18話 壁
しおりはフォトカバーの貼り付け作業を切り上げて学校から西園寺邸に戻り、その足でアトリエ部屋に向かった。
購入したスキャナーと印刷機はそちらに設置したと柊に教えてもらっていた。
「失礼します……って、おお……」
アトリエ部屋は以前来た時と様変わりしており、しおりは驚きを隠せない。
これまではアトリエの壁際に拓人が書いた絵が立てかけられていたが、それらは新設された大きなケースに収納されていた。その分空いたスペースにスキャナーや印刷機が設置され、カタカタと軽快な駆動音を立てている。
「おかえり、先生」
拓人は自分の描いた絵をスキャナーに取り込ませているようだった。
「ただいま。もうスキャナーとかの設定? は終わったの?」
「大体出来たよ。試し刷りしたものが印刷機に出てるから、見てもらえないかな」
しおりが印刷機に近づくと、色鮮やかな花の絵が映し出された紙が出力台に置かれている。紙の手触りと光沢感、色の発色の良さから普通の紙でないことはしおりにもすぐに分かった。
「始めに少し話したけど、アート紙に印刷してるんだ。思った以上に原画の雰囲気が出てて、これなら図鑑らしくなるんじゃないかなって」
印刷された絵を眺めるしおりに、拓人は少し誇らしげに語った。
「私もすごくいいと思う! 今日台紙にフォトカバーを貼り付けてたんだけど、これならピッタリ入ると思う。ちょっと試してみるね」
しおりは持ち帰ってきた台紙を取り出し、フォトカバー部分に印刷した絵の角を嵌め込む。
ピタリと、フォトカバーで留められた絵は台紙から浮き上がることなく、しかし四隅に手をかければ絵を折り曲げることなく外せるという按配になっていた。
「バッチリ嵌まったかも、拓人も見てもらえる?」
台紙を携え、しおりはスキャナーの前に座る拓人へ絵を嵌め込んだ台紙を手渡した。
しおりと同じく拓人も何度かフォトカバーから絵を外したり、嵌め直したりした後、満足そうに微笑む。
「……ありがとう、先生。イメージ通りだよ。あとは頁をめくったり絵を入れ替えたりした時に、フォトカバーが剥がれないようにしっかり接着すれば何の問題もないと思う」
「だね。今ちょうどそこをやってるから気を付けて作業してみる」
しおりが気合を入れる様子に、拓人はどこか見守るような微笑みを見せた。
「……な、なに?」
「いや、やっと編集長の顔をしてくれるようになったなって」
「そ、そう? 出来てるかな、私」
「大丈夫。出来てるよ」
力強く言い切る拓人に、しおりは少し首を傾げるのだった。
翌日の放課後、拓人は自宅で印刷してきたアート紙の一式を工作室に運んでいた。
「まだ全部は印刷しきれてないんだけどね」
そう言って、広げてみせた絵の数々に……一同は息を呑んだ。
「西園寺くんの絵、初めてちゃんと見たけど……なんというか、すごいね……」
「ああ。西園寺、お前こっち方面で食べていけるんじゃないか?」
口々に称賛する二人に拓人は少し照れた様子だった。
「ありがとう。ただの小さい頃からの趣味だよ」
しおりもそこへ、フォトカバーに絵を嵌めた台紙を取り出して並べた。
「昨日帰ってから試し刷りで早速試してみたんだ。ほら、ピッタリじゃない?」
しおりの言葉にいち早く反応したのは篠杜だった。拓人と同じように台紙と絵を何度か外し、嵌めたりといった所作を繰り返す。
「…………」
その様子を、茜はどこか遠くを見るような眼差しで見つめていた。
「やっぱ実物があると実感湧くなあ。ほら、茜も見てみろって」
「えっ……あ、うん」
茜は篠杜から手渡された台紙に対して、絵の縁を指でなぞるだけでフォトカバーから外そうとはしなかった。
「……うん、いいんじゃないかな」
しおりにはなぜか茜の元気が少しなさそうに見えたが、その理由は思い当たらなかった。
「僕はまだ印刷したい絵が結構残ってるから、家に戻るよ。台紙に絵を嵌めるのは先生に任せていいかな?」
「もちろん」
しおりが軽く親指を立ててみせると、拓人は小さく笑った。
「じゃあ、僕はこれで」
「あっ……」
茜は何かを言いかけようとする。それが、誰に向けられたものかは曖昧だった。
「え……っと、あはは、私が思ってたより絵の枚数がありそうだから、ちょっと台紙とフォトカバーが足りないかも」
それから、茜はしおりと拓人に一瞬視線を向けようとして……篠杜に視線を向けた。
「ごめんヒロ……代わりに買ってきてくれない?」
「お、俺が?」
「うん。えーと……今日あんまりお金持ってきてなくてさ……学校近くの文具屋に売ってるから。お願い」
どこか無理に絞り出したような茜の言葉に、篠杜は俺も作業があるんだが……と渋りつつも了承した。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ」
台紙とフォトカバーのサンプルを携えて、篠杜は西園寺と共に工作室を後にした。
工作室には、しおりと茜の二人が残される形になる。
「…………」
茜は無言でノートパソコンを広げると、表紙の装丁のデザインに戻ろうとした。
だが、茜は心ここにあらずといった様子だった。
目の前の作業とは別のことで原因があるように、しおりには思えて。
「……茜、なにかあったの?」
ふと、声をかけていた。
「…………」
しおりの声に、茜は手を止める。
表情は固く、いつもの明るい笑顔はなかった。
茜は、しおりと自分の手元を交互に見ることを何度か繰り返して。
それから嘆息と共にゆっくりと、口を開いた。
「……私さ、どうしていいかわかんなくなっちゃって」
「図鑑作り……のことじゃないんだよね」
「……うん、そう」
茜は机に肘をのせて手を組み、自分の額をそこに埋めた。
「図鑑作りが終わっちゃったらさ……もう、西園寺くんと話すきっかけがなくなっちゃうんだな、って思っちゃって」
拓人の名前が出てくることが、しおりには意外だった。
「そんなことないでしょ。茜はいつでも学校で会えるじゃない」
「会えるけど、でも違うの」
そこで茜は顔を上げた。
「私、先生が羨ましい。先生はきっと、私が知らない西園寺くんのことをたくさん知ってる。私が入り込めないような、大きいなにかがあるんだなって。単なる家庭教師と生徒っていう関係だけじゃない、なにかがあるんだってわかるの」
とん、と茜は組んでいた手を机に落として、しおりを真っ直ぐに見つめた。
「入学してからずっと西園寺くんのことが気になってた。御曹司だけど控えめで少し儚くて、どこかミステリアスで。そんな西園寺くんが先生と校門の前で話してるのを見た時、私、これってチャンスかもって思っちゃったんだ。それで、うまく口実を作って西園寺くんの家に潜り込んで……何か共通の話題を作れないかなって、探そうとしてたんだ」
出会った時に拾ってもらったスマホのキーホルダーのことを、しおりは思い出す。
落とし物を拾ったお返しに自分も一緒に授業を受けたいと、茜は半ば強引に時間を作っていた。
「……うん」
「ばかだよね。彼が花が好きで図鑑を作りたいって、それがわかって、ただ必死になってた。彼がどうしてそうしたいのか、一緒にいてもわからなかったし、彼も語らない……それを聞く勇気も、私にはないんだ」
茜の途切れがちな言葉に、しおりは困惑していた。
茜は拓人のことがおそらく好きで、本作りを口実に一緒にいる時間を作った。でも、それが終わったら、元の関係に戻ってしまうことを恐れているようだった。
それなら拓人に自分の気持ちを伝えるのが一番なのではないかと、しおりには思えた。
「茜はさ……拓人に告白とか、しないの?」
しおりが不意に放った言葉に、茜の頬が一瞬で朱に染まる。
「できないよ! だって……っ」
茜はハッと一度手で口を押さえた後、静かに肩を落とした。
「……だって、相手は御曹司で、私はちょっと人より元気が取り柄なだけの、普通の女の子なんだよ。それに……する前から結果なんて分かりきってるよ」
茜の頬を一筋の涙が伝った。一粒、また一粒と机に染みが増えて広がっていく。
「なんで、西園寺くんなんだろう。他の人だったら、もっと頑張れたと思うのに……私もう、分かんないよ……」
しおりは、茜になんと言葉をかけていいのか分からなかった。
やがて篠杜が買い物から戻ってくると、茜が涙ぐんでいることに驚く。
目にゴミが入っただけだから、と茜はいつもの明るい表情を無理やり浮かべ、装丁のデザインに戻っていく。
その様子を、しおりはただ眺めることしか出来なかった。