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2話 邂逅

『十二歳で大学入学だなんて君は才能の塊だ! 学部を出たら是非うちの研究室に来てくれないか?』

 しおりが大学に入学した直後、国内外含めていくつかの大学から研究室のオファーが来ていた。その中でも生命科学の世界的権威だった鷹倉たかくら教授は、何度も熱心にコンタクトをしてきた。

『うちはトップカンファの論文採択率も世界一だと自負してる。世知辛いようだけど、アカデミックの世界は論文業績が評価の全てだ。業績が悪化すれば共同研究の誘いが減る。すると研究予算が削られて自由に研究をできなくなる。私は学生にそんな窮屈な思いはさせたくないし、雪村君には最高の環境で才能を伸ばしてほしいんだ』

 アカデミックの世界には様々な学会があり、学会にもいわゆる「格」がある。最上位と言われるトップカンファほど論文を提出しても採択される確率が低い、つまり難関というわけだ。

 しおりは熱弁を振るう鷹倉のことを最初はあまり気にしていなかった。しかし度重なるコンタクトと彼の熱意に呑まれ、十五歳で学部を早期卒業する見込みが立った際に回答していた。

『わかりました、先生の研究室に進学させてください』

 もし彼の熱意の異常さを少しでも感じ取れていたら、適切なアドバイスを与えられる人が周りにいたら、しおりの将来は違った方向に進んでいたかもしれない。

 しかし彼女はあまりにも世間を知らなかったし、天才すぎるが故に孤立していた。もしくは鷹倉の話術が巧み過ぎたのかもしれない。


 これがしおりにとって二度と思い出したくない最悪の四年間の、始まりだった。


「…………」

 西園寺宗一郎から指定された日の当日は、害虫が全身を包み込むような目覚めだった。メールが送られてきてからの二日間、体調を整えたり部屋を整理したりなど、しおりは可能な限りのセルフケアをしたつもりだった。

「……やば、きもちわる……」

 それが悪夢一つで無に期したような感覚に襲われ、心が折れそうになる。

 しおりはブランケットにくるまりながら、呼吸を整えて天井を眺めながら吐き気が収まるのを待つ。

 あのメールを信じるべきなのか。

 しおりは二日間考え続けたが、明確な答えは出せなかった。しかし、一つだけ確実なことがあった。

――今の生活を、変えたい。

 あの日、久しぶりに日の光をきちんと浴びて、しおりは単純なことに気付いた。もうあの研究室には二度と行きたくなかったが、この部屋から出て他に行きたい場所なんてなかった。

 あのメールを信じるべきなのかは分からない。

 でも今の生活を変えたいのなら、何か行動するしかないのだ。

 ふぅ、と息を吐く。そして、しおりは数分もすれば動けるような状態に落ち着いていった。

 しおりは起き上がると、外に出るための準備を始める。軽くシャワーを浴びてご飯を食べて、それから通りいっぺんの身支度を整えて。

 一通り終えたところで、しおりはふと気づいた。

「……いつ、ここに帰るんだろ」

 万が一、奇跡的に住み込みの家庭教師をするなら、最寄り駅も遠いので当分帰ることはないだろう。失踪扱いされても色々困るし、簡単に書き置きしておこうとしおりは空き紙を手に取る。

 そして『しばらく家を空けます』とだけ書いた紙を机の上に置き、しおりは部屋のブレーカーを落として外に出た。


 履き慣れたスニーカーではなく艶を抑えた黒のローファーを履き、当座の荷物を詰め込んだキャリーケースを引いているため、しおりの歩みはいつもより遅かった。

 普通に歩いているだけのつもりでも、ふくらはぎがすぐに痛くなる。長い研究室生活と、最近は家から出ていなかったことによる体力の衰えもそれを助長していた。

 いつも研究室で白衣の下に着ていた洗いざらしのコットンシャツではなく、今日はとろみのあるアイボリーのシルクブラウスだ。襟元は控えめなボウタイ風のデザインで、それがしおりの知的な印象を一層引き立てていた。ボトムスは、チャコールグレーのセンタープレスが入ったワイドパンツ。上質なウールで織られた生地は歩くたびにしなやかな弧を描き、彼女の華奢な体つきをかえって際立たせていた。

 丸い伊達メガネの奥の目元にはアイラインとシャドーが引かれ、素顔とは異なる印象を与えていた。

――まさかこんな形で着ることになるとは。

 早く駅につきたい一心でしおりは歩き続けながらぼやく。彼女はメディア出演で度々プレゼントをもらう機会があり、中には自分では選ばないような服や靴などのファッショングッズということがあった。それらが自分にプレゼントされる意味もよく分からなかったが、捨てるのも勿体ないと放置していたものが自宅に溜まっていた。

 いま身に付けているのは、それらを組み合わせたものだった。雪村しおりであることをすれ違う人に悟られたくなく、普段着ない服装と伊達メガネでどうにか凌ごうという作戦である。

――誰かに声をかけられたら逃げよう。絶対に。

 久々の直射日光がしおりの体力を奪う。雑踏のざわめきが自分の噂話をしてるのではと不安を掻き立てる。途中何度かビルの影に隠れたりして休憩しつつ、しおりは少しずつ歩いていった。最寄り駅に着くまでは緊張で冷や汗が止まらなかった。

 しかし何事もなく電車に乗り、乗客がまばらになった頃には人の視線もさほど気にならなくなっていた。ゆるりと流れる車窓の風景を遠目に眺めつつ、しおりはワイドパンツのポケットに入れた電源オフのスマホにそっと触れる。

 スマホの着信音とバイブは嫌な記憶を蘇らせるので二度とごめんだった。ただ、両親が心配しているかもしれないからメッセージくらいは送りたい、という気持ちもあって持参してきてしまった。

 そこで気づく。別にスマホでなくとも、他の連絡手段はいくらでもあるのだ。色々落ち着いたら手紙でも書くとしよう。

 取り留めもないことを考えているうちに、しおりは宗一郎が指定した駅にあっけなく、およそ時間通りに到着していた。初めて来る小さな駅だったが、出口が一つしかなかったため迷うことはなかった。

「おねーさん」

 突如、後ろから声をかけられ、しおりはビクリと震えた。

「……は、」

 はい、と言おうとしてしおりは言葉がうまく出なかった。話しかけたのは制服姿の快活そうな女子で、しおりの知らない制服だったがおそらく高校生という出で立ちだった。サイドに髪をまとめ、少し日に焼けた肌が健康的な印象を出している。

「これ、落としましたよ」

 逃げ腰のしおりに少女が差し出したのは、スマホにつけていたストラップだった。大分昔に両親が買ってくれたもので、このタイミングでチェーンが切れたのだとしおりは寂しくなった。

「……あ、ありがとう」

「どういたしまして、それじゃ!」

 少女は足早に駅へと向かっていった。その背中を見つめながら、しおりはチェーンの切れたストラップをポケットに仕舞う。

――本当に来てしまった。

 これで本当に質の悪い悪戯で誰も迎えに来なかったら笑えるな、としおりは自嘲する。もしそうなったら、そのまま自宅に戻ってあの書き置きを見るのも癪だから軽く観光でもしていこう。近くのホテルに泊まって博物館でも見学しに行こうかな。でも人の多いところは正体がバレそうで嫌だな。あまり人気のないところなら正直どこでもいいかもしれない。

 ……なんで、こんなことになっちゃったんだろう。

 不意に涙が出そうになるのを、しおりはぐっと堪えた。今から人と会うかもしれないのに、久しぶりにしたメイクを泣いて崩すわけにはいかないから。

「雪村しおり様ですね」

 突如、影の中から女性の声がした。

「ひっ……!?」

 しおりが飛び退くと、まるで気配を感じさせない黒スーツ姿の女性がすぐ側に立っていた。年齢の頃はおそらく二十代で間違いないだろう。精巧な水晶細工のような藍色の瞳が、真っ直ぐしおりを見据えている。

「お間違い御座いませんか?」

「えっ……あっ、はい……そう、です」

 驚きに心臓を逸らせながら、しおりはしどろもどろに答えた。すると女性は淀みのない所作で優雅に礼をして見せる。

わたくしは西園寺家の使用人、ひいらぎと申します。向こうに車を停めておりますので、これから御案内させていただきます」

 柊と名乗る使用人は手荷物もお運びいたしますと、しおりのキャリーケースに手を掛けようとした。

「あ……あのっ、ちょっと待って、ください」

「……?」

 形の良い眉をひそめ、柊はしおりの言葉を待った。麗人、という言葉がこれほどまでにふさわしい女性も珍しい。モデルのような高めの身長、すっと上向いた鼻や小さく結ばれた唇、フォーマルさを醸し出す後頭部で括られた黒髪からは僅かに桂花の香りが漂っている。それは同じ女性のしおりから見ても魅力的な出で立ちであった。

「他に……私の他に来る人はいるんですか。それとも私で最後なんですか?」

「……申し訳ありませんが、仰っていることが判りかねます」

「だって、今日はかて」

わたくしは本日、雪村様をお迎えに上がるように、とだけ仰せつかっております」

 業務的な柊の言葉で、しおりが予期していた可能性の一つが崩れていく。他の人にも送っていると思われた家庭教師の招待は、どうやら自分だけのものだった。際限のない疑問がしおりの思考を混乱させていった。

「雪村様、宜しいですか?」

 現実に引き戻されたしおりは反射反応的に頷き、それを了承の意と見なした柊はしおりのキャリーケースを手に取った。きびきびと歩く柊の背中をしおりが追うと、黒塗りのワンボックスの車両が路肩に停まっていた。一見すると実用的な印象だが、近づくと分かる細部まで行き届いた手入れと、選び抜かれたであろうパーツの質感は、これがただのファミリーカーではないことを雄弁に物語っていた。

「どうぞ、中へ」

 柊に促されるまま、しおりは革張りの後部座席に乗り込んだ。後部トランクにしおりのキャリーケースが積み込まれると、柊は運転席に座りエンジンをかける。やがて車は静かで滑らかな走行音を鳴らし始めた。

「……」

「…………」

「………………」

 ……沈黙が、しおりの耳に突き刺さる。考えたいことがあるものの、この柊という使用人に色々聞きたい気持ちもあった。いくつかの疑問が形を成しては消えることを繰り返し、最初に浮かんだ謎を口にする。

「……あの、柊……さん、は」

「はい」

「どうして……すぐに私のことが分かったんですか? どこかで私の写真を見たんだと思いますけど、その、今は普段と全然違う格好をしてるつもりなのに」

 フロントミラーを見据え、ゆっくりとハンドルを切りながら柊は唇を開く。

「目です。目は口ほどに、という諺はご存知ですか」

 おずおずと首を縦に振るしおりに対し、柊は言葉を紡いだ。

「立場上、各界の一流と呼ばれる方々をご案内する機会がございます。皆、癖のある方ばかりですが彼らも人間です。腹の中で何を考えているかは目を観察するのが一番効果的でした」

「……そう、ですか」

 伊達メガネをつけて、普段しないメイクもして、しおりは自分の正体を、そして感情を、うまく隠していたつもりだった。

「大いなる不安、そして、僅かばかりの期待――わたくしの仕事は、そのような感情を目に宿した少女を探すだけでした」

 凄い人だ、としおりは感嘆した。

「もう一つ、いいですか。あの、西園寺さんのメールにあった家庭教師の話は本当なんですか? それなら私の家庭教師の相手って……」

「宗一郎様がどのような意図でご連絡をしたかは図りかねますが」

 市街の一般道を抜け、車は緩やかな坂道を登り始める。店舗や住宅が立ち並んでいた外の風景は、生い茂る新緑の木々へと徐々に変わっていった。

「おそらく御子息、拓人たくと様のことでしょう。詳しい話は宗一郎様からお聞き下さいませ」

 それ以降、車内の会話はなくなり――高くそびえる西洋風の門をくぐると車は緩やかに停止した。

「……本当に、来たんだ」

 降車し、門の横に刻まれた『西園寺』という大きな表札を見て。

 しおりは、これが現実の出来事なのだと受け入れるので精一杯だった。

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