9話 名前
拓人に渡すはずだったお弁当を抱え、西園寺邸まで戻ってきたしおりを瑞希は玄関口で優しく出迎えた。
「……お弁当、間に合わなかったかしら?」
瑞希の問いかけに、しおりはうまく言葉が出なかった。
「……いえ、校門の前で会えはしたんですが、その……」
だが、その言葉だけで瑞希は何があったかを察したようで、微笑みの中に幾ばくかの後悔を滲ませた。
「雪村さん、ごめんなさい。あなたは何も悪くないわ。今日のことは拓人によく言っておくから……お詫びに、お昼はそのお弁当を召し上がっていただけないかしら?」
拓人に合わせて作ったから少し量が多いかもしれないけれど、美味しいわよ、と瑞希は少し冗談めかして笑った。
「はい、お力になれなくてすみませんでした」
しおりはそのままダイニングに戻って朝食の残りを片付けると、部屋へと戻った。
瑞希の言っていた通り、お弁当は素朴ながらどれも丁寧な味がして、ほっと一息つけた。そういえばもう何年も自炊ばかりで、誰かが作ってくれた食事をいただくこと自体、この家に来て以来だなとぼんやり考えていると、
「雪村様、少し宜しいでしょうか」
部屋の扉がノックされ、柊が扉の隙間から小さく顔を覗かせた。
「柊さん? どうしたの?」
柊は一瞬目を伏せた後、淡々と話し始める。
「本日の家庭教師のお時間ですが……拓人様の都合により、キャンセルとなりました。また、明日からしばらくは瑞希様ではなく、私が帯同することとなりました」
「……はい」
「では、失礼致します」
柊はそのまま扉を閉じて部屋を離れていった。
「……今日のキャンセル……偶然、じゃないよね」
瑞希さんがこのタイミングで帯同しなくなったのも、しおりには偶然とは思えなかった。考えても仕方のないことだと思いつつも、それらは小さな棘のようにしおりの心に残り続けた。
そして、しおりは拓人や瑞希と言葉を交わすことなく――次の日の家庭教師の時間を迎える。
「……」
しおりはいつも通り、必要な教材を拓人の机の上にドスンと置いた。
その音がやけに大きく響いたように、しおりには聞こえた。
柊はというと、瑞希のようにベッドサイドで腰掛けることなく、部屋の入口の側で静かに佇んでいる。
拓人は机の方へ身体を向けたまま、しおりと視線と合わせようとしなかった。
沈黙と静寂が、しおりの身体を強張らせる。
「……始めよっか」
しおりは無理やり言葉を吐いたが、今日はどの書籍のどの頁を開けばいいか分からなかった。拓人が興味を抱いた定理や公式の物語も、うまく説明できる自信がなかった。
……どうしよう、どうすればいい。
しおりが焦りで拳を固く握りしめた、その時だった。
「……ごめん」
不器用な謝罪の言葉を、拓人は口にする。
「……え?」
「昨日のこと、謝りたくて」
それから、拓人はしおりを見上げて視線を合わせた。
「先生は、何も悪くなかった。先生は母さんにお願いされて、弁当を届けにきてくれたんだよね。それなのに冷たい態度をとってしまったから……だから、ごめん」
「……うん」
「……どうしても、耐えられなかったんだ。僕は……生まれた時から、西園寺だから」
その言葉の意味をしおりは考えようとして。
しおりの後ろから、柊が声をかけた。
「拓人様……私は一度部屋を出て、扉のすぐ側で待機しようと思います。雪村様も、それで宜しいでしょうか」
「え……あ、はい」
柊の唐突な物言いに、しおりは反射的な返事しかできなかった。拓人と同じ部屋で二人きりになるのは少し不安だったが、柊は出任せを言うような人ではない。自分との約束を少し曲げてでも何かしら気を使ってくれたのだろうと、しおりは納得することにした。
「ありがとう。柊は、昔から優しいね」
「……恐縮です」
拓人と短いやり取りを交わし、柊が退室する。
それから、拓人はゆっくりと胸の内を話し始めた。
「先生も知ってるとは思うけど……父は、製薬事業を手掛ける西園寺グループのトップを務めてる。テレビのコマーシャルでもよく流れてるみたいだし、ほとんどの人が西園寺グループのことを知っている……そういう家に、僕は生まれてきたんだ」
ただ淡々と、拓人は話しながら手元のノートをめくり始める。
「父が、すごく優れた人なのはよく分かってる。西園寺という名前を背負って、巨大なグループのトップを務めて。あの人には、それに足るだけの力があることは疑いようがない……でも僕には、父のような圧倒的な力も、多くの人を動かせるような才能もない。そんな自分が、西園寺という名前に対してどう向き合えばいいか……分からない」
手元のノートをめくり終えると、拓人は静かに前を見据えた。
「僕が通っている高校は、一流の進学校とか富豪の子息が集まるようなところじゃない。そういう学校で僕みたいな存在は、僕が望む望まないに関わらず西園寺の跡取り、という目で常に見られる。僕が自分の名前をどう思っていようが関係ないんだ」
しおりは彼の話を聞いて……彼の抱えている思いが、自分と似ていることに気付いた。
雪村しおりという名前は、メディアにとっては飛び級の天才という記号として持て囃されてきた。そのイメージは本人の意思とは関係なく偶像のようにひとりでに歩き出し、知らない誰かの心の中で育っていくのだ。そのことをしおりはよく分かっていた。
「だから先生。僕は、周りに自分が西園寺なんだと意識させることをしたくない。たとえそれが、弁当を届けてもらうなんて些細なことだとしても。あいつは西園寺だから特別扱いされている……そういう目で見られるようなことはしたくないし、されたくないんだ」
「……うん、話してくれてありがとう」
それからしおりは、拓人に軽く微笑みかけた。
「私もね。あんまり詳しいことは言えないけど、ちょっとその気持ち、分かるよ」
「……そうなんだ。初めての授業の時から先生は普通じゃないなとは思ってたけど。いつか先生の話も聞かせてほしいな」
「うん、いつかね」
そして、しおりは今日の授業のために用意した書籍に改めて目を落とした。
「……どうする? このまま授業始めてもいい?」
しおりの言葉に、拓人は少し考える素振りを見せた後、一つの提案をする。
「もう少しだけ、先生には僕の話を聞いてほしい。今日は課外授業ってことで、庭園に来てほしいんだ」
「課外授業?」
しおりが首を捻ると、拓人は少し悪戯っぽく笑ってみせた。
「そう。別に僕の部屋だけが家庭教師をする場所の全てじゃないでしょ? たまには外に出てさ。駄目かな?」
「……課外授業なら、今日持ってきた書籍は使わないってことね?」
そういうこと、と拓人は微笑んで立ち上がった。
そして扉を開け、すぐ近くで待機していた柊に声をかける。
「柊。今日の残りの時間は庭園で教えてもらうことになったから、先生と外に出てくるよ。柊も他の仕事に戻ってほしい」
拓人の言葉を受けて柊の瞳が僅かに揺れたように、しおりには見えた。
それから、柊はしおりを見据える。
「……宜しいのですね?」
「はい。もう、大丈夫だと思います」
「承知致しました。では、失礼致します」
完璧な使用人たる所作と共に、柊は一礼して二人の元を離れていった。