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15話 音

 物置小屋の前で花じいと別れる頃には大分日が落ち、庭園も薄暗くなり始めていた。

 しおりは花じいに煙に巻かれたような気がして、カンパニュラのことが腑に落ちないでいた。

「……こうなったらやっぱり、自分で確かめるしかないか」

 拓人が言っていたことだけなら気に留めなかったかもしれない。でも、花図鑑の夢を拓人から聞いた日に一瞬見えた真っ白なカンパニュラが、ただの見間違いだとはしおりにはどうしても思えなかった。

 しおりは、物置小屋から記憶を頼りにカンパニュラが咲いている場所まで移動する。

 昼間は堂々と咲き誇る庭園の花々も、夕暮れから夜に向かう間はどこか寂しげな表情を見せていた。やっと覚え始めた庭園の道が見覚えのないもののように思えて、しおりの歩みはいつもより重くなる。地面に伸びた花の影はまるで、しおりの足を絡め取って阻もうとするかのようだった。

「……ん?」

 カンパニュラの近くまで来たしおりは、近くに人影がいることに気付いた。

 もしかして、また花じいだろうかとしおりは思ったが、背格好の大きさから拓人だとすぐに分かった。

「拓人」

 後ろからしおりが声をかけると、拓人は意外そうな声色で答える。

「……先生、こんな時間に珍しいね」

「拓人のほうこそ、と思ったけど……もしかしてカンパニュラを描きに来てたの?」

 拓人はカンバスや画材道具をちょうど片付け始めているところだった。その近くには、夕暮れの長い影を落とすカンパニュラが静かに咲いている。

「うん。さっきは先生にああ話したけど……やっぱり今の姿もちゃんと描いておきたいと思って」

 カンバスを畳み、スケッチブックを閉じながら拓人は淡々と答えた。

「先生、もしかして僕の話が気になってここに来たの?」

「……まあ、そんなところかな」

 花じいとの会話を拓人に伝えようかとしおりは思ったが、いったん胸の内にしまっておくことにした。

「でも本当に、可愛くて綺麗だよね。カンパニュラ」

 そう言って、しおりは朱に染まるカンパニュラに一歩近づき、じっと眺めた途端、

 ちりん……ちりん……。

「……えっ?」

 どこからか、鈴の音のような音がしおりには聞こえた気がした。

 しおりは振り返って辺りを見回す。しかし、音の鳴るようなものは見当たらない。

 それどころか……近くに咲いていた花々がまるで突然消えてしまったかのように、しおりの周りからいなくなっていた。足元に伸びていたはずの花の影も、しおりの足元から消え去っていた。

 明らかに、おかしい。こんなのは普通じゃない。

 しおりは焦りと共にカンパニュラの方へと振り返ろうとして――

――ガシャン。

 何かが倒れるような音と共に、しおりは我に返った。

「……先生ッ」

 拓人の切羽詰まった声が耳元で聞こえて、しおりは一瞬状況が分からなくなる。

「……え……?」

 ぼんやりとした視界の端で、しおりは拓人が使っていたカンバスが地面に倒れていることに気付いた。拓人はなぜかカンバスを放って、自分の近くにいるらしい。

「先生、大丈夫? 多分めまいか何かで、急に足元をふらつかせて倒れそうになったんだよ。だから……」

 その言葉で、しおりは自分の身体が今どんな状態になっているのかを理解する。

 ふらついた自分を倒れさせまいと慌てて駆け寄った拓人は、意外にもそこまで細くない左腕で、自分の身体を正面から支えてくれていたのだ。

「……ぁ……」

 ただ、それだけのことなのに。

 しおりが抱いた感情は安堵ではなく……恐怖だった。

 意識が暗闇に飲み込まれていく。

 誰かに身体を触られる感覚。

 思い出したくなくても、身体が覚えている。

 身体に刻まれた消えない染みが疼いて、心を蝕む。

 

『雪村君、君は我が研究室の至宝だ。私の人生の光だ。出会えて良かった。ありがとう!』


 魂まで穢そうとする、呪いの言葉が頭に木霊する。

 それは、お前を逃さないぞと唱える呪詛のようで。

 どんな目新しい研究成果も当然のように思われて。

 もし失敗したらお前も罵倒するぞと、暗に脅されているようで。

 ゆるやかに、自分の意思が殺されていく気がした。

「……おぇ……っ」

 身体は不快感という形で反射的に抵抗しようとする。

 身体から離れゆく心を繋ぎ止めようとする。 

 生きたいと。

 私は木偶人形じゃない、雪村しおりという人間なんだと。

「先生、しっかりして!」

「……う……」

 拓人の言葉で。

 しおりは、自分が拓人の目の前で吐いてしまったことに気が付く。

 自分の吐いたものが庭園を汚していく。

 そのことに耐えられなくて。

「……やだっ……放して……放してよっ!」

 しおりは拓人の腕を振りほどこうして暴れ、地面に倒れ込む。

 何かから逃げるように手足を動かそうとして、しかし力が入らない。

 今、目の前で起こっていることが現実なんだと、認めたくなかった。

「……柊……! 来てくれ! 誰か……!」

 ……もう、何もかも終わりだ。

 拓人の叫び声と、誰かが駆けつける音を遠くに聞きながら。

 しおりは、諦めと共に意識を手放した。

 

「……!」

 次にしおりが目覚めたのは、自室のベッドだった。

「…………」

 まず身体の状態を確認すると、きちんと寝間着に着替えている。

 静寂が部屋を満たし、いつも通りの、何もなかったかのような朝を迎えていた。

 窓の外を見ると、穏やかな朝日が差し込もうとしている時間だった。

「……悪い夢を見たんだよね、きっと」

 しおりは自分に言い聞かせ、起き上がろうとする。

 そこで、ベット脇のサイドテーブルに、何かが置かれていることに気が付いた。

 透明なタンブラーに入った水と、胃腸薬。

 そして、簡単なメモが残されていた。

『お目覚めの後、まだご気分が優れないようでしたら服用して、暫く安静にお過ごし下さい』

 流麗で達筆な字体は、柊のものだとすぐに分かった。

「……はは……」

 悪夢なら、早く覚めてほしかった。

 あの庭園で自分が起こしてしまったことは現実なんだと、ここにある全てが雄弁に物語っていた。

「…………」

 しおりはゆっくりとベッドから起き上がり、窓の側へと歩いていく。

 そして窓の側の厚いカーテンに手をかけると、外の光を拒絶するように閉めていった。

 わずかにカーテンの隙間から漏れる光を残して、部屋は暗闇に包まれる。

 闇の中、しおりは手探りでベッドフレームを探り当てて再びベッドに潜り込んだ。

「……なんで……こんな……」

――この家に来てから、色々な人の優しさに触れてきた。

 自分は、まだ何も返せていないのに。

 花図鑑の編集長になって、拓人や茜たちとまるで友人のように関わって。楽しいという気持ちになれて。

 それももう、無理かもしれない。

 拓人の顔を見る度に……私はきっと、庭園であったことを思い出してしまうだろうから。

 きっと拓人は、私が普通じゃないことに気付いただろう。それでいて、過去に何があったかとは聞かないでいてくれるだろう。

 その優しさが辛くて、皆の前で平静を保っていられる自信がない。

 ……もうこのまま、会わないほうがいいのかもしれない。

「……寝たら、きっと良くなるよね」

 かつて薄暗いワンルームで、そう信じたように。

 しおりは、再び意識を闇へと戻していった。

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