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19話 強さ

 花図鑑作りが佳境とはいえ、しおりは家庭教師の仕事を放っておくわけにもいかなかった。

 最近では拓人の学習速度もかなり向上しており、書庫と自室を往復して新しい書籍を運ぶのも大事なしおりの日課になっていた。

 持ってきていた本を一度返して、また新しい本を借りに行かなくては。

 しおりが本を手に書庫の入口にやってきた、その時だった。

「雪村さん」

 柔らかな声に、しおりは呼び止められる。

「……瑞希さん。お久しぶりです」

 しおりが振り返ると、瑞希は少し申し訳無さそうな顔をした。

「ここのところ、家庭教師のお時間にご一緒できなくてごめんなさいね」

「あ、いえ」

 拓人にお弁当を届けた時の一件から、しおりは瑞希と顔を合わせることが出来ないでいた。

「そうだ。せっかくですし……雪村さん、この後お時間があるなら、一緒にお茶でもいかがかしら?」

 家庭教師の時間が終わった後に、一度お茶に誘われたことがあったのをしおりは思い出した。

 あの時は拓人と三人でという誘いだったけれど、花図鑑作りなどを経た今なら、瑞希さんと二人でも何か話せる気がする。

 しおりはそう考え、こくりと頷いた。

「はい、喜んで。では……一度この本を返してきますね」

 しおりは書庫に本を戻した後、瑞希の案内で彼女の部屋へと移動した。

「わ……すごい……」

 瑞希の部屋に足を踏み入れた瞬間、しおりの鼻腔をくすぐったのは――ラベンダーとカモミールが混じり合ったような優しく、そして心を落ち着かせるハーブの香りだった。

 リビングや拓人の部屋とはまた趣の異なる、非常にパーソナルな空間。そこは、アイボリーと柔らかなベージュを基調とした色合いで統一されている。壁に掛けられたタペストリーには、何かの樹をモチーフにした美しい刺繍が施されていた。

 壁際に置かれたアンティークのサイドボードの上には、家族の写真が飾られているだけで余計な装飾は一切ない。

「さあ、今お茶の準備をするから、そちらに座っていてもらえるかしら?」

 瑞希に促され、しおりは窓際のロッキングチェアに腰掛けた。そして壁際の大きな窓から見える景色に、しおりは吸い込まれそうになる。

 まるで一枚の巨大なタペストリーのように、あの広大な庭園の最も美しい部分が切り取られている。季節の花々が風に揺れる様や、木々の間から差し込む陽光の移ろいを、この部屋では一日中楽しむことができるのだろうとしおりは思った。

 傍らの小さなテーブルには一輪挿しの白いユリが置かれている。しおりの向かいにあるソファの傍らには、何冊かの詩集や画集が丁寧に重ねられていた。部屋の角にある小さな棚の上には彼女が趣味で集めているのであろう、様々な鳥の形をしたガラス細工が窓からの光を受けてキラキラと輝いている。

 部屋には季節の草花が活けられた、小さな花瓶があちこちに置かれていた。それらは決して高価な花ではない。庭の片隅に咲いているような何気ない花々。しかし、その一つ一つが凛とした姿のまま活けられている。

「お待たせしました、雪村さん。お茶を蒸らしている間に、お喋りをしましょうか」

 目の前のテーブルに瑞希の手で白磁のティーセットが広げられ、カップの中にお湯が注がれる。

 カップからふわりと広がる優雅な香りに、瑞希は蓋をして向かいのソファに腰掛けた。

「雪村さん。最近は家庭教師だけでなく、あの子のやりたいことに力を貸して頂いてるようで……本当にありがとうございます」

 瑞希は軽く会釈してみせたため、しおりも合わせて頭を下げた。

「雪村さんがあの子にお弁当を渡した際、あの子の繊細な部分に触れてしまったと思います。拓人からあなたに何か話をしたのかもしれませんが……今日は私からも、少しお話しようと思います」

 瑞希はソファに座り直して、姿勢を正した。緊張でしおりは少し身を固くする。

「昔、拓人は身体を動かすことが得意ではありませんでした。雪村さんはもうご存知かしら?」

「はい、少し前に拓人さんから直接話していただきました」

「そう」

 どこか嬉しそうな表情を浮かべた後、瑞希は話を続けた。

「今でこそ色んな武道を学んで身体を鍛えてますが、あの子は本当に昔、運動が苦手だったの」

 最初に出会った時、しおりは拓人に対してどこか儚く線の細い印象を受けた。しかし、不本意ながら彼に身体を支えてもらった時、その印象は消えていった。その理由が、しおりには少し分かった気がした。

「幼いあの子にとって、この庭園は世界の全てでした。でも宗一郎さんはそれを良しとしなかった。武道、華道、茶道……道とつくものはおよそ、あの子に学ばせたと思います」

 彼の生まれ持った個性は、きっとこの西園寺という家では個性とは見なされなかったのだろう。

 しおりは息を吸って、瑞希の言葉を待った。

「運動が苦手だったあの子は、武道なんて嫌だと何度も私に泣きつきました。お父さんは、どうしてこんなに厳しいの。そう問いかけるあの子に、私はただ優しく微笑むことしかできませんでした」

 瑞希は脇に置いていた詩集や画集の束をそっと、指先で撫でた。

「でも不思議なことに、嫌々続けていた武道のおかげなのか、あの子が苦手としていた運動が、少しずつできるようになっていったんです。それと共に、あの子は少しずつ強くなりました。ただ、あの子はとても優しい子です。いくら武道を極めて上達しても、それをあまり嬉しいとは思っていないようです。武道の大会で取った賞状よりも、自分が描いた花の絵を見せに来るような、そういう子なんです」

 それはしおりにもよく理解できた。拓人からは今まで一度も武道の話をされたことはなかった。

 彼の話題の中心にはいつもこの庭園と、花図鑑のみが存在しているように思えた。

「きっと、あの子は自分が身につけた強さを、自分のために使うのが嫌いなんでしょう。それでも鍛えた身体は、あの子が色々と学ぶのに役立っているみたいです」

 瑞希が話し終えると、しおりは一つ問いかけた。

「……拓人さんは、家の名前で悩んでいると聞きました。ただの家庭教師に過ぎない私が、何か言えるわけではないのですが……」

 その言葉に、瑞希はほんの少しだけ表情を強張らせた。

「……そうですね。仕方のないことだと思います。宗一郎さんはそのことについて何もあの子に言いませんし、あの子も私にその話をしたことはありません。ですが、意識せざるを得ないでしょうね」

 瑞希はしおりのカップにハーブティーを注いだ。少し申し訳ない気持ちを抱きつつ、その美しい所作にしおりは少し見とれた。

「でも、今の生き生きとしたあの子なら、そのことにもいつか答えを見つけるでしょう。それまで雪村さん、あなたが一緒にいてくれると嬉しいんですけどね」

「そ、そうでしょうか」

「そうよ」

 楽しげに瑞希は微笑んだ。

「これからも引き続き、拓人の家庭教師を頼みますね」

 その言葉に、しおりは深々と頭を下げた。

 しおりが少し前に倒れたことは瑞希も知っているはずだが、その事については何も触れなかった。それが彼女なりの優しさなのかもしれないと思いながら、しおりは瑞希に注いでもらったハーブティーに口をつける。

 とても気品のある、それでいてどこか懐かしい香りが口いっぱいに広がった。

 身体の隅々まで温かくなっていく感覚に、しおりは固まっていた気持ちが少しだけ楽になれた気がした。

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