16話 傷
それからしおりは、何度か浅い眠りについて起きることを繰り返した。
研究室時代の記憶や西園寺家に来てからの記憶を、何度も夢に見た。
「…………」
何時間か、あるいは何日か。記憶が定かではない幾ばくかの時間を経て。
ぼんやりとした思考のまましおりが次に目覚めたときには。
一度閉じきったはずのカーテンは、誰かの手によっていつの間にか開かれていた。窓から強く日が射していることから、おそらく大分朝を回った頃だろうとしおりは認識した。
そして、サイドテーブルを見ると……簡単な食事が置かれていることに気付く。
水が入った透明なタンブラーと胃腸薬はそのままになっていた。
「…………」
しおりは無言のまま、震える手で食事に添えられた箸を握った。
食欲があるのかないのか、自分でもよく分からない。口に入れたものを全て戻してしまうかもしれない。
「……でも……残しちゃったら……」
まるで、好き嫌いしてるみたいだから。
食欲がなくても関係ない。出されたものはちゃんと全部食べなくちゃ駄目なんだ。
しおりは、卵焼きに添えられたサラダから食べようとして、
カラン、と箸が手の隙間から滑り落ちて盆の上に戻してしまった。
「……ぁ……」
この手では食事なんてできないとしおりは気付いた。
――まだ、ちゃんと手を洗っていないじゃないか。
しおりはゆっくりベッドから出ると、部屋の外へと向かった。
「……洗面所……」
部屋を出てすぐの突き当たりに、大きな鏡と蛇口を備えた洗面台がある。
綺麗に掃除が行き届いた洗面台の前に立つと、しおりは手を洗い始めた。
石鹸をつけて何度も、何度も、丁寧に。
次第に、しおりは手に違和感を感じ始める。手の甲はひび割れ、かゆみと痛みが混ざり合っていた。
――いつからこうなったんだろう。でも、綺麗にしなくちゃ。
しおりは石鹸をつけて、水で流し続けて。
……ふと、誰かの手で水が止められたことに気付いた。
「……え?」
ふわりと、しおりの背中が温かいもので包まれる。
誰かが、しおりを背中から抱きしめていた。
「……それ以上は、お止めください……」
水底から響くような声が、静かに、しかし強くしおりに囁きかける。
もっと手を洗わなくちゃという強迫観念が、少しずつ溶けていく。
その声と、温かな気配がしおりの心を柔らかくしていった。
「……ひいらぎ、さん……?」
柊はそっと、しおりの石鹸にまみれて濡れた手を自らの手で包んでみせる。
柊の温もりが、しおりの手にじんわりと伝わっていく。
「……だめ……」
そんなことをしたら、柊さんまで私のせいで汚れてしまうから。
言いかけた言葉は心の中で消えていく。柊の手を振りほどこうとしても、しおりは力が入らなかった。
柊の手に包まれることで、しおりの手の違和感は不思議と消えていった。
「……雪村様の手は、もう、とても綺麗でございますから。ですから……お部屋に戻りましょう」
柊は蛇口を軽く捻ると、しおりの手を誘導し、残っていた石鹸の泡を濯いだ。そして、ハンドタオルで水気を丁寧に拭き取っていく。
その一連の動作を、しおりはただされるがままに見つめていた。
「……参りましょう」
柊に軽く背中に手を回されて連れられる形で、しおりは自分の部屋へと戻った。
部屋の扉を開けたまま、しおりは柊に促されてベッドサイドに腰掛ける。
柊は部屋の書斎机にあった椅子をしおりの近くまで運び、そこに座ってしおりと向かい合う格好になった。
「……」
柊は、黙したまましおりを見つめていた。責めるわけでも、憐れむわけでもなく。水晶細工のような瞳は、まるでしおりの心を見透かそうとしているようだった。
「……柊さんは、すごいですね」
しおりは、彼女と初めて出会った時からずっと抱いていた感想を口にする。
目を少し俯かせて、柊は何も答えようとしなかった。
「私、最初会った時、柊さんって怖いなって……思ってました。車でこの家まで送迎してもらったときも、車内が無言になるのがちょっと怖くて……」
一度溢れた気持ちは、流れる川のように止めることができなくなる。
「でも、部屋を案内してもらった時に、お手製のお菓子をいただいたり……こうして私が倒れても、文句の一つなく看病してくださったり……使用人っていう分厚い建前があるだけで、いい人なんだなって……気付けました」
しおりは、決意を込めるように膝上で手を重ね合わせた。
「……柊さんがなぜ私にここまで優しくしてくれるのか、私には分かりません。ですが……今は、私の話を聞いてもらえますか」
「……はい」
それから、しおりは自身の過去について柊に語り始めた。
飛び級の天才としてメディアで話題になったこと、大学の研究室選びで失敗し、広告塔のような存在となったこと。教授に才能を使い潰され、研究を続ける意欲を失ったこと、男性からの身体的な接触に強い恐怖を感じるようになったこと……。
しおりの一部始終を、柊は黙って聞いていた。
「……柊さんにどうにかしてほしいとか、そういう訳じゃないんです。ただずっと、自分の過去のことを話せる相手がいなくて……親にも心配かけたくなくて……それで、誰かに聞いてもらいたかったんです」
そう言って、しおりはタンプラーを手に取り喉を潤した。
柊はゆっくりと顔を上げて、芯を固めた面持ちでしおりを見据える。
「……雪村様、まずはご安心下さい。私は決して、今見聞きしたことを口外したりは致しません……そして、今のお話を受けて私からお願いしたいことは、たった一つだけでございます」
ごくりと、しおりは軽く喉を鳴らす。
柊のこれまでの言葉から、彼女が語る「一つだけ」が軽いものではないことをしおりは理解していたからだ。
柊は軽く目を閉じて、それから力強い眼差しで言葉を紡ぐ。
「雪村様が私のしたことをどう思われていようと……そのお気持ちを、決して私に返そうなどとはなさらないで下さい」
「……?」
感謝や謝罪は不要――そう言われているようで、柊の真意がしおりにはどうしても掴めない。
「それは、どういう……?」
「そのままの意味でございます……さて、食事はいかがなさいますか?」
柊は先ほどしおりが食べようとしていた食事に目をやった。
「え、あ……食べます……これ、柊さんが今朝準備してくれたんですよね?」
「はい、今朝調理いただいたものをこちらまでお運びしました。冷めないうちに召し上がっていただければ」
しおりは、小さな椀に注がれた野菜スープに口をつけた。
「……美味しい……」
コンソメをベースに種々の野菜のダシが染み込んだ味で、いくらでも身体に入りそうだとしおりは感じた。
安心からか、しおりはふと涙ぐみそうになったが、柊を心配させたくなかったのでぐっと堪える。
「そのお姿を見て安心致しました。では、また後ほど。食事が終わった頃に参ります」
柊は椅子から立ち上がり、元の位置に戻した。
そして一礼し、部屋を出ようとする柊へ、しおりは声をかける。
「柊さん」
「はい」
「気持ちを返さないでって言われちゃったけど……でも、これだけは言わせて下さい。お話を聞いてくれて……本当にありがとうございました」
しおりの会釈に、柊も軽く会釈をしてみせる。
それから部屋の扉を閉じるまで――柊は完璧な使用人として振る舞ってみせた。
「……っ!」
しおりの部屋のすぐ外で、拓人は息を殺しながら二人の会話を聞いていた。
柊は拓人の存在に途中から気付いていたものの、その事に気づくような素振りは一切見せることなく。
ゆっくりと、無言のまま立ち去っていった。