7話 対話
それからしおりは、拓人の家庭教師の時間を二回、三回と受け持った。
書籍の山を広げて拓人が詰まっている箇所をしおりは適切にフォローした、つもりだった。しかし拓人の問題を解く手は進まなかった。
始めは微笑んで見守っていた瑞希も、三回目の時間が終わる頃には少し心配そうな表情を見せるようになった。
そして、四回目の家庭教師の時間で事件は起こった。
しおりが西園寺家にやってきて、一週間が経とうとした頃のことだった。
拓人は口に出して覚えようとしていた公式の音読を、不意に止めた。
「……」
「……拓人?」
喉が詰まったわけでも、疲れたわけでもなさそうだった。
そしてぽつりと、彼は思いを零した。
「……先生の授業、受けたくない」
「……っ!」
しおりの顔は青ざめ、思わず瑞希の方を見て中断するべきかどうか伺ってしまう。瑞希は静かに首を横に振り、しおりへ続けるように促した。
このままでは家庭教師が続けられなくなる、という焦りは勿論あった。
だがそれ以上にしおりは、彼が何に苦しんでいるのかをきちんと知りたいと思った。それは目の前の証明問題ではない、もっと別のところに原因がある気がしたのだ。
しおりが彼について知っていることと言えば、一つしかなかった。そこに賭けよう、としおりは決心した。
「……分かった、拓人。公式を口に出して読むのは、もうやめよう」
それから、しおりは机の上に広げていた書籍の頁を全て閉じた。
「私が初めてこの家に来た日にさ、拓人はペチュニアのスケッチを描いていたよね。あれ、私はすごく上手だと思った。どういうことを考えて描いてるのか、教えてほしいな」
一瞬、拓人は何を聞かれているのか理解できなかったのか、ぽかんと固まった。
そして、不安そうな面持ちで瑞希の方へと視線を投げる。
「……」
瑞希は優しい微笑みと共に、ただ、静かに頷いた。
大丈夫だと判断したのか、拓人はしおりへと向き直る。
「……全然数学と関係ないけど、いいの?」
「うん。今は拓人の話を聞かせてほしい」
しおりの言葉に、拓人は何を話すべきかしばらく思考した後、ゆっくりと話し始めた。
「……花には季節がある。一番綺麗な姿を見られる時期は花によって決まってるから、今の時期はペチュニアを描きたいと思った」
「うん」
「せっかくパーゴラっていうガーデンフレームが周りにあるから、絵画のフレームみたいな構図にしたいと思った。その中でペチュニアが静かにこちらへ話しかけてくれるような雰囲気を出したいって思ったんだ」
「……色んなことを考えてるんだね、一枚の絵に」
しおりは、拓人の絵が彼なりの思想に基づいて描かれているのだと理解した。
「大したことじゃないよ。それに数学の証明問題とは関係ないでしょ?」
「ううん、そんなことないよ」
そしてしおりは机の上の書籍から一つを手に取り、頁を開く。
そこには公式ではなく、数学の始まり――証明という概念がどのように発明されたのかが記述されていた。
「今でも諸説あるんだけど、紀元前にアテネのヒポクラテスって人が証明という概念を生み出したって言われてるの。英語圏で円を四角にするってことわざがあるんだけど、知ってる?」
拓人は首を横に振った。
「簡単に言うと、不可能なことを考える人を揶揄する意味でね、円と同じ大きさの四角を人の手で作るなんて不可能だよって。今でこそちゃんと証明されてるけど、彼が生きていた当時はそれが本当かどうか分からなかった。そういう状況の中で彼は、ヒポクラテスの三日月って呼ばれる美しい定理を導いたの」
しおりはいくつの頁をめくり、直角三角形と二つの三日月が描かれた頁を出した。
「直線で描かれた三角形と二つの三日月。これが同じ面積なんだって彼は証明したの。円を四角にはできなかったけど、彼は新しい事実を発見した。一見不可能に思えるようなことから、新しい事実を導いて積み重ねていく……それが証明の世界だって、私は思ってる」
そして、しおりは拓人へ向き直った。
「拓人が一つの絵に色んな意図や思いを込めて作っているように、証明問題も歴史の積み重ねで成り立ってるの。公式はその結果だけを切り取ってるから、もしかしたら近寄りがたくて不気味に見えるかもしれない。でも、その公式がどうして導かれたのかが分かれば、苦手意識も減るんじゃないかな?」
しおりは拓人の本棚に美術史年表が置かれていることを思い出していた。拓人はきっと、自分が取り組んでいることがどのような歴史を辿ってきたのか、それを知りたいのではないかと考えたのだ。
拓人はしばらくしおりの言葉を自分の中で納得させようと、目の前の定理を見つめ続けた。
「……うん。確かに証明の定理がどう導かれたのかは、ちゃんと理解しようとしてなかったかもしれない」
「定理や公式は便利だからね。よし、それなら今日からは……色んな証明で登場する定理や公式がどういう歴史の中で出てきたのか、可能な限り追ってみようか」
しおりの言葉に、拓人は少し安心したような表情を浮かべる。
瑞希もうまくいく予感がしたのか、二人の後ろでどこかほっとした様子だった。
「それじゃ、今日はここまでだね」
しおりは部屋の時計を見て、広げていた書籍を全て閉じる。
結局、今日の授業はよく登場する定理や公式の成り立ちを追いかけるだけで、問題は一つも解かなかった。
しかし、拓人は満足そうな顔をしていた。
「これで少し証明問題が解けるような気がするよ。ありがとう……先生」
「……っ!」
初めて拓人に先生と呼ばれ、しおりは心の中で小さくガッツポーズした。
「よかったわね、拓人。雪村さんも、ありがとうございます」
瑞希に軽く頭を下げられ、しおりは恐縮してしまう。
「い、いえ、なかなかうまく教えられなくてご心配をおかけしました……」
「今日は二人ともすごく頑張ってたから、お菓子もたくさんあるわよ」
そう言って、瑞希は後ろ手に隠していた小包装のクッキーやマドレーヌを広げてみせた。
「わ、すごい」
「拓人もたまにはゆっくり食べていったらどう?」
瑞希の問いかけに拓人は少し考えて、
「……そうだね、たまにはいいかも。次の習い事の先生には後で謝っておくよ」
お菓子に手を伸ばし、次々に食べ始めた。
「あら、珍しいわね。お腹がすいてたの?」
「ちょっとね」
十六歳の高校生らしい拓人の食欲の旺盛さに、瑞希は息子を見守る母の眼差しを浮かべていた。
しおりはその様子を和やかに見つめつつ、長く会えていない両親のことを思い出して少しだけ寂しい気持ちになった。
この家に来る前までは落ち着いたら手紙を書こうと考えていたが、忙しさにかまけてすっかり忘れていた。
「雪村さんもいかが? 今日も柊さんのお手製よ」
「あ、いただきます!」
取り留めのない思考を中断し、しおりはお菓子に舌鼓を打つ。
「美味しい! 柊さん、また腕を上げていませんか?」
「あら、雪村さんもそう思う?」
長らく交わせていなかった、なんでもない穏やかな会話。
こんな時間がいつまでも続いてほしいと、しおりは密かに願うのだった。