『婚約破棄されましたが、私は狐神の巫女ですわ』~薄闇に灯る青白い狐火は、あなた方の断罪の火です~【短編版】
「穢れた狐憑きの令嬢よ、貴様との婚約は破棄する!」
煌びやかなシャンデリアの下、王太子ジークの声が夜会の広間に響き渡った。
楽団の演奏が止み、貴族たちの視線が一斉に、一人の令嬢へと集まる。
侯爵令嬢セイカ・フォルトナ――艶やかな黒髪に、切れ長の琥珀色の瞳。
私は、静かに扇を閉じた。
(は? 狐憑き?)
(いえ、正確には狐神の巫女ですけれど)
内心のツッコミはさておき、表向きは眉ひとつ動かさない。前世――日本の稲荷神社の娘だった記憶が、こういう時にやたらと冷静さをくれる。
「お前の一族は代々、王家の恥だった。あの不吉な青白い炎……あれは呪いだと、皆が知っている!」
ジークの金髪碧眼が、勝ち誇ったように輝く。
その隣には、涙で頬を濡らした男爵令嬢ミレイユが寄り添っていた。
「セイカ様……わたくし、怖くて……」
か細い声。庇護欲をそそる、完璧な被害者の演技。
「聞いたかセイカ! ミレイユは、お前の青白い炎に呪われ、腕に火傷を負ったのだ! 言い逃れはできんぞ!」
(知らんがな)
(それ、あなたが勝手に触った結界の火ですけど)
私は口には出さず、ただ静かに彼らを見つめた。
この人たちは、何も知らない。
あの青白い炎が、この国を何から守っているのか――何ひとつ、知らないのだ。
*
断罪の声が続く中、私の脳裏には、これまでの日々が静かに流れていた。
この国――アルマリク王国は、東に広がる魔物の森を『狐火の結界』で封じることで、建国以来の平和を保ってきた。
そしてその結界を、代々維持してきたのが、私たちフォルトナの一族だった。
「狐憑き」
そう蔑まれながら。
誰にも感謝されず、忌み嫌われながら。
それでも私は、毎晩ひとり王都の外れに立ち、青白い狐火を灯し続けてきた。
祈りを捧げ、結界を編み、魔物が這い出てこぬように。
――健気に。
前世の祖母の言葉を、今でも覚えている。
『いいかい、セイカ。神使はね、敬わぬ者を守らないんだよ』
幼い頃は意味がわからなかった。
でも今なら、痛いほどわかる。
「反論はないのか、狐憑き!」
ジークの怒声で、私は現実に引き戻された。
扇の陰で、そっと息を吐く。
(もういい。もう、十分だわ)
(この愚かな人たちに、結界の正体を説明する義理なんて――もうない)
私は顔を上げ、静かに微笑んだ。
その微笑みに、なぜかジークが一瞬たじろいだのを、私は見逃さなかった。
*
「かしこまりました」
私の声は、驚くほど静かに広間に響いた。
「追放を、受け入れます」
ジークが「ほう。物わかりがいいではないか」と満足げに頷く。ミレイユの唇が、勝ち誇ったように歪んだ。
だが、私は言葉を続けた。
「ただし――狐火は、私と共に去ります」
「……なんだと?」
「あの青白い炎は、私の一族が神と結んだ契約。巫女である私が去れば、共に消えます。当然のことですわ」
ジークは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
「はっ、はははは! なんだ、そんなことか! あの不吉な炎が消えるだと? むしろ好都合ではないか!」
「ええ、本当に。あんな気味の悪い炎、なくなってせいせいしますわ」
ミレイユまでもが、涙を引っ込めてくすくすと笑う。
広間中の貴族たちも、嘲るような笑いに包まれた。
誰一人。
本当に、誰一人として。
その炎が魔物を封じていたことを、知らない。
(そうですか)
(では、失礼して)
私は最後に、深々と一礼した。
そして、テーブルの上にそっと扇を置いた。
狐神の紋が刺繍された、私の扇を。
「――それでは、国を去りますわね。結界ごと」
誰も、その言葉の意味を、理解していなかった。
*
王都の門を出ると、夜風が頬を撫でた。
もう振り返ることもない。
「セイカさまぁ!」
ふわり、と足元で青白い光が揺れた。
小さな幼狐。つぶらな金色の瞳と、ふわふわと輝く尻尾。
コン――狐神の眷属であり、あの『結界の炎』の正体だ。
私にだけ姿を見せて、こうしてしゃべる甘えん坊さん。
「あの人たち、ぷんぷんですね! セイカさまに、ひどいこと言いました!」
小さな前足をぷんぷんと振り上げる姿に、思わず頬が緩む。
「ふふ、そうね。でも、もういいのよ」
「いいんですか?」
「ええ。私たちを敬わない国を、守る必要なんてないもの」
コンの尻尾が、しゅんと垂れる。
「コン、ずっと寒かったです。あの国、ずーっと冷たくて、こわかったです……」
胸が、きゅっと痛んだ。
この子は、ずっと不安に震えていたのだ。敬われぬ土地で、たった一人――いや、私と二人で。
私はしゃがみ込み、青白い炎をそっと撫でた。
ひんやりとして、けれど不思議とあたたかい。
「……そう。もう大丈夫よ。行きましょう、コン。私たちを待っていてくれる場所へ」
「はいっ!」
青白い狐火を連れて、私は国境へと歩き出した。
背後の王都は、まだ何も知らずに、静かに眠っている。
*
翌朝。
王都アルマリクは、悲鳴で目を覚ました。
「魔物だ――!」
「森が、森が近づいてくるぞ!」
東の空を覆っていた、うっすらとした青白い光。
それが、跡形もなく消えていた。
代わりに、魔物の森が――生き物のように、じりじりと王都へにじり寄っていたのだ。
「な、なぜだ! 結界はどうした!」
王城のバルコニーで、ジークが顔面蒼白で叫んだ。
「ミレイユ! お前は聖女だろう! 結界を張れ、早く!」
「そ、そんな……わたくし、そんな力……」
ミレイユの顔から、血の気が引いていく。
聖女の力など、最初から偽物だった。
涙と演技で作り上げた、まやかしの聖女。
「呪いの火傷」も――本当は、結界の炎に無許可で触れた、ただの自業自得。
すべてが、今、白日の下に晒される。
「呼び戻せ!」
ジークが喚いた。
「セイカを呼び戻せ! あの女なら、結界を!」
家臣たちが慌てて馬を走らせる。
昨夜、あれほど嘲笑い、蔑み、追放した相手を。
今さら、追いかけて。
――失って、初めて気づく。
あの青白い炎が、何を守っていたのかを。
*
国境の丘。
朝日を浴びながら、私はコンを撫でていた。
そこへ、砂埃を上げて王家の使者が駆けつけてきた。
「セイカ様! どうか、どうかお戻りください! 王都が魔物に襲われております! 結界を、どうか結界を張り直していただきたく――!」
馬から転げ落ちるように、使者が跪く。
私は、ゆっくりと振り返った。
そして、静かに微笑んだ。
「なぜ、追放した者が戻ると思ったのですか?」
使者が、言葉を失う。
「昨夜、王太子殿下は仰いました。『あの不吉な炎が消えるなら好都合だ』と。私は、その通りにしただけですわ」
「で、ですが、あれは誤解で――!」
「誤解?」
私は、もう手元にはない扇を持つ仕草で、口元を隠した。
「ミレイユ様の火傷は、あの方が勝手に結界の炎に触れた結果です。私は指一本触れておりません」
「殿下は、目に見える『光』しか信じなかった。私の炎を『穢れ』と呼び、真実を確かめようともしなかった」
「――神使は、敬わぬ者を守りません。それが、この世の理ですわ」
コンが、ぴょこんと私の肩に飛び乗った。
「そうですそうです! ぷんぷんですっ!」
私はくすりと笑い、使者に背を向けた。
「どうぞ、お引き取りを。私は、私を待っていてくれる場所へ行きますので」
指一本、汚すことなく。
私は、去った。
*
国境を越えた先――隣国の山あいに、古き社があった。
狐神を祀る、静かで温かな場所。
私が門をくぐると、木々の間から、澄んだ空気が流れてきた。
「セイカさま、この国、あったかいですね!」
コンの声が、これまでになく明るい。
青白い炎が、ぱっと大きく揺れた。
不安に震えていた、あの小さな火が。
今は――まるで祝福するように、きらきらと輝いている。
「ええ、本当に。温かいわね」
私が微笑んだ、その時だった。
社の奥から、静かに人影が現れた。
長身に、白と藍の狩衣。
そして――狐の面。
人ならざる気配を纏った、無口な神職の青年。
彼は、ゆっくりと私の前まで歩み寄ると、静かに手を差し伸べた。
「ようこそ、巫女様」
その声には、深い温もりと、敬意が宿っていた。
蔑まれ続けた私を――初めて、『巫女様』と呼ぶ声。
「……初めて、『巫女様』と呼ばれました」
「あなたを、ずっと待っていた」
狐面の下の瞳が、金色に揺れた気がした。
人か、神か。それとも――。
私は、そっとその手に、自分の手を重ねる。
「セイカさま、この火、うれしそうです!」
コンの青白い狐火が、薄闇の中で、やさしく揺れる。
かつては忌み嫌われた不吉な炎が。
今、初めて――祝福の光として、灯っていた。
「――ええ。かつて忌み嫌われた不吉な炎が、今、初めて祝福の光として灯っている」
そして遥か彼方、結界を失った王国では。
愚かな王太子と偽りの聖女が、失って初めて気づく後悔に、静かに沈んでいく。
――薄闇に灯る青白い狐火は、あなた方の、断罪の火。
私は、もう振り返らない。




