にお会いすることは叶いませんでしょうか。せめて、どのような嫌疑をかけられているのか、お聞かせいただきたく存じます」
「審理に関わる事柄を、今ここでそなたに明かすことはできぬ。公爵とその嫡男への面会も、当面は認められない」
「ですが、陛下」
「ロザリア」
アルフレッドの声に、ロザリアは顔を上げた。
彼は苦しげに眉を寄せている。幼い頃から親しくしてきた婚約者が、何かを堪えるような顔をするところなど、これまで幾度も見てきた。公務で思うような結果が得られなかったときも、民から寄せられた嘆願に応えられなかったときも、彼はいつも自分の至らなさを悔やんでいたのである。
けれど、今日のアルフレッドは違った。
「君の気持ちは分かる。私も、公爵がそのようなことをしたとは信じたくない」
「でしたら――」
「だが、皇太子として、私情で法を曲げるわけにはいかないんだ」
ロザリアは口を閉ざした。
「ハーナヴェルズ家は帝国でも指折りの名門だ。その当主に国家反逆の嫌疑がかけられた以上、事実が明らかになるまで、皇室との婚姻を進めることはできない。君には申し訳ないと思っているが、婚約の解消は避けられないんだ」
アルフレッドの言葉は、どれも理に適っていた。
皇太子の婚姻が当人同士の感情だけで決められるものではないことなど、ロザリアも承知している。将来、皇后となるために必要な学問と礼法を幼い頃から修め、皇室の一員としての責任を教え込まれてきたのだから。
それでも、納得できるはずがなかった。
「アルフレッド様は、父が罪を犯したとお考えなのですか」
「そうは言っていない」
「では、わたくしが反逆に加担したと?」
「君がそのようなことをするとは思っていないよ」
迷いなく返された言葉に、ロザリアは胸の奥が痛んだ。
彼は本当に、そう信じているのだろう。
アルフレッドは誰よりも正義を重んじる人だ。身分の高低によって人を差別せず、不正を嫌い、たとえ親しい者であっても過ちを犯せば正しく裁かれるべきだと考えている。
ロザリアは、そんな彼を尊敬していた。
だからこそ、皇太子妃として隣に立つ未来を望んだのである。
「……それでも、婚約は解消なさるのですね」
「ああ」
その一言が、これまで二人で積み重ねてきた年月を断ち切ってしまったように思えた。
ロザリアは唇を引き結び、俯きかけた顔を上げる。
「承知いたしました。ですが、父と兄の嫌疑については、どうか慎重にお調べくださいませ。ハーナヴェルズ家の名誉にかけて、二人が国家に背くような真似をするはずはございません」
「無論だ。法に従い、公正に審理することを約束しよう」
アルフレッドは真摯な面持ちで頷いた。
その姿を見ていると、これ以上何を訴えても彼の判断が変わることはないのだと分かってしまう。
けれど、話はそれで終わらなかった。
「陛下。ロザリアについて、一つお願いがございます」
アルフレッドが皇帝に向き直り、深く頭を下げる。
「ハーナヴェルズ公爵家には国家反逆の嫌疑がかけられておりますが、彼女が関与したことを示す証拠は、現時点では見つかっておりません。どうか、一族連座による拘禁についてはご再考いただけませんでしょうか」
ロザリアは目を見開いた。
一族連座。その言葉が意味するところを、知らないわけではない。
国家への反逆という重罪においては、当人だけでなく、その一族にも厳しい処置が及ぶことがある。皇帝の裁可が下れば、ロザリアもまた、父や兄と同じように牢へ送られる可能性があった。
しかし、アルフレッドは彼女を振り返ることなく、皇帝へ言葉を重ねている。
「無罪放免を願い出るつもりはございません。ただ、審理が終わるまでの間、修道院での謹慎をもって拘禁に代えていただけないでしょうか。彼女は幼い頃から皇太子妃となるべく学び、皇室に尽くしてくれました。その忠節だけは、どうかお汲み取りいただきたく存じます」
皇帝はしばらく黙考していたが、やがて重々しく頷いた。
「よかろう。ロザリア・ハーナヴェルズの身柄は修道院へ預ける。審理が終わるまで、許可なく外へ出ることは認めぬ」
「ご慈悲に感謝申し上げます」
アルフレッドが安堵したように頭を下げる。
ロザリアは、そんな彼を見つめていた。
彼は自分を救おうとしてくれたのだろう。
婚約を解消せざるを得なくなっても、長年親しくしてきた相手を牢へ送ることだけは避けたいと、そう願ってくれたに違いない。
その気持ちを疑うつもりはなかった。
しかし、父と兄が拘束され、家の名誉が傷つけられ、婚約まで失った今、修道院で暮らすことを許されたからといって、どうして喜べるというのだろう。
「ロザリア」
アルフレッドが近づいてくる。
「すまない。私には、これが精一杯だった」
伸ばされかけた手を、ロザリアは静かに見つめた。
以前なら、迷うことなくその手を取っていただろう。
けれど今は、何を言えばよいのか分からない。
感謝すべきなのか、恨むべきなのか。それさえ定まらないまま、ロザリアはただ深く膝を折った。
「……陛下のご命令、謹んで承ります」
それが、彼女にできる精一杯の返答だった。
*
冷たい水に浸した雑巾を絞ると、指の節が痛んだ。
ロザリアは赤く荒れた両手を見下ろし、しばらく動けずにいた。
修道院へ送られてから、すでに幾日も過ぎている。
朝は鐘の音で起こされ、祈りを捧げたあとは掃除や洗濯、厨房の手伝いに追われる。与えられた衣服は粗末で、食事も屋敷で口にしていたものとは比べようがない。少しでも手を休めれば修道女から叱責され、仕事が終わらなければ休むことも許されなかった。
最初の頃は、何かの手違いなのだと思っていた。
皇帝の命令で修道院に預けられた身とはいえ、ロザリアは罪人として裁かれたわけではない。審理が終われば父と兄の無実が明らかになり、迎えが来るはずだった。
だから、言われるままに働いた。
不慣れな仕事に失敗しても、冷たい言葉を浴びせられても、いずれ終わることだと自分に言い聞かせてきたのである。
しかし、父と兄の消息は一向に届かない。
屋敷がどうなっているのかさえ分からず、外へ手紙を出したいと願い出ても、許可は得られなかった。
それでも日々は過ぎていく。
今日もまた、昨日と同じように床を磨き、汚れた水を替え、洗濯物を運んでいる。
「――どうして、こんなことに?」
呟きは、誰もいない廊下に落ちた。
ロザリアは自分の手を見つめた。
かつて、この手にはいつも手袋があった。
舞踏会ではアルフレッドの手を取り、茶会では繊細な磁器のカップを持ち、刺繍をするときには細い針を扱った。公爵令嬢として恥じることのないよう、指先の所作に至るまで教え込まれてきたのである。
今は爪の間に汚れが残り、指の腹には硬くなった皮膚ができていた。
鏡を見る機会もほとんどない。髪は簡素に結い上げ、着古したドレスの裾には、落としきれない染みがいくつも残っている。
こんな姿を、アルフレッドが見たら何と言うだろう。
考えかけて、ロザリアは目を伏せた。
彼はきっと、心を痛めるに違いない。
修道院で穏やかに暮らせるよう取り計らったつもりだったのだから、今の境遇を知れば、もう一度皇帝に嘆願してくれるかもしれない。
けれど、それで何が変わるというのだろう。
少しばかり食事がよくなり、掃除の仕事が減り、荒れた手を休める時間が与えられる。
父と兄は戻らず、公爵家の名誉も回復しないまま。
ロザリアは雑巾を桶へ戻した。
廊下の向こうから、車輪の音が聞こえてくる。
この修道院へ馬車が訪れることは珍しかった。首都から遠く離れた辺鄙な土地にあり、普段は近隣の住民か、物資を運ぶ商人が訪れる程度である。
窓辺に近づくと、正門の前に一台の馬車が停まるところだった。
磨き上げられた車体には、見覚えのある紋章が掲げられている。
「……あの紋章は」
皇弟エリアス。
現皇帝の弟であり、母方の公爵家を継いだ人物である。
黒髪に青い瞳を持つその青年は、社交界でもひときわ目を引く美貌の持ち主だった。宮廷の令嬢たちが遠巻きに眺めては、その微笑みひとつに頬を染めていたことを、ロザリアもよく覚えている。
もっとも、彼に近づこうとする者は多くなかった。
エリアスは誰に対しても愛想がよく、いつも楽しげに笑っている。それなのに、なぜか貴族たちは彼の機嫌を損ねることを恐れていた。
以前、父が言っていた。帝国には敵に回してはならない人物が何人かいるが、エリアス公爵はその筆頭だ、と。
当時のロザリアには、あれほど穏やかに笑う人が恐れられる理由を理解できなかった。
馬車の扉が開き、黒髪の青年が降り立つ。
遠目にも分かるほど整った容貌に、仕立てのよい衣服。迎えに出た修道院長が深々と頭を下げると、彼は親しげに何かを話しかけた。
「あれは皇弟エリアス様ご本人だわ。今の私を見たら笑うでしょうね」
ロザリアは寂しく微笑んだ。
皇太子の婚約者だった頃なら、彼女も当然のように出迎えの列に加わっていただろう。
しかし、今は修道院に預けられた身である。
皇弟に挨拶するどころか、勝手に仕事を離れたことを知られれば叱られかねない。
ロザリアは窓から離れ、再び雑巾を手に取った。
桶の水はすでに濁っている。替えに行かなければならないと思いながら、なぜか足が動かなかった。
皇弟が訪れようと、自分には関係がない。
明日になれば、また同じ仕事が待っている。明後日も、その次の日も、きっと変わらない。
では、いつまで?
ロザリアは雑巾を握ったまま、顔を上げた。
「――私、いつまでここにいるの?」
誰に尋ねたわけでもなかった。
けれど、その問いを口にした途端、今まで考えないようにしていたことが次々と思い浮かんだ。
父と兄の審理が終わるまで。皇帝から許可が下りるまで。誰かが迎えに来てくれるまで。
そのどれもが、自分の意思ではどうにもならないことばかりである。
ロザリアは、汚れた水面に映る自分の顔を見下ろした。
修道院へ送られた日から、ずっと待っていた。
父の無実が証明されるのを。アルフレッドが事情を知らせてくれるのを。皇帝が処分を取り消してくれるのを。
しかし、待っているだけでは何も変わらなかった。
ロザリアはゆっくりと立ち上がった。
――私はロザリア・ハーナヴェルズ。
由緒ある公爵家の娘であり、この帝国で皇后に次いで高貴な女性として育てられてきた。
幼い頃に母を亡くしてからも、父と兄に大切にされ、家の名に恥じぬよう学問と礼法を修めてきた。皇太子妃となるために費やした年月も、身につけた教養も、修道院へ送られたからといって失われたわけではない。
爵位を奪われたわけでも、罪を認めたわけでもないのに、なぜ自分は、言われるままに床を磨き続けているのだろう。
ロザリアは雑巾を桶の縁へ掛けた。
――こんなところで雑巾掛けをしている場合ではない。
皇弟エリアスが、今、この修道院にいる。
帝国でも指折りの権力を持ち、皇帝に直接言葉を届けられる人物が、すぐ近くまで来ているのだ。
彼に会ったところで、何が変わるのかは分からない。
けれど、会わなければ何も始まらない。
ロザリアは廊下を歩き始めた。
*
修道院長が客人を迎える部屋は、建物の東側にあった。
以前、掃除を命じられたことがある。ほかの部屋より家具が立派で、窓には厚いカーテンが掛けられ、来客用の茶器が棚に収められていたのを覚えている。
ロザリアはその部屋へ向かったが、廊下の途中で足を止めた。
扉の前に、修道女が二人立っている。
おそらく、客人の世話を任されているのだろう。今のロザリアが近づけば、何をしに来たのかと問い詰められるに違いない。
しばらく考えたのち、ロザリアは踵を返した。
建物の外へ出ると、日差しが眩しかった。
東側の壁に沿って進み、目当ての部屋の窓を見上げる。幸いなことに、窓は少し開いていた。
室内からは、修道院長の声が聞こえてくる。
ロザリアは辺りを見回し、誰もいないことを確かめた。
それから、ドレスの裾を持ち上げた。
窓枠は、思っていたより高い。片足を掛けるまでに少々苦労し、ようやく身体を持ち上げたところで、裾が木のささくれに引っ掛かった。
布の裂ける小さな音がする。
ロザリアは一瞬だけ顔をしかめたが、今さら引き返すつもりはなかった。
片手を窓枠につき、どうにか室内へ足を下ろす。
「――ですから、当院では皆が慎ましく、日々の務めに励んでおりまして……」
修道院長の声が途切れた。
ロザリアが顔を上げると、長椅子に腰掛けていた黒髪の青年と、向かいに座る修道院長が、揃ってこちらを見ている。
開け放たれた窓から風が吹き込み、カーテンがふわりと膨らんだ。
ロザリアは乱れた髪を耳に掛け、汚れたドレスの裾を整えた。
そして、何事もなかったかのように膝を折る。
「突然の訪問をお許しくださいませ。エリアス閣下」
礼の角度も、背筋の伸ばし方も、指先の位置も。
かつて皇太子の婚約者として身につけた作法に、一分の乱れもなかった。
ただし、ドレスの裾には泥がつき、片方の袖は窓枠で擦れて汚れている。
修道院長が椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「ロザリア! あなた、何をしているのです! どこから入ってきたのですか!」
「窓からですわ」
「見れば分かります!」
怒声が部屋に響いた。
「閣下の御前ですよ! 無礼にもほどがあります! 今すぐ出ていきなさい!」
「貴女は下がっていてください」
穏やかな声が、その叱責を遮った。
エリアスだった。長椅子に腰掛けたまま、修道院長へ微笑みかけている。
「ですが、閣下っ――」
「聞こえなかった?」
笑顔は変わらなかった。
それなのに、修道院長は途端に口を閉ざした。
ロザリアは思わずエリアスを見た。
彼は何も恐ろしいことを言っていない。ただ、先ほどと同じ柔らかな声音で問い返しただけである。
しかし、修道院長の顔からは血の気が引いていた。
「……し、失礼いたしました」
深く頭を下げると、彼女は足早に部屋を出ていった。
扉が閉まる。静かになった室内で、エリアスはゆっくりと立ち上がった。
背が高く、姿勢がよい。黒髪は陽の光を受けて艶やかに輝き、長い睫毛に縁取られた青い瞳には、どこか楽しげな色が浮かんでいる。
宮廷で幾度となく見かけた、美しい皇弟その人だった。
エリアスはロザリアの前まで歩み寄ると、わざとらしいほど丁寧に一礼した。
「どなたかと思えば、ハーナヴェルズ公爵令嬢ではありませんか。ああ、今は“元”公爵令嬢でしたね」
ロザリアは満開に咲いた花のように微笑んだ。
「お久しゅうございますわね、エリアス閣下」
「修道院送りになったと聞き及んでいましたが、まさかこんな辺鄙な場所にいたとは」
「わたくしも、閣下がこちらへいらっしゃるとは存じませんでした」
「そうだろうね。僕も、君が窓から入ってくるとは思わなかったよ」
あまりにも楽しそうに言うので、ロザリアは一瞬だけ返答に迷った。だが、ここで窓から侵入した非礼を詫び続けても、話は進まない。
「閣下は慈善活動ですの?」
「いや、偽善活動だよ」
「……はい?」
聞き間違えたのかと思った。
エリアスは長椅子に戻り、優雅に腰を下ろす。
「困っている人を助ければ、皆が僕を立派な人間だと思ってくれるだろう? 実にいい仕組みだよね」
ロザリアは口を閉じた。
皇弟エリアスは、社交界では誰に対しても優しい紳士として知られている。
少なくとも、彼が人前でこのような物言いをするところを、ロザリアは見たことがなかった。
「……閣下は、随分と正直な方でいらっしゃいますのね」
「そうかな。嘘をつくのも得意だよ」
にこりと笑われ、ロザリアは言葉に詰まった。
父の忠告が脳裏を過ぎる。
──エリアス公爵だけは敵に回すな。
父は、なぜそう言ったのだろう。
今なら、その理由が少し分かる気がした。
彼はロザリアの知る宮廷の紳士たちとは、どこか違う。
美しい顔で微笑みながら、相手が何を思うかなど気にも留めず、平然と人を困らせることを言う。
しかも、先ほど修道院長を退室させたときの様子を見る限り、単に口が悪いだけの人物でもなさそうだった。
「それで?」
エリアスが頬杖をついた。
「僕に何か用があるんでしょう? わざわざ窓から入ってきたくらいだから」
「ええ」
「修道院の暮らしがつらいのかな」
ロザリアは答えなかった。
彼の視線が、自分の衣服へ向けられている。裾の汚れも、擦り切れた袖口も、隠しようがない。
「そういえば、君は皇太子の婚約者だったね。以前は随分と華やかな格好をしていたように思うけど」
「今はご覧のとおりですわ」
「うん。よく似合っているよ」
ロザリアは微笑みを崩さなかった。
「お褒めにあずかり、光栄に存じます」
「怒らないんだ?」
「閣下がお世辞を仰っていることくらい、分かりますもの」
「おや。残念」
エリアスは声を立てて笑った。
からかわれている。それは明らかだったが、ロザリアは腹を立てるよりも先に、目の前の青年が自分をどこまで試すつもりなのか、気になり始めていた。
彼は窓から侵入した不審な女を追い出さなかった。
修道院長を下がらせ、二人きりで話すことを許している。
少なくとも、今すぐ立ち去れと言うつもりはないらしい。
ならば、与えられた機会を無駄にするわけにはいかなかった。
ロザリアは姿勢を正した。
「エリアス閣下。お願いがございます」
「うん?」
「わたくしのお話を、少しだけ聞いていただけませんか」
「もう聞いているじゃないか」
「そうではなくて」
エリアスは面白そうに目を細めた。
「冗談だよ。続けて」
ロザリアは一度だけ息を整えた。
ここへ来るまで、何を言えばよいのか考えていた。
父と兄の無実を訴えるべきだろうか。皇帝への取り次ぎを頼むべきか。それとも、修道院から出してほしいと願い出るべきなのか。
どれも、今の自分には必要なことだった。
しかし、それだけでは足りない。
皇帝に会えたとしても、父と兄が戻ってくるとは限らない。修道院を出られたところで、失った名誉が回復するわけでもない。
何より、誰かの慈悲にすがるためだけに、ここへ来たのではなかった。
エリアスが、ふと思い出したように口を開く。
「そうだ。ここで逢えたのも何かの縁だし、金貨でも恵んであげようか」
ロザリアは顔を上げた。
青年は長椅子に深く腰掛け、こちらを見つめている。
その微笑みは、宮廷で見たものと少しも変わらない。
金貨。それがあれば、修道院での暮らしは多少ましになるだろう。修道女たちの態度も変わるかもしれないし、今よりよい衣服や食事を与えられる可能性もある。
けれど、ロザリアが欲しいのは、そのようなものではなかった。
「足りませんわ」
エリアスの眉が上がった。
「ふうん?」
ロザリアは一歩、彼に近づいた。
ドレスは汚れ、手は荒れている。
公爵家の馬車も、華やかな宝飾品も、皇太子の婚約者という立場も、今は何ひとつ持っていない。
それでも、頭を下げて金貨を恵んでもらうために、窓を乗り越えたのではない。
「エリアス閣下」
ロザリアは、かつて皇宮の舞踏会で幾度となく浮かべた、最も美しい微笑みを作った。
「わたくしと手を組みませんこと?」
エリアスは何も言わなかった。
青い瞳が、ロザリアを見つめている。
その沈黙に気圧されそうになりながらも、彼女は視線を逸らさなかった。
やがて、エリアスの口元がゆっくりと緩んだ。
「公爵令嬢でなくなった君に、僕に差し出せるものはあるの?」
当然の問いである。
今のロザリアには、財産も権力もない。公爵家の名を出したところで、国家反逆罪の嫌疑を受けている以上、以前のような力は持たなかった。
けれど、何もかも失ったからといって、何もできなくなったわけではない。
ロザリアは顔を上げたまま、微笑んだ。
「ええ」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「後悔はさせませんわ」




