5話 美しい夢
西園寺一家と囲んだ夕食のあと、しおりは書庫を訪れていた。
「……やっとこの家の、スケール感に慣れてきたというか」
書庫、という名は伊達ではなく、万をゆうに超えるであろう本が整然と書架に立て掛けられている。それでも、わずかに漂う紙やインクの匂いが、この広大な空間に対してしおりに親近感を与えた。
「教える科目は数学って聞いてるから……」
学校の教科書や参考書が置いてありそうな場所をしおりは探した。
「この辺かな」
緩やかな秩序にしたがって区分けされた本の中から目的地にたどり着くと、しおりは本をピックアップしていった。全体的に少し古い書籍が多いが、新しいものも一定数ある印象だった。しおりはその中から有用なものを手元に引き抜いていく。
「……ちょっと、懐かしいな」
しおりは大学に入る前の頃を思い出していた。飛び級で同じ学校にいなかったので友達は作れなかったが、あの頃はひたすら勉強して知らないことを吸収していくだけで気持ちが充実していた。
大学に入ってから全てがおかしくなった気がする。きっと、あの男にさえ出会わなければ――
しおりはそれ以上考えるのをやめようと小さく首を振る。そしてため息をつくと、部屋で読み直すための本を抱えながら書庫を後にした。
その日の就寝は、初めての授業の準備で真夜中を過ぎた頃になってしまった。
院生として鷹倉研に入ったしおりが最初にお願いされたのは、研究室のホームページで大きく紹介するための写真撮影だった。
『あの、教授。そういうのは私、ちょっと……』
『雪村君。君の力は君が思っている以上に凄いんだよ。君の写真と名前をホームページに載せるだけで研究費獲得の機会がさらに増える。入ったばかりの院生でこんなことは普通あり得ない、素晴らしいことなんだ。勿論、無理強いはしたくない。でも解ってくれないか』
鷹倉の熱弁に説得され、しおりは渋々受け入れた。
度々メディアの取材や出演申し込みが届き、対応しなければならないことがあった。機関誌やジャーナルのインタビュー、報道番組の小さな特集など名目は様々だったが、しおりはそのうち相手が期待していそうなことを察して喋るようにした。そうすれば余計なことを考えなくて済むからだった。
『雪村さん。最初は俺の研究を手伝ってもらうよう教授から言われてるんだ。君がいるなら心強いよ。これからよろしくな』
そんな中、一つ上の先輩はしおりを何かと気にかけてくれて、しおりが話せる数少ない相手だった。
そして三ヶ月後、先輩と関わった初めての共著論文で、しおりはアイディアの発端となる重要な貢献を果たす。しかし論文の著者としての名前は記載されなかった。
『教授……この論文、私の名前が抜けているようなんですが』
喫煙室で煙草を燻らせていた鷹倉に、しおりは論文の草稿を携えて訊ねた。
『ああ、それは抜けてるんじゃなくてね……悪かった、説明していなかったね。研究室に戻ってから詳しく話そう』
鷹倉が研究室の自室でしおりに説明したのは「研究者間の対立を避けるため」ということだった。
あまり早期に論文を発表すると、しおりのような世に名が知られた人物は他の研究者からやっかみなどの攻撃を受けかねない、だから始めは名前を敢えて載せないことで無用なトラブルを避け、長期的なキャリアを築けるという話だった。
『他の研究室でそういった事例が過去にあって、その学生は精神的ショックで大学を去ってしまったんだ。雪村君、私は君にそんな下らないことで研究者の道を諦めてほしくない。私は君を守りたいんだ。どうか今回の論文だけは解ってくれないか』
そう鷹倉は熱弁した。
しかし、これはゴーストオーサーシップと呼ばれる非倫理的行為だった。しおりも知識としては把握していたが、鷹倉の主張も理に適っているように思えて。
しおりは、それを言い出すことができなかった。
『……雪村さん。本当にごめん』
先輩は、ただ謝るばかりだった。
彼が鷹倉の意向を最初から知っていたのかどうか、今ではもう分からない。
「……最悪」
しおりが目覚めると、寝汗で寝巻きはじっとりとしていた。予備の服に着替えつつ、ふと部屋の壁掛け時計を見た。
「……まだちょっと、起きるには早いけど」
大きな窓の外を見ると、日が昇り始めるかどうかといった様子だった。そういえばと、しおりは思い出す。昨日この家を訪れたときに立派な庭園が広がっていたが、昨日は余裕がなくてゆっくり見て回る時間が取れなかった。
このまま二度寝しても夢見が悪そうだ。なら、朝の散歩がてら庭園を見て回るのも悪くないだろう。
しおりはそう思って、軽く水を飲んでから庭園へ向かった。
「……やっぱり、すごいな」
穏やかな朝日に照らされた視界いっぱいの植物たちが、生き生きと花を、葉を広げている。その光景はどこか非現実的に思えるほど、圧巻だった。
「……この牡丹、ちょっと水で濡れてる。夜に雨が降った形跡はなかったし、誰かが水やりしたのかな?」
庭園を散策していたしおりは、一つの花の前で立ち止まった。
その花はカンパニュラといい、ピンクや紫など色とりどりの、小さな鈴のような花弁を見せていた。
「……かわいいな」
しおりがほう、と息を漏らすと。
遠くの垣根を挟んだところから、葉がこすれる音が聞こえた。
「?」
しおりは音のした方に視線を向けるが、垣根の上に人影は見えなかった――正確には、その人物は垣根に隠れてしおりからはよく見えなかった。
子供か何かだろうか? としおりは一瞬考えたが、垣根の隙間からちらりと見えた人影を見て、
「……おじいさん?」
腰の曲がった老人が庭作業をしている。淡緑色の作業服に身を包んだ彼は、枝バサミを持って生け垣の剪定をしているようだった。
やがて、老人はくるりとしおりの方を向いて――その存在に気付いたようだった。
「見ない顔だな、小娘」
第一声はややしゃがれていたが、不思議とよく通った。しおりは緊張しながらも何とか言葉を紡ぐ。
「あ……私、この家の家庭教師としてやってきた、雪村しおりといいます」
「ふん……」
しおりの自己紹介に老人はただ鼻を鳴らし、そのまま沈黙した。気難しそうな印象ではあったが、彼は作業の手を止めていた。
どこか自分の言葉を待っているように、しおりには思えた。
「……あの、おじいさんは庭師の方ですか? このカンパニュラ、すごく調和が取れてて素敵ですね。周りの静謐なギボウシ、威厳のある芍薬とは違った趣があって」
「……花が、分かるのか」
老人はしおりの言葉に少し興味を惹かれたようだった。
「はい。両親は有名な植物学者で、色んな珍しい植物の話をよくしてもらってました」
「そうか」
老人は素っ気ない返事と共に、また押し黙ってしまう。
「……あの……」
名前が分からず、どう呼んだらいいだろうか。
悩みと共にしおりが言葉を止めると、老人は枝バサミを持ったまま、静かにしおりの方まで移動していく。
そして、しおりと並ぶ形ではあるものの、やや離れた位置に立った彼は、ゆっくりと名乗りを上げた。
「……皆からは、花じいと呼ばれとる。この庭園と、書庫の管理を任されておる」
深い皺に、細い目と豊かな白い髭を顎周りに蓄えた花じいは、表情が読みにくい老人だった。
「そうだったんですね。書庫の方も、昨日からお世話になっています」
花じいはしおりの言葉に答えることなく、会話が途切れる。ただ二人で、静かにカンパニュラを眺める。
何か、言わなくては。
妙な焦りに囚われたしおりは、変なことを口走ってしまった。
「あの……花じいって、なんか鼻血みたいですね」
「なんだと」
「す、すみません間違えました」
そんなことを言いたいんじゃなかった。
小さく息を吸って、しおりは単純な疑問を口にする。
「……花じいにとって、花ってどんな存在ですか?」
肌をくすぐるような風が木々のざわめきを起こし、草花がたおやかに揺れる時間が流れる。
聞こえていなかったか、無視されたか。
しおりが返答を諦めようとすると、花じいは静かに口を開いた。
「花とは、美しい夢だ」
それは、この気難しそうな老人が語る言葉としては、思った以上にロマンチック過ぎて。
しおりはどう答えていいか困ってしまった。
「わしはまだ作業が残っておる。この庭は好きに見ていけ」
そう言い残して、花じいは元の生け垣の方へと去っていった。