14話 枯れない花
拓人の部屋の入口近くに柊が控えつつ、しおりは家庭教師の授業を始めようとしていた。
そこでしおりは、机に向かう拓人が何か思い悩んでいることに気付く。
「拓人、何か考え事?」
「……うん、以前言ったことなんだけどね」
拓人が気にしていたのは、絵画用のスキャナーとアート紙の印刷機を用意したい旨を父に話せていないということだった。
「言わなくちゃいけないのは分かってる。でも……」
拓人と宗一郎は気軽に話すような仲ではない。そもそも宗一郎が家に戻ることが少ないという別の問題もある。
「よく分かってないけど、柊さんに頼むのはダメなの?」
ふと浮かんだしおりの提案に、拓人は難色を示した。
「これは僕の問題だから……柊に迷惑をかけたくない」
しおりはちらりと、離れたところに控える柊に視線を送る。
「……」
柊は少し考える素振りを見せると、軽く嘆息した。
そして、ゆっくりと二人に近づいていく。
「拓人様。私……少々困っていることがございまして」
「え?」
固い表情を崩さぬまま、柊は拓人を見つめた。完璧な使用人たる柊の困り事がよほど珍しかったのか、拓人はあまり普段見せない驚きの表情を浮かべる。
「拓人様がアトリエとして使用されているお部屋ですが、ああも物が多いと掃除もままなりません。もし大きな地震が起こりでもすれば、拓人様の身にも危険が及びます。管理上、とても困っております」
「……それは、ごめん」
申し訳なさそうにする拓人に、そこで、と柊は言葉を続けた。
「あの部屋を整理しつつ作品の鑑賞を可能とするためにはスキャナーと、作品を印刷しておける機械も必要となるでしょう……私はそのことを宗一郎様に進言しようと思いますが、よろしいでしょうか?」
拓人個人のお願いごとではなく、あくまで使用人の困り事という論理でくるんで宗一郎に伝える。
それが、柊の提案だった。
「……!」
拓人は柊の意図することを理解すると、深く頭を下げる。
「……うん、いつかあの部屋は整理しなきゃって思ってた。柊の提案に異論はないよ……本当に、ありがとう」
「では、そのように進めさせていただきます」
こうして拓人の懸案事項は解決し、家庭教師の時間が始まるのだった。
順調に授業の時間が終わると、しおりと拓人は図鑑に載せる絵の選定のためアトリエに移動していた。
「先生。ちょっといいかな」
「どうしたの?」
「絵の説明にはその花をいつ描いたか記そうと思うんだけど、一つだけどう書こうか決めかねてて」
そう言って拓人が取り出した花の絵は――
「……カンパニュラ?」
「うん。そして……これは三年前に描いたものなんだ」
しおりはなぜかその絵に見覚えがあるように思えた。
なぜなら……そのカンパニュラは、先日見た時の姿とあまりにそっくりだったからだ。
「僕は何年も庭園の色んな花を見て描いてきたから、どの花がいつ咲いて枯れて、また芽を出しているか知ってる。だから、このカンパニュラが何年も……ずっと同じ姿で咲き続けるってことも知ってる」
「そんなことって……」
有り得るんだろうか、としおりは訝しむ。
「うん、普通はあり得ないと思う。花じいが特別この花を気に入っていて、いつでも綺麗に見せてくれてるだけかもしれない。ただ、この絵は三年前に描いた気がしなくて、昨日今日で描いたようにも思えてね」
変なことを言ってるよね、と拓人は小さく笑ったが、しおりは笑い飛ばすことが出来なかった。先日カンパニュラを通りがかった時、一瞬見えた真っ白なカンパニュラのことを思い出してしまったからだ。
「拓人の言う通り、きっと花じいの仕事がいいんじゃないかな? 図鑑にはちゃんと三年前って描いておけばいいと思うよ」
「……そうだね、そうするよ」
いったん拓人にはそう答えたが、しおりはカンパニュラのことがどうしても頭から離れなかった。
翌日、拓人の家庭教師の時間を終えたしおりは庭園を訪れていた。
かつて、花とは美しい夢だと自分に語った老庭師――彼ならきっとカンパニュラのことについて何か知っているのではないか、そんな予感がしおりにはしていた。
しおりは事前に書庫を覗いたが花じいの姿は見かけなかった。とすれば、この時間は庭作業をしている可能性が高いだろうと踏んでいた。
「……いないな。あの人」
生け垣の裏やパーゴラの影などをくまなく探してみるものの、花じいの姿は見当たらない。腰を曲げて静かに作業をしている彼を見つけるのは一苦労だった。
庭を一周したしおりは辺りに何か他の建物がないかと見回し――庭の外れに、小さな屋根が頭を突き出していることに気が付く。
「なんだろ、あそこ……」
何もなければ庭園の美しさにただ目を奪われて、気にも止めなかっただろう。
しおりはその小さな屋根に向かって近づいていく。
「あ……」
そこは、ちょっとした倉庫のような物置小屋だった。小屋の前には何かを引きずった跡が残っており、重たい作業器具か何かを出し入れしたのだろうとしおりは想像する。
そして、しおりが探していた人物は、その物置小屋からまさにちょうど出てくるところだった。
「花じい」
しおりが呼びかけると、花じいは顔を上げて細い目でしおりを見上げた。
「なんだ、小娘。この小屋に何か用か」
「そ、そうじゃなくて……私、花じいに聞きたいことがあって探してたんです」
しおりの言葉を聞きながら、花じいは土埃で汚れた軍手を外し、物置小屋の扉をガラガラと閉める。それから再び軍手を嵌め直し、小脇に抱えていた工具箱を持ち直した。
「なんだ」
「この庭園にあるカンパニュラって、花じいが整えてるんですか?」
その問いは、花じいにとって少し予想外のようだった。問われていることの意味を考えるように、花じいの答えには少し間が空いた。
「……なんだ、藪から棒に」
「拓人が言ってたんです……この庭園のカンパニュラは、いつ見ても同じ姿をしてるって。それは花じいがあの花を特別気に入っていて、丹念に手をかけてるからそう見えるだけなんじゃないかって」
「……」
しおりの言葉に、花じいは何も答えなかった。
彼の沈黙が何を意味するのか分からなかったしおりは、ただ言葉を重ね続ける。
「……カンパニュラは多年草です。だから年を越して咲き続けているのは分かります。けれど、多年草でも途中で蕾を落としたり、枯れたりするものも必ずあるはずです。それが何年も同じ姿のままなんて……まさか、ずっと枯れずに咲いてるってわけじゃないですよね?」
彼ならしおりの突拍子もない発言に、そんな馬鹿なことがあるかと一蹴してくれるだろう。しおりはそう期待していた。
だが、彼が返した言葉はしおりの予想と全く異なるものだった。
「……花を美しく見せるのが、庭師の仕事だ」
否定とも肯定とも取れない庭師の哲学を語られ、しおりは戸惑いを隠せない。
「……はい、それは分かります。でも……」
一体この老庭師は何者なのだろう。この庭園について何かを知っているのか、それとも本当にただの庭師なのか。
しおりの疑念をよそに、花じいは少し曲がった腰を伸ばしてゆっくりと空を見上げた。
「枯れずにずっと咲いている――もし、そのような花があるのなら、そこに庭師の仕事はない。ただの造花と変わらんからな」
あくまで訥々と語られる庭師の論理を、しおりは必死に解釈しようとした。
「造花はただの観賞用に過ぎん。花は時と共に姿形を変え、常に不完全であるからこそ美しいのだ。なぜなら、そこには花を美しく見せようとする人間の情があるからな」
花じいの意図はしおりには分からなかったが、花じいは「今日の仕事は終わりだ。他になければわしは帰る」とその場を離れてしまったので、それ以上のことは聞けなかった。