1 部屋とドアとその向こう
初めての小説です。少しでも面白く読めるものをご提供できれば幸いです。
夏の残暑もいつの間にか去り、カーテンを揺らす風が金木犀の香りを運んでくる。
そんな季節の頃だった。
夕暮れから天気はぐずつき、夜半には大粒の雨が乾いた地面を濡らしていた。
遠くから聞こえる季節外れの雷が夜の静寂を破り、大気を揺らす。
董子は机に頬づえをつき、なんとはなしに外を眺めていた。
雨の音は嫌いじゃないが、自転車通学をしている身としては、朝までには止んで欲しいな、とも思う。
気を取り直して、窓に向けていた視線を机のテキストに戻した。
こういう雰囲気のある夜はベッドに本を持ち込んで、ゆったりと秋の夜長を楽しみたいところなんだが、試験が目前だ。
レポートは書いたが、週明けに控えているは、厳しい事で有名な憲法論。
何もせずテストに臨むのは不本意だし、ましてや不可をくらって面倒な科目をもう一回受講するのは、勘弁願いたい。何より肉体的にも、精神的にも非効率この上ない。
ペン回しをしながら、判例集を広げ、出そうなものに付箋をつけていく。
(私人間効力に参照できる判例はこれで、政教分離に関してはこっちかな…)
などと、キーワードを拾い上げて頭に叩き込み、整理していく。
椅子の上で軽く伸びをし、ちょうど目に入った時計の針は、午前1時にさしかかるところだった。
思っていたより時間が経っている。自覚すれば、口からデカイ欠伸が漏れた。
「いっぺんにやるとさすがにきっついなあぁぁ」
机の明かりがやたら眩しい。霞む目を軽く擦って、瞬かせる。
欠伸ついでに独り言を呟けば、咽喉が渇いているのを感じた。
「お水飲んでから寝よ…」
よっと、軽く勢いをつけて立ち上がる。
そうして、部屋のドアノブに手をかけた。音が響きやすい安普請のアパートな上、夜も遅い。狭いキッチンへつながるドアをそっと開けた。
が。
ドアを開けたら、したかったことなぞ綺麗さっぱり脳裏から飛んだ。
理由は目の前の事態を把握するのに精一杯だったから。
だってそれ位、視界に入る風景は、突拍子がなさ過ぎた。
ドアの向こうは、飴色をしたフローリングの廊下と小さなキッチンがあるはずだった。
間違いなく、今まではそうだった。
だが現在あるのは、まるでシュールレアリスムの画家が描いたような風景だった。
どこまでも続いていそうな水の連なり。
滔々と水を湛え、遥か彼方に水平線を見せている。
その色は、富良野で見た花盛りのラベンダー畑と同じ色をしていた。
空は漆黒という言葉がしっくりくる、濃く塗り重ねたような黒。
そしてその空には砂金を撒き散らしたように満天の光が瞬いていた。
さらにその空には、白銀に輝く月と、青銅色の月。
二つの衛星が穏やかな光を広がる海原に投げかけていた。
「何、これ…? あたし、夢でも見てんの…?」
そう呟いて、反射的にドアを閉じようとした。『臭いものには蓋を』という心理だったのかもしれない。
だが、握っていたはずのドアノブは掴むことは叶わなかった。それどころか確か数秒前まであったドアすら、消え失せている。
今あるのは、自分の後ろにある、いつもの勉強部屋と、壁に浮かぶ四角く切り取られたこの風景だけだった。
どれくらいその風景の前で呆けていたのか。
董子は、自分がお間抜けなことに、口を開けたままだと気付いた。
意識して、肺に息を吸い込む。ゆっくり吐き出す。
そうすると、一旦停止状態だった感覚が徐々に戻ってきた。
驚愕、そして困惑といった感情がゆるゆると身体を包む。
確認するかのように、もう一度疑問を声に出す。
「何、なのよ…これ? 夢なら上等だけどさ…?」
ここはお決まりのことをしてみようと、おもむろに自分の頬を思いっきりつねってみる。
「い、痛い……」
気前よく捻りすぎて、思わず頬を撫でる。
このような場合、思わずパニックに陥って半狂乱になって叫ぶというのがデフォルトだろうか。別にそういったことをしてみても良かったが、大声を出したらこの風景が掻き消えてしまうかもしれない。それは惜しかった。最初に湧き上がった多くの疑問符と、まだ入り乱れている感情をなだめると、持ち前の好奇心が表に顔を出す。折角、めったにお目にかかれない経験をしているようなのだから、これを楽しまない手はない!というものだ。
月の光を受け、部屋にラベンダーの光が洩れている。それが、この風景にわずかばかりの現実味を加味していた。
おそるおそるではあったが、手を伸ばす。
未知の風景に少―し触れてみたいと思うのは、至極当然の欲求だと思う。
触れるか触れないか、だったろうか。
伸ばした指先は、衝撃で弾き返された。
あまりに激しかったので、董子は痛みと言うより火傷をしたかのような感覚に襲われた。
「―っつぅ…! 何なのよもうっ…!!」
手を引っ込めて目をかたく瞑り、悪態をつく。向こうを睨もうとして、凍りつく。
さすがに自分の頭と視力を疑いたい。
なぜかって?
目前にラベンダー色の海はなかった。かと言って、フローリングの廊下もない。
やはりそこに広がっているのは見たこともない景色だったから。
あおあおと繁る葉も、奥が見通せないくらい幾重にも連なる木々も、そこが深い森の中だと否が応にも主張している。
だが明らかに自分の世界のものじゃない。
こんな森があればグレートバリアリーフにも負けない観光名所になっている。
木の幹は染め抜いたように白く、大の大人が五人がかりでその幹を抱えたとしても、到底その太さには及ばないだろう。
高さも、「天を突く」という形容詞はこういういう様を表すのに使うべきだと思うほどだ。
風に揺れる葉も、緑というより群青に近く、向こうが透けて見えるほど薄い。
上を見れば、重なり合う葉が空と溶け合って透かし模様を描いている。
足元は落ちた葉がそこかしこに積もり、その間に覗く地面にはセルリアンブルーのふかふかした苔が生えている。
腰ほどの高さの潅木も、薄紫の葉を繁らせ、金粉を散らしたように小さな花をつけている。
美しい森だった。
「綺麗…」
引き込まれるように見入ってしまう。一度ならず二度までも、へんてこな状況に放り込まれているが、両方ともその美しさは素晴らしいんだから仕方ない。
先ほどの事も踏まえ、ぎりぎりのところまで手は出さず顔を近づける。
近づけば音が聞こえてくることに驚いた。梢を揺らす音や何か小さい生き物の気配や足音。
おそらく高い位置から響く鳴き声。
調和の取れた美しい音が広がっている。
ぽとりと落ちた水滴が美しい波紋を描くように。
だが、それにまじって董子の耳には「なにか」が聞こえた。
最初は聞き違いかと思ったが、その音は徐々にはっきりしていく。
整った楽譜にまざった不協和音。
そんな音だ。
美しい世界を形作る音を覆い隠し、被さるように空気を震わせるその音にどうしようもない違和感、さらに不快さと嫌悪をおぼえてしまう。
なんでそんな事を思うのか。
そう考えることすら儘ならないうちに「なにか」は強く大きくなり、響きを更に乱していく。
もはや大音量となった流れ込む「なにか」に頭が割れそうだ。
波打つような痛みに堪えきれず、その場にしゃがみこむ。
痛みはひどくなる一方で、かたく瞑った目尻に涙が滲むのが分かった。
( い や だ 、こ れ 以 上 聞 き た く な い ―――!)
なりふり構っていられなかった。
「やめて、止めて――!!」
声を張り上げた刹那。目を閉じていても瞼を焼く白い光があった。
***
どれくらい経ってだろう。
吐き気をもよおすほどの頭痛がふっと止んだ。
もともと頭痛持ちだが、あれほどひどいものは初めてだ。
苦痛で滲んだ視界を、瞬きを繰り返すことで取り戻す。
しかし周囲が目に映ったその時点で、自分の精神が耐え切れずブラックアウトするのが分かった。
よくよく考えたら寝る前だった。
疲れてもいた。
倒れこむ場所は、きっと柔らかいんだろうな。
さきほど見たセルリアンブルーの苔の上だから。
なんてことを薄れゆく意識で考える。
頭痛が止んでも、ちっとも嬉しくない。
今いる場所が先ほどまで見ていた風景と一緒だなんて――――
全く、カケラたりとも、嬉しくなんかないんだから―――――