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4話 団欒

「こちらが雪村様のお部屋となります」

 柊の案内でしおりが部屋の扉を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。

 そこはまるで上質なホテルの一室のようだった。必要最低限の家具――大きなベッドと、クローゼット、そして一つの書斎机――以外にはほとんど何もない。

 しかし、その一つ一つが選んだ人間の確かな美意識を感じさせる、選び抜かれた品であることは彼女にもすぐに分かった。

 部屋の中央に位置する、キングサイズはあろうかという大きなベッドのフレームは、華美な装飾のないウォールナットの木材が使われたシンプルなデザインだった。そこに設えられた純白のリネンのベッドシーツは見るからに肌触りが良さそうで、しおりはこのベッドならどんな状態でもぐっすり眠れそうだと思った。

 そして何よりもしおりの心を惹きつけたのは、部屋の大きな窓から見える、あの広大な庭園の景色だった。

 少し遠目ではあるが、一枚の美しい絵画のように切り取られた緑と、色とりどりの花々が目に飛び込んでくる。

 今日まで過ごしていたワンルームとはあまりにもかけ離れた、穏やかで、そして清浄な空気にしおりはただ圧倒された。

「お気に召していただけましたか?」

 荷物を部屋に運び入れつつ、柊はしおりの様子を気にしていた。

「……はい、でも私なんかが使っていいのかなって。逆に気後れしちゃいます」

 自分には勿体ない、としおりは目の前の光景がただ眩しかった。

 そのうち慣れますと柊は言葉を返すと、この後のスケジュール等を説明し始める。

「宗一郎様もおっしゃっていましたが、本日は皆様との夕食にご参加下さい」

「皆様、というのは……宗一郎さんと、拓人さん?」

「拓人様の母君である瑞希みずき様も、いらっしゃるはずです」

 つまり、宗一郎の妻ということかとしおりは得心し、宗一郎のように厳格な人だと苦手かもしれないとも思った。

「今後、拓人様の家庭教師を務めていただくにあたり、書籍が必要になるかと思います。当家には書庫があるのでそちらをお使い下さい。出入りは自由です。書庫にない本で何かご入用の場合は、わたくしにお申し付け下さい」

「書庫……」

 ちょっとした図書館のようなものだろうか、としおりは想像した。

 確かにこの屋敷の大きさならそういう場所もあるのだろう。夕食の後に訪れてみよう。

「何かご質問はございますか?」

「……質問というより、お願いがあるんですが」

 しおりが拓人の家庭教師をすると分かってから、ずっと不安に思っていることがあった。

「はい」

「……拓人さんに教える時は……その、拓人さんのお部屋で、二人きりになるんでしょうか? であれば……柊さんか、どなたかに一緒にいてほしくて……」

 しおりの遠慮がちな言葉を、柊はじっと藍色の瞳でしおりを見つめながら静かに聞いていた。

 そして、柊は目を軽く閉じると、再び目を開けてしおりを真っ直ぐに捉える。

「……そうですね。暫くはわたくしか、瑞希様に帯同いただくように調整致しましょう」

「すみません……ありがとうございます」

「他にはございますか?」

 しおりは静かに首を横に振った。

「では、わたくしは仕事に戻りますので、夕食のお時間までお寛ぎ下さいませ……と、失礼」

 何か柊は思い出したようで、衣装の裾に手を入れて仕舞っていたものを取り出した。

「手前味噌ですが、わたくし、菓子作りを趣味にしております。昼間に焼き上げたものですが、よろしければどうぞ」

 柊はニコリともしなかったが、ラッピングで包装された一口大のクッキーはハート型の可愛らしい姿をしている。

 その表情とのギャップに、しおりは少し惹かれた。

「あ、ありがとうございます。ちょっとお腹空いてたので、それじゃ遠慮なく」

 しおりは柊の手からクッキーを受取り、包みを解いてさっそく齧りついた。

「……美味しい」

 素材の良さも勿論だが、どこまでも滑らかな口当たりが作り手の真面目な性格を感じさせる一品だった。

「気に入っていただけて良かったです。では、わたくしはこれで」

 一礼し、柊は部屋を去っていく。

 甘いものを食べて、しおりは少し気分がほぐれたような気がした。


 食事を囲むダイニングルームは、しおりが想像していたよりもずっとこぢんまりとして、温かみのある空間だった。

 城の晩餐会で使われるような長いテーブルではない。部屋の中央に置かれているのは、おそらく六人掛けであろう木製の四角いテーブル。その表面はアイボリーのテーブルクロスで綺麗に覆われている。

 天井から低く吊るされたペンダントライトの柔らかな光を受けて、テーブルに並べられたシルバーのカトラリーやガラスのコップが、それぞれ控えめでありながら、確かな輝きを放っている。

 椅子もまたテーブルと同じ木製で、その座面と背もたれにはクリーム色の上質な布地が張られていた。

 部屋の大きな窓からは夕暮れの光が落ち、部屋全体を緩やかに照らしている。壁には余計な装飾はなく、ただ一基、年代物のサイドボードが静かに置かれているだけだ。

 西園寺一家の三人としおりが夕食の席につくと、しおりの向かい側に座った女性が口を開いた。

「はじめまして、雪村さん。宗一郎さんの妻の瑞希です。これから拓人のこと、よろしくお願いしますね」

「は、はい。よろしくお願いします」

 しおりは瑞希の声がけに少し緊張気味に答える。その理由は二つあった。

 一つ目は、瑞希の人柄だった。厳格な宗一郎とは対称的に、瑞希はこの家を支える大地の如く、慈愛の眼差しに溢れた穏やかな女性だった。しなやかな黒髪は僅かにウェーブがかかり肩下へと落ちている。そしてその目は、自分の隣に座る拓人と同じ目をしているとしおりは思った。

 そして二つ目は、夕食として並ぶ料理の数々だった。

 家の大きさから抱くイメージとは異なり、決して奇をてらった食材や派手な彩りの料理ではない。しかし、それぞれの皿からは丁寧に手をかけられたことが伝わってくる温かい湯気が立ち上っている。

 まずしおりの目を引いたのは、深緑色の美しいスープだった。

「そのポタージュが気になるかしら?」

 しおりの視線に気付いたのか、瑞希は優しく問いかけた。

「あ、はい……」

「こちらは、庭園の横にあるハーブ園で摘んだクレソンを使っているの。もし苦手でなければ一口どうかしら?」

「ご、ご自宅で栽培されてるんですね。あの、私、嫌いなものはないので何でも食べられます。では……戴きます」

 三人の視線を集めつつ、しおりはポタージュを匙ですくって、ゆっくりと口に運んだ。

「……! いい香り……!」

 クレソン特有の清々しい香りがしおりの鼻腔を抜ける。そしておそらく炒めたナッツだろうか、後味に香ばしさがふわりと広がった。

「気に入っていただけて良かったわ。食事の調理は使用人の方に任せているのだけど、レシピは私が考えているの。では、戴きましょうか」

 瑞希の合図と共に、全員が戴きますと手を合わせて夕食が始まった。

「宗一郎さん、こうして一緒に夕食を囲むのは久しぶりね」

「……ああ、今日は雪村さんに挨拶したくて時間を空けてきた」

 宗一郎は瑞希へ淡々と返事する。

 しかし決して食事を急ぐ様子はなく、この夕食をきちんと味わおうとしているようだった。

 メインの魚料理は淡白な白身魚のポワレだったが、ただ焼いただけではない。皮目はパリッと香ばしく身はふっくらと柔らかい。添えられたソースは焦がしバターに細かく刻んだハーブと檸檬の皮が加えられており、シンプルながらも奥深い味わいだった。

「そうだ、雪村さん。柊さんから先ほどお聞きした話ですけれど、明日のお仕事の時間は私が拓人の傍にいますね」

「あ……ありがとうございます、瑞希さん」

「……母さん、どういうこと?」

 それまで黙々と食事を進めていた拓人が、疑問と共に顔を上げる。

「雪村さんは今日この家に来たばかりで、家庭教師とはいえ、いきなりあなたと二人きりにするのはお互い気まずいでしょう? だから、しばらくは私か柊さんが傍にいることにしたの」

「……分かった。僕も別に構わないよ」

 そう言って、拓人は食卓の中央に置かれた、大きなガラスボウルに残っていたサラダを取り分け始めた。レタスやトマトといった定番の野菜に加え、珍しい紫色の葉物野菜や、薄くスライスされた色とりどりのカブが目を引く。

「どうぞ」

 全員分のサラダが取り分けられ、しおりの分も渡されてきた。

「あ、ありがとう」

 しおりは皿を受取り、サラダを早速口に運ぶ。自家製のドレッシングだろうか、蜂蜜の優しい甘さとリンゴ酢の爽やかな酸味が絶妙なバランスだった。

 料理に舌鼓を打ちつつも、しおりは宗一郎と拓人の距離感が気になっていた。先ほどの庭園での会話以上に、この食卓で二人が言葉を交わす様子はない。

 しおりには、お互い何か理由があって距離を置いているように思えた。

 こうして、夕食の時間は静かに過ぎていった。

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