8話 拒絶
しおりの朝食は、拓人や瑞希たちが食べ終わったのと入れ替わりで済ませていることが多かった。宗一郎はほとんど家を空けているようで、最初の日以来は姿を見かけていない。
今日もいつものように柊に声をかけ、一人で朝食を済ませる予定のしおりだったが――
「……あれ?」
ダイニングルームの中央テーブルには瑞希が座っており、何やら物憂げな表情を浮かべていた。
「瑞希さん、おはようございます。珍しいですね」
しおりが声をかけると、瑞希はしおりの気配に気付いたようで柔和な笑顔を見せる。
「あら、雪村さん。気がつかなくてごめんなさいね」
「……私の気のせいかもしれないですけど、何かあったんでしょうか?」
席について柊が朝食を整えてくれることに感謝しつつ、しおりは遠慮がちに訊ねた。
「そんなに深刻なことではないのだけど……そうね、雪村さんになら話してもいいかもしれないわね。朝ごはんを食べながら聞いてもらえるかしら?」
そう言うと、瑞希は膝元に置いてあった何かを机の上に置いて見せる。
「それは……」
緋色の巾着に包まれたお弁当箱、だった。誰のものなのかはしおりにもすぐ想像がついた。
「ええ、拓人にいつも持たせているんです。ただ昨日はあの子、遅くまで何かに取り組んでいたみたいで寝不足だったようで」
どうやら持っていくのを忘れてしまった、ということのようだとしおりは理解した。
「でも、今でしたらまだ拓人さんも出掛けて間もない時間ですよね? 誰かが追いかければ学校に着くまでには渡せそうですけど」
「……そうね、そうなんですけど」
瑞希の返答は曖昧で歯切れが悪かった。しおりは焼きたてのパンの香りに癒されつつも、ここから一歩踏み込んでよいのか躊躇ってしまう。
しばらく言うべきことを考える仕草を見せて、瑞希は口を開いた。
「あの子はきっと……他の人の目がある通学路でそういったことをされるの、すごく嫌がると思うの」
「……?」
瑞希の言葉の意味が、しおりにはあまり腑に落ちなかった。お弁当を忘れたことを誰かに見られるのが恥ずかしいとか、そういう意味なのだろうか?
瑞希は何かを言いかけようとして、思い付いたことがあったようにぽんと手を合わせた。
「……こんなことを雪村さんに頼むのは気が引けるのだけど」
瑞希は拓人と同じ光を宿した瞳を、しおりへとまっすぐ向けた。
「私たちの代わりに、届けてもらえないかしら? もしかしたら雪村さんだったら、あの子も嫌がらずに受け取ってくれる……そんな気がするの」
瑞希の意外な申し出に、しおりは食べかけていたパンを喉につまらせそうになる。
「……んぐ、わ、私なんかでいいんですか?」
「ええ、最近ではうまく家庭教師をやっていただいてるし、あの子も雪村さんに少し心を開いているように見えるから」
真剣な様子で、瑞希は弁当箱をしおりの方へと移動させた。
「朝ごはんの途中にこんなことを頼んで、本当にごめんなさい。もし拓人を見つけられなかったら、そのまま戻ってきていただいて構わないですから」
瑞希たちは駄目で自分が届けるなら大丈夫かも、という論理の理由がしおりには分からなかった。それでも、しおりはこの機会を逃したくないと思った。
「……できる限りやってみます。急ぎだと思うので今から準備して――あ、でも私この辺りの土地勘が全然なくて……」
「家から学校までは一本道になってるから、迷うことはないと思うわ。雪村さんが準備している間に簡単な地図を用意しておくから、心配しないで」
「……わかりました!」
コップの水を一気飲みすると、しおりは着替えのため駆け足で部屋へと戻った。
しおりは免許を持っていないので、納屋にあった自転車を借りて走らせていた。服装は西園寺家に来た時に着ていたコーデと伊達メガネ。メイクは時間がなかったので省略していた。
あの日もこの格好であれば誰かに気づかれることはなかったので、今日も大丈夫だろうとしおりは外に出る不安な気持ちを無理やり納得させていた。
「……確かに、これなら迷うことはなさそう」
地図を見ながら坂を下って交差点を曲がると、あとは学校まで一本道のようだった。通学時間ということもあり、拓人と同じ制服を着た高校生たちが多く登校している。
自転車で彼らを追い抜きながら、拓人の姿がないかしおりは慎重に探していった。
「……いない。もう少しで学校着いちゃうな」
間に合わなかったかもしれないとしおりが諦めかけていると、学校の校門が目の前に見えてくる。
そして……ちょうど校門を通過しようとしている、拓人らしき人物の後ろ姿をしおりは捉えた。
「拓人!」
ブレーキを踏み、自転車のカゴに入れてあったお弁当を携え、しおりは拓人に近づいた。
「……? 先生?」
拓人は驚きと、訝しげな視線と共にしおりを認識した。そういえば最初に出会った時も同じ格好をしていたことをしおりは思い出す。
「これ、受け取って」
しおりは巾着の結び目を掴んでお弁当を拓人に差し出した。
「……」
拓人はしおりが差し出したものが何であるかをすぐに理解した様子だったが、すぐに辺りを見回した。
登校時間の校門前ということもあり、二人は道行く生徒から好奇の目線を集め始めていた。
拓人は俯きがちになると、絞り出すようにして言葉を返す。
「……悪いけど、いらない」
「……え?」
「昼は購買で買うから……もう二度と、こんなことしないで」
それだけ言い残すと、拓人はしおりに背中を向けて校舎へと走り出していった。
「……えっ、拓人……?」
――どうして?
遠ざかっていく背中に、かけるべき言葉が浮かばなかった。
単に恥ずかしいというだけで、あの拓人がこんなに明確に拒否するとは思えない。
家庭教師として、少しは拓人と良い関係になれてきたと思っていたけれど……それは自分だけだったのだろうか。
「……っ」
証明問題を通じて彼の世界に触れて、彼が何に躓いているのかを理解して……心のどこかで彼のことを分かった気になっていた。でも、それは大きな勘違いだったみたいだ。
彼は一体、何を抱えているのだろう。
本当はどんな気持ちで、あの絵を描いているのだろう。
しおりは立ち尽くしたまま拭えない疑問について考えを巡らせる。
しかし、納得する答えを見つけることはできなかった。
校門の前で立ち尽くすしおりを遠巻きに眺める、一人の女生徒がいた。
「……あのおねーさん、どこかで……あ、この前駅で落とし物してた人だ。あの少し独特のコーデ、好きなのかな」
女生徒は首を捻りつつ、ポニーテールを左右に揺らしながら一人でブツブツと呟き始める。
「……西園寺くんと何やら話してたよね。どういう関係なんだろ、あの人……お弁当持ってたし、結構親しそうだった。お姉さん? それともまさか……彼女さん? にしてはちょっと年上っぽいけど……西園寺くんってそういう人がタイプなのかな。うーん、それはまずいなー……」
よし、と女生徒は拳を握り締めた。
「どうなるかは分からないけど……やるしかないよ、夏川茜」
自分に言い聞かせるように、女生徒――夏川茜は決意を込めて校舎へと歩き始めた。