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13話 染み

 ゴーストオーサーシップの件がありつつも、しおりはその後の研究で目覚ましい成果を上げ続けた。

 研究者の最初の到達点である博士号の取得は、大学院に在籍して五年間かけて取得する課程博士が一般的だ。

 だが、その稀有な才能と鷹倉の推薦も相まって、しおりはたったの三年間で博士号を取得した。彼女が十八歳の時であった。

 唯一、しおりのことを気にかけていた一年上の先輩は、しおりが博士号取得後にポスドクとして働き始める傍ら、博士号取得に足る業績を作れずに退学していった。

 彼自身の資質もあったかもしれないが、自分の存在が彼の人生を狂わせてしまったのではないかと、しおりは恐怖した。

 しおりは研究室において、他のメンバーからの羨望、苦悩、そして嫉妬の視線を浴びる日々を送ることになる。

 そんなしおりに対し、鷹倉は日々「手厚く」指導していた。それは他の研究室メンバーへの指導が疎かになるほどだった。

 しおりのスマホに、鷹倉からの個人的な連絡が頻繁に飛んでくるようになっていた。

 そして鷹倉は会食と称してしおりを外に連れ出し、高級料亭などで研究以外でも二人きりの時間を増やしていった。もはや研究と関係がないようにしおりには思えたが、先輩の件で芽生えた罪悪感から鷹倉の要求に強く抵抗できなくなっていた。

 しおりは仮面の笑顔を浮かべて時が過ぎるのをただ耐えた。鷹倉は酒癖が悪かった。酔いが回ってくると、彼は決まってしおりへの感謝と称賛、そして他の研究室メンバーへの罵詈雑言を繰り返し叫んだ。

『雪村君、君は我が研究室の至宝だ。私の人生の光だ。出会えて良かった。ありがとう!』

 しおりにとって永遠と思える会食の最後に、彼は決まって酒臭い息を吐きながらしおりの手を握った。

 それが、しおりにはたまらなく嫌で嫌で、耐え難い瞬間だった。

『…………』

 しおりは家に帰ってから、病的に手を洗うようになった。

 あの酒臭い匂いを忘れようと、何度も顔を洗うようになった。

 鷹倉の罵詈雑言が、繰り返し頭の中で再生されるようになった。

 自分が何か失敗したら、同じように罵られるのだろうかという恐怖がしおりを支配し始めた。

 教授から特別扱いを受ける彼女に、自分の悩みを相談できる人間はもう研究室内にいなかった。

 そして……ポスドクとして一年が経過した、ある朝のことだった。

『……もう、無理だ』

 自宅のベッドで、その言葉を吐き出したら。

 身体が急に動かなくなった。

 起き上がれなくなった。

 思考できなくなった。

 生理的な欲求が、全て麻痺してしまった。

 それ以来、二度と研究室に行くことは出来なくなった。


「……はー」

 しおりは久しぶりの悪夢と共に目覚める。全身に嫌な汗をかいていたが、心はまだ元気だった。

 拓人たちと花図鑑を作る、編集長として皆とやり取りすることが強いモチベーションになっていた。

「よし、起きよう」

 彼女は軽く頭を振って、寝間着から着替え始めるのだった。


 学校に一度メンバーが集合するのは、花図鑑の作戦会議から二日後を予定していた。

 その翌日は拓人を経由して渡された茜の姉の制服を自室で着てみて、しおりは少しこそばゆい気分になった。鏡に映った自分が自分じゃないような気がして、でも悪い気分ではなかった。

『……よくお似合いです』

『柊さん!? こ、これは見なかったことにして! というかノックは!?』

『何度かしたのですが……』

 そんな気まずい一幕もありつつ、しおりはレイアウト案を引き続き考えるなどして図鑑の構想を進めていった。

 そして、花図鑑作りのメンバーが学校に集まる当日の午後。

 しおりは初めて拓人達が通う学校の中に入ろうとしていた。

「ほんとに大丈夫かな……」

 放課後ということもあり、下校する多くの生徒たちが校門に向かっている。その波を縫うようにして、しおりは俯きがちに校舎へ入っていく。

 途中、何人かの生徒の視線を感じたが、特にしおりが声をかけられることはなかった。

「あ、こっちこっち!」

 下駄箱のあたりで手を振る人物――茜に気が付いて、しおりは少しホッとする。

「いいじゃん、制服似合ってるよ!」

「あ、ありがと」

「じゃあ案内するから、ついてきて」

 茜の背中を追いながら、学校の校舎がどこか新鮮にしおりには感じられた。以前通っていた時は一人だけ私服で浮いていたのもあるが、当時小学生相当だったしおりと比べて周りの同級生たちはずっと年上だった。最初は興味をもって話しかけてくれた同級生も、一月が経つ頃にはしおりへの興味を失っていった。

 今後の簡単な設定なんだけど、と茜は歩きながら話し始める。

「私や西園寺くんは高一なんだけど、先生は高三でめっちゃ頭がいいから先生って呼ばれてる。そんな感じでいい?」

「う、うん……ねえ、茜は」

「ん?」

 ずっと、しおりは疑問に思っていることがあった。

 それを聞いて良いのかどうかも、しおりには分からなかった。

「……どうして、私にこんな親切なの? 駅で私のキーホルダーを拾ってくれて、むしろ親切にしなきゃいけないのは私なのに、全然できてないから……」

 その言葉に、茜はピタリと足を止めた。

 やはり聞いては不味かったのかもしれない、としおりは身を強張らせる。

「……んー、なんていうか……自分でもよく分からないんだけどね」

 彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。それから、茜はしおりへと振り返ってみせる。

「私、こんなだから駆け引きとか苦手だし……でもフェアじゃないのはもっと嫌だし……みたいな? ごめん、よく分かんないよね」

「……?」

 困ったようにはにかむ茜へ、しおりはどう言葉を返していいのか分からなくなった。

 やがて茜は、右手を出してピースサインを作った。

「私は、先生の友達になりたいって思った。ま、そういうことで!」

「……友達」

 しおりにとって、それは不思議な響きのする言葉だった。自分には縁のない異国の言葉のようだったそれが、初めて輪郭をもって心の中に出来上がり始める。手毬の如く、柔らかで丸々としたもののようにしおりには感じられた。

「よし、着いたよ」

 工作室、と記したプレートが掲げられた教室の前に立ち、茜は扉をスライドさせた。

 中には拓人と、もう一人……大柄な男子生徒が作業机を囲んで座っている。

「紹介するね、コイツが私の幼馴染の篠杜しのもり広明ひろあき。ちょっと背が高くて怖そうに見えるけど、実際は大した事ないから心配しないでね」

「……ひどい言われようだな」

「だってホントのことでしょ?」

 はあ、とため息を吐きつつ篠杜は立ち上がった。拓人や茜と比べて頭ひとつ分大きく、それだけでしおりは少し萎縮してしまう。

 篠杜はその大きな身体を丁寧に折り曲げて、礼をした。

「一年の篠杜……です。えっと……」

「さ、三年の雪村、です。二人からは先生って呼ばれてて、一応編集長ってことになってる……よ、よろしくね」

 事前に打ち合わせた苦し紛れの自己紹介に、篠杜は少し首を傾げてみせた。

「……雪村? うーん、ま、いいか。二人がそうなら俺も先生って呼ばせてもらうわ」

 一瞬、篠杜が自分の本当の正体に気付いたのではないかと、しおりは身体が冷える思いがした。

 拓人の家庭教師であると知られる分にはまだいい。だが、拓人や茜を含めて知らないであろう自分の過去にもし気づかれたら――それをうまく説明できる自信は、今のしおりにはなかった。

「というか茜。勝手にここ使っていいのか?」

「一応ここを管理してる先生にそれとなく話は通しといたよ。他の部活や同好会で使うこともあるからその時は空けてねってことと、もし工作機械を使う時はちゃんと声かけてねって」

「茜にしては手際がいいな」

「……ヒロ、アンタはいつも一言余計なのよ。素直に褒めなさい」

 軽口を叩き合う二人を横目に、拓人は花図鑑のこだわりポイントを記したノートを広げてみせた。

「篠杜にお願いしたいのは、このビス止めの仕掛けなんだ」

 拓人の静かな言葉に二人は軽口を止め、ノートの側に集まった。

「背表紙の厚さは五センチで考えてる。篠杜には背表紙と台紙をうまく綴るビスの設計と、台紙に正確に穴を空けるのをやってほしいんだ」

 しばらく拓人の書いた図面を眺めた後、篠杜はポツリと呟いた。

「……なるほどな。確かにこれは俺向きかもしれねえ。親父は大工だから、こういう細かい作業はガキの時から散々見てきた」

 篠杜の力強い言葉に、どこかホッとした空気が流れる。

「それにしても、西園寺」

「?」

「お前って一見華奢に見えるけど、こうして近くで見ると意外とそうでもないな。何かスポーツでもしてるのか?」

「……今は大分克服したけど、昔は運動が苦手だったから。だからそう見えるんじゃないかな」

「なるほどなあ」

 拓人と篠杜の会話をよそに、しおりは手書きのレイアウト案を机に並べた。

「今後の方針だけど、まずは台紙を作らなきゃいけないから紙の調達と、フォトカバーも貼らなきゃいけないから……茜が何個か買ってきてくれたんだっけ?」

「うん、いい感じのがいくつか売ってたから出すね。ほら、どうかな?」

「どれも雰囲気がいいね。僕は透明のこれがいいと思う」

「待て西園寺。図鑑全体の厚みを考えると極力薄い方が仕上がりが良くなる。見た目も大事だが、まずは何枚か試作してみようぜ」

 これは、決してきちんとした部活動でも同好会でもない。

 でも、しおりにはこの活動がとても楽しくて。

 こんな時間がいつまでも続いてほしい――

 そう、願ってしまうのであった。

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