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スペル・エラー ~娘が生まれるのに異世界に召喚されたので、何があっても帰ります~  作者: とろたま愚鈍
第一章

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第七話「はじめての奪い合い」

運河の水面が、大きく揺れた。


次の瞬間、水の中から人影が飛び出してきた。

黒い装備に身を包んだ男が、倉庫の壁を蹴って着地する。

同時に、倉庫の屋根の上、路地の両端——あちこちから、同じような装備の人間が現れた。


十人。いや、もう少しいるかもしれない。


「——伏せろ!!」


エルナの声と同時に、僕はダンの肩を抱えて地面に伏せた。

リアはダンの腕のなかで丸くなっている。


エルナが手を広げた。

青白い光が膨らんで、僕たちを包むように広がっていく。


——これは、魔術の防壁か?


工作員の一人が拳銃から数発発射。

鉛の塊がエルナの防壁にぶつかって弾ける。

エルナは動じない。

ただ前を向いて、防壁を維持し続けている。


その中で——一人だけ、動きが違う男がいた。


黒い装備は同じだ。

でも、他の工作員が攻撃に参加している中、その男だけが誰かと通信しながら後退していた。

静かに、路地の奥へと消えていく。


「エルナ!」

「見えてるわ。」


エルナが低い声で言った。


「一人だけ離脱しているわね。おそらく——」

「首謀者か?」

「とまでは言わないけど、今回の作戦を指揮しているのは間違いないでしょうね。」

「どうする?」


銃声が鳴り止まない。

こんな中であまり流暢に話をしている余裕もないのだが。


「行って! 逃がしたら、おそらく面倒なことになるわ。」

「イッテ?この銃弾の中を?」

「あぁー!もう!」


エルナは片手を僕の方へ向ける。

すると、僕の周りにコンパクトな防壁が形成された。


「はい!これであんたは、完璧!無敵!最強よ!」

「いやいやいや、怖い怖い怖い。第一、ダンさんとリアはどうするんだ?」

「私のそばに置いておく。こっちの方が安全よ。」


エルナが振り返らないまま続けた。


「ほら行く!見失ったら私があんたを蜂の巣にしてあげる!」


背水の陣とはまさにこのことか。

行かずとも蜂の巣。行っても蜂の巣。

倒れるなら前のめりにだ。


僕は走り出した。

鉛玉の雨を抜けて、その男を追いかける。


——カンカンカン!


僕の周りにある防壁が銃弾を弾く音が間近に聞こえる。

心臓に悪い。これ本当に大丈夫だよな?


男は路地を曲がって、倉庫街の奥へと向かっていた。

追いかけながら、男との距離を測る。

幸いにも、男の足取りは早いとは言えなかった。

ストーンウェアで脚部を強化しているわけではないのかもしれない。

ならば、ピチピチな体の僕の方が幾分か分があるはずだ。

若いっていいよね。


建物の構造は僕も昨夜確認している。

倉庫街の奥は行き止まりになっているはずだ。


案の定、男が立ち止まった。

古い事務所の前だった。窓が割れていて、扉も半分外れかけている。


男はこちらを振り返った。


「……っち。追ってきたか。」


低い声だった。

落ち着いていた。

追い詰められた人間の声じゃない。


男は事務所の中に入った。僕も続いた。







事務所の中は暗かった。

ほこりの匂い。床に散乱した書類。壊れた机。


男の気配が、奥の部屋から消えた。

廊下を進む。足音を殺しながら。

突き当たりの部屋の前で止まった。

扉が少し開いている。


こっちには銃がある。

魔力バッテリーもエルナから充電してもらっているし、いつでも使える。

ホルスターから拳銃を引き抜き、構える。

これって両手で持っていいんだよな?


部屋の中を伺うが、どうにも暗くて見えない。


——端末だ。


ポケットから端末を取り出し、電源を入れる。

端末のライト機能をつけ、片手に拳銃を構える。

これって、片手で持っても大丈夫だよな?


「……なんで追ってきた?」


部屋の中から、男の声がした。

扉が開かなかった。

しばらく沈黙が続いた。


「出てくるつもりはないのか。話がしたい。」


僕が声をかけた。


「お前が撃たないと約束するなら、出てもいい。」

「約束はできない。」


また沈黙。

それから、扉がゆっくり開いた。

男がマスクを外しながら出てきた。

三十代後半だろうか。疲れた目をしていた。

昨夜、暗がりの中で見た顔と同じだった。


「銃を下ろせ。」

「お前が先に下ろせ。」


子供の喧嘩のようなやりとりでも、緊張感が違う。

お互いに銃は降ろさない。

当然だ。そのまま男との距離を保った。


「なぜ攻撃に参加しなかった。」


男は少し笑った。


「ダン・ベルンは、今日死ぬはずだった。でもどうやら手違いが起きてな。自然には死んでくれないらしい。そこで、直接手を下すつもりだったんだが……。魔法使い相手じゃどうにも分が悪い。」

「……それで離脱したのか。」

「あぁ、部下には悪いが、作戦をもう一度組み直す必要があるからな。」


——ダン・ベルンは、今日死ぬはずだった。


その一言が、どうにも引っかかる。

まるで、リアに爆弾が仕組んであるのも含めて、全部分かっていたとも言いたげだ。


「お前は、いったいなんなんだ?」

「なんだと言われてもな…。所属でいえばバイオストーンに当たる。」

「バイオストーン?ここヴェーラを起点とする企業だよな?」

「そうだな。」

「なんで、ダン・ベルンを殺す必要がある?」


——パンパンパン!


突如、男は前触れもなく発砲した。

鉛玉は魔術防壁に弾かれる。


「——っくそ!」


油断していたわけではなかった。

奢りもなかった。

しかし、相手は僕の自覚していない隙を的確について来た。


とっさに、先ほど男がいた暗がりに身を隠す。

先程とは逆の形となった。


「魔術防壁?こんなに小さいサイズは見たこともないな。なるほど。先程の銃撃の中から追ってこれたのはそういうタネがあったわけだ。」


隠れてから、そのまま銃を打ち返せば良かったと後悔した。

どうも、引き金を引くという選択肢が咄嗟に出てこない。

端末のライトを消して、机の下へと身を隠す。


「なぜ、ダン・ベルンを殺す必要があるかと聞いたな?」


相手は、拳銃をリロードしながら部屋へと足を踏み入れる。

長時間暗がりにいたからか、大分目がなれてきた。

どうやら、そのまま逃げる気はないようだ。

こちらとしては都合がいい。


「ダンは、アルカナのスパイだと判断された。本人に自覚はないかもしれないがな。」


本人に自覚のないスパイ?そんなことがあり得るのだろうか。


——パン!


僕が思考に潜るのを見越してか、男はあたりをつけてこちらへ発砲した。

でも、無駄だ。こちらには防壁が——


——パリーン!


「………………は?」


思わず声が漏れる。

魔術防壁は、いとも簡単に崩れ去る。


——パン!


二発目の発砲音。

まずい!

僕は咄嗟に廊下へ飛び出し、向かい側の別の部屋へと移動した。


「うーん。人のことを言えた口ではないが、こういうことは初めてか?魔術防壁を一時的に無効化する弾丸があってもおかしくはないだろう。それに発砲もしてこない。これではジリ貧だぞ。」


挑発とも取れる言葉にも反応する余裕がない。


——打たれた。


二発目の弾丸が、左肩を貫通していた。

呼吸が浅くなる、痛いというよりも熱い。

温かい液体が体を伝う。

キツイのは痛みよりも吐き気。

視界がぐらつき、せり上がる嘔吐物を無理やり抑え込む。

落ち着け。落ち着け。落ち着け!落ち着け!


「ふぅ。もういい。鬼ごっこにも飽きた。先程の魔法使いがいつ来るかも分からないし、終わりにさせてもらう。」


ゆっくりと、廊下に入り男がこちらへと近づいてくる。

ダメだ。

このままではあいつの言う通りジリ貧だ。

考えろ。使えるものは、拳銃、端末、魔力バッテリー。

考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。


——IDさえ紐づければ、本人の近くで起動するはずだ。


いつの、誰の言葉だったか。

咄嗟に思い出した。

端末を起動しアラームをセット、地面をすべらせる。


この世界の常識も、何も分からない。

分の悪い賭け。だが、今はこれに賭けるしかない。


男が部屋に足を踏み入れた瞬間。

僕とは反対側にある端末のアラームが起動する。


「——っ。」


男は、咄嗟にアラームの方へ銃口を向けた。

ドンピシャリ、だ。


僕は、こちらに背中を向けている男へ発砲した。


——パンパパン!


二つ銃声がランダムに重なった。

男はその場で崩れ落ちた。


「ふー。ふー。ふー。」


やっと呼吸ができる。

バレないように。

ただそれだけを考えていたが、無意識に呼吸を止めていたらしい。

視界がチカチカする。


「……。あの端末、魔力バッテリー駆動か?なるほど・・・。」


男はなにかに納得したようだった。


「ストーンウェア駆動であれば、あそこまで距離が離れていれば稼働はできない。そこを逆手にとったのか?考えたな。」

「なぜ、こんなことをしている。」


男の質問に答える気はない。

というか答えられない。そこまで細かく考えが巡っていたわけじゃない。

行き当たりばったりで掴んだ勝利だった。


男は少し間を置いた。

脇腹を抑えている。どうやら、そこに命中したらしい。

よくよく見れば足や肩にも命中していた。


「他に選択肢がないだけさ。バイオストーンに所属している以上、ある程度の地位まであがったら命令は絶対だ。逆らえない。逆らえば家族が危険にさらされる。仕事を続ければ、家族は守られる。それだけだ。」


ベルン家のアイラを思い出す。

追い詰められた人間が、別の誰かを追い詰める側に回る。

この世界はそういう仕組みで動いているのだろうか。


「家族がいるのか。」

「妻と、息子が二人。もう、会えないかもな……。」


男は静かに言った。


「お前に、頼みがある。」

「何だよ?」

「殺さないでくれ。頼む。俺が死んだら、家族が——」


その言葉が終わる前だった。

男の手が動いた。

床に置いたはずの銃を、素早く拾い上げる。


「——っ!」


僕は、迷うことなく引き金を引いた。

引けた。


一発。二発。


男は、横たわった。







動かない。

部屋の中が静かだった。 自分の呼吸だけが聞こえた。


——痛い。寒い。震える。


手が、震えていた。

男に近づいた。 恐る恐る。一歩ずつ。

男は動かなかった。 頭から血が流れていた。


——頭に穴が、空いていた。


手の震えが一層強くなる。


僕が、殺した?

頭では分かっている。 奴が銃を向けてきた。

撃たなければ自分が死んでいた。 それは分かっている。

でも体が、理解を拒否しているような感覚があった。


吐き気が一層強くなる。


「——っ!ぅえぇ!」


横を向き、嘔吐する。

限界だった。


「ふー。ふー。ふー。」


呼吸は相変わらず整えられない。

男の顔を見た。 マスクを外した顔。

昨夜、暗がりの中でこちらを見ていた顔。


——あのとき、気のせいじゃなかった。


エルナに伝えておけば、もっと違う展開があったかもしれない。

何か手が打てたかもしれない。


そんな余裕はなかった、と言い訳したい。

でも実際は——甘かったんだ。

やっぱり、僕はまだ甘い。


妻と息子が二人。

男が言った言葉が、頭の中で繰り返された。

この人の家族は、今日帰ってこない父親を待っているのだろうか。

分からない。 これ以上分かりたくない。


建物の外からは、もう音がしない。 戦闘はすでに終わっていたのだろうか。

いつから止んでいたのかも分からない。

それよりも、今は心臓の音がうるさい。


今は立ち上がらなければ。 動かなければ。

それだけを思って、足を動かした。







エルナは、倉庫前の路地に立っていた。


エリナの前には、一面の氷が広がっていた。

その中に工作員の姿もある。全員氷漬けにされていた。


——すげぇ。


素直に感服した。

僕が一人の工作員とすったもんだしている間に、この人数を無傷で撃退。

エルナは息一つ乱してはいなかった。


ダンがリアを抱えて、エルナの後ろに立っていた。

どちらも、怪我はなさそうだ。


「遅かったわね!」


少しテンションの高いエルナがこちらを見た。

戦闘で高揚している表情が一瞬で変わった。


「……ジュディ。肩。」

「あ、うん。ちょっとね。」

「ちょっとじゃないわ。なんで先に言わないのよ。」


エルナが早足で近づいてくる。

肩に触れようとした手を、思わず引いた。


「大丈夫。歩ける。」

「歩けると、大丈夫なのは別の話よ。」


エルナは有無を言わさず肩を確認した。

眉間に皺が寄っている。


「貫通はしている。後で処置するわ。今は動かさないで。」

「了解っス。先輩」

「……。」


なんか言ってよ。

今は気休めでも、エルナの軽口が聞きたい気分だった。


リアがこちらに駆け寄ってきた。

僕の肩を見て、顔が青くなった。


「ジュディ……。」

「大丈夫だよ。かすり傷みたいなもんだ。」


嘘だ。

でもリアには、これ以上心配させたくなかった。


「……始末したの?」


エルナが静かに聞いた。


「……うん。殺してしまった。」


その言葉が、自分の口から出るのが不思議な感じがした。


「……そう。行くわよ。」


歩き出すエルナの後を、黙ってついていった。

リアが僕の左側に並んだ。 何も言わずに、手を握ってきた。


小さくて、温かい手だった。







モーテルのバーに着くと、バーのおじさんが何も言わずに水を四つ出してくれた。

肩を見て一瞬だけ顔を曇らせたが、何も聞かなかった。

この人はやっぱり気がきく。


ダンへの軽い挨拶も早々に、エルナが肩の処置を始めた。

鞄から取り出した道具で、手際よく肩を固定していく。


「痛って~~。」

「我慢しなさい。」

「これ麻酔とかないの?」

「あるけど。それだと体の半身が動かなくなるわ。我慢しなさい。」


リアが横で心配そうに見ていた。

ダンも、黙って見ていた。


「終わり。しばらく動かさないでね。」


エルナが処置を終えて、手を拭いた。


「動かさないって、どのくらい?」

「一週間は無理ね。」

「一週間……。回復魔術とか、そういうのないの?ヒールみたいな?」

「ヒール?踏まれたいの?」

「なんでだよ。その発想が怖いよ。」

「ちなみに回復魔術なんてものはないわよ。医療魔術はあるけどね。」


ないのか。残念。

この世界はファンタジーなようで、ちょいちょい都合が悪い。

色々と支障が出そうだが、今はそれより先に話すことがある。

そのまま、エルナが口を開いた。


「今回のことを整理するわ。」


ダンがこちらを見た。

疲れた目だったが、受け入れる準備ができているような目だった。


「ダン。あなたは元々はアルカナの人間、今は出向という形でバイオストーンに勤めている。ここまでは、間違いないわね?」

「はい。元々ヴェーラに来たのもそれが理由ですし。」

「そうよね……。ジュディ。」

「はい?」

「あなたが『対処』した工作員からは、何か話は聞いていない?」

「えっと~。少し待ってくださいね。」


思わず敬語になる。

先程のことなのに、どうにも記憶が曖昧だ。

体が思い出すことを拒否しているみたいだった。


「確か、『ダンは、アルカナのスパイ。本人に自覚はないけど。』みたいなことを言っていたな。」

「やっぱりね。」


エルナは何かを確信したようだ。


「ダン。あなたはヴェーラの企業内部にいながら、知らず知らずのうちにアルカナに情報を抜かれていた。あなたの体内のストーンウェアが、通信機能を持っていたのよ。」


ダンの顔が、固まった。


「アルカナはヴェーラで実権を握るバイオストーンの情報を探っていた。あなたはそのための道具として使われていたんじゃない?もちろん、あなたは氷山の一角で他にもそんな人はいるだろうけど。」

「……知らなかった。」

「でしょうね。あなたが知っていたとしたら、襲撃時にもっと何かしらの反応があるはずだもの。演技が達者という線も捨てきれないけど。」

「……エルナ。」


エルナを静止する。

子供の前で、あまり質の悪い冗談を言うものじゃない。

こほんっ、咳払いをしてエルナは続けた。


「今日の工作員はバイオストーン所属だった。あなたがカルディアに帰ろうとしていることを察知して、情報漏洩を防ぐために動いたってところかしら。」

「……カルディアには、戻れないということですか。」

「いえ、そうは言っていないわ。ただ、バイオストーンにとってはここにいたほうが都合いいでしょうね。今日みたいなことが起こらない保証はないけど。」

「待てよ。バイオストーンは今日、ダンさんを殺そうとしたんだ。僕はここにいるほうが危ないと思うけど。」

「だからって、カルディアに戻ることが安全だとも限らないわ。アルカナにとっては、バイオストーンのつばのかかった逆スパイと疑われる可能性だってあるし。」


なら八方塞がりじゃないか。

どちらにしても、ダンに安寧は来ないことになる。


「そもそもよ。」


エルナがダンを見て声をかける。


「アイラへの仕送りが減っていること。あなたがカルディアへ帰る準備をしていたこと。それぞれ何も納得いってないの。きちんと説明してくれる?」

「妻、アイラからは何も聞いていないんですか?」

「聞いていないわね。そもそも知らないようだったけど。」

「そんなはずはない!毎月の定期便で検閲済みのメッセージを送っていたはずです。」

「……アルカナか。バイオストーンか。どちらかが握りつぶしてるわね。今回は後者かしら。」

「で、結局仕送りを減らしていた原因はなんなんですか?」


僕はせっかちなのだろうか。

どうにも今回の解決策が見えなくて焦るのを止められない。


「そちらのエルナさんが言うように、カルディアへ戻るための資金を貯めていたんですよ。今は出向という形でも、ある程度の上納金をアルカナに支払えば、働く場所は選択できますので。」


上納金。

企業で使うことばとしては、まず使われない言葉だ。

なんだか、この世界の企業は、なんというかマフィア的な感覚が強い気がするな。

物騒だ。


「じゃあ、やっぱり。エルナの仮説は正しかったってことかな?」

「そうね。形はどうあれ、ダンがアルカナに戻ることがバイオストーンのタブーだった。すでに情報は抜かれているんだけどね。」

「つまり、ダンさんも家族のために動いていただけなんですよね?」

「もちろんです!他に何があるっていうんですか!どちらも愛している。だからこそ、一緒にいたいと思うのは当然でしょう?」


分かる。

その気持ちは痛いほど分かるよダンさん。

ズッ友になろう。ダンさん。

僕は目頭が熱くなるを感じた。

そんな僕を横目にエルナが話を続ける。


「ここまでは、分かったわ。あとは今後の話ね。」


今後の話。いよいよ本題だ。

エルナには、何か考えがあるのだろうか。


「ダン。あなた、アルカナをやめてバイオストーンに入りなさい。出向という形ではなく、正式に入社するの。」

「ちょちょちょ、ちょっと待って。ちょっと待って。エルナ。」

「あによ。うるさいわね。」

「自分を殺そうとした企業に、正式に入社するの?それは、なんというか。どうなの?」

「どうもこうも。今ある選択肢の中では、これしかないってくらいよ。」


え?これしかないの?

自分を殺そうした企業に入るのが最善の選択肢。

背水の陣どころじゃない。一面泥沼の陣なんだけど。


「————それはありですね。とう言うか、それしか選択肢がない。」


俯いていたダンが、声をあげる。

え?ありなの?

なんでなの?


ふと、リアの方を見る。

何も分からないというように、ストローを指でつついて遊んでいた。

可愛い。安心する。


「子供見て現実逃避してんじゃないわよ。」

「だって、分かんないんだもん。」

「子供になってんじゃないわよ……。きちんと説明するから。」


エルナ優しい。手間かけてごめんね。


「はぁ~。バイオストーンは、なぜダンを殺そうとしたの?」

「それは、アルカナに戻られるのが嫌だったからだろ?」


——あ。


ふと気づく、逆に言えばバイオストーンを離れない確約さえ得られれば、ダンを殺す理由はなくなる。

いや、むしろダンは元々アルカナの社員だ。逆にアルカナ側に持つツテや知識を重宝されるかもしれない。

ある意味、寝返るという形でバイオストーンの信用を得られれば、問題はなくなる。


「エルナ。」

「なによ。」

「君って、地頭いいんだね。」

「素直に頭いいんだね。でいいんじゃない?そこは。」

「でも、そうなった場合に、今度はアルカナ側に狙われる可能性はないか?」

「ねぇ。今なんで無視したの?……正直あるわよ。でもここは、バイオストーンのテリトリーであるヴェーラ。おいそれと手出しはできないわ。」


なるほど。

これ以上ないとは言えないが、なかなかに硬い選択だと思う。

でも……。


「でも、問題もある。」

「……そうね。ダン。」


エルナの空気がかわった。

ダンも、それをなんとなく察したのだろう。

姿勢をそれとなく正してした。


「——はい。」

「アイラと二度と会えなくなる覚悟はある?」

ダンは目を閉じた。



………………。

…………。

……。




長い沈黙だった。

それから、ゆっくり目を開けた。 リアを見た。

リアが、父親を見上げていた。


「——この子のために生きると、決めています。」


ダンの声は、静かだった。


「カルディアに戻れなくとも。アイラと会えなくなるとしても。私はそれを曲げるつもりはない。」

「……そう。」


エルナは短く答えた。

おそらく、ダンの中では即答だった。

今の長い沈黙は事実を受け入れる時間だったのだと確信する。


「なら、まず今夜の身の振り方を考えましょう。ここにも長くはいられない。そして——」


エルナが僕を見た。


「アイラを交えての話し合いも、必要ね。明日、アイラに連絡を入れるわ。」


僕は頷いた。

ダンが、静かに口を開いた。


「……アイラが、何かしたんですか。」


エルナと目が合った。 どこまで話すか。

でも、ダンには知る権利がある。


「明日、直接話しましょう。それが一番だと思う。」


ダンは、少し間を置いてから頷いた。


「……分かりました。」


リアが、父親の手をぎゅっと握った。

ダンは、リアの頭に手を置いた。


僕は黙って、その場面を見ていた。

手の震えは、いつの間にか止まっていた。

でも、胸の奥に何かが残っていた。


ダンは今、娘のために生きると言った。

帰れなくとも、会えなくなるとしても。

それでも、この子のために。


僕が「必ず帰る」と思い続けているのと、同じ場所から来ている言葉だと思った。

でも向いている方向が、違う。


帰ることと、留まること。

どちらが正しいのかなんて、分からない。


ただ、ダンの目は澄んでいた。

今日殺した工作員も、同じ目をしていた。

家族のために、と言っていた。


でも、あの男は死んだ。

誰かのために生きようとした人間が、

誰かのために生きようとした人間に殺された。


それが、この世界だった。

エルナが言っていた。

この世界は、あなたが思っているより、ずっと残酷よ、と。


今日、初めてその意味が分かった気がした。


「ジュディ。」


エルナが呼んだ。


「ん。」

「今夜はちゃんと寝なさい。肩も痛むでしょうし。明日は別の意味で正念場だろうから。」


それだけ言って、エルナは窓の外を見た。

僕も窓の外を見た。 ヴェーラの夜の水面が、静かに揺れていた。


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