10話 夢
西園寺家の庭園は、訪れる度に違った表情を見せてくれるのだとしおりは気付いた。
以前訪れたペチュニアを象る白亜のパーゴラには、紫色の壮麗なシャンデリアの如き藤の花が、その甘い香りと共に飾られている。風が吹くたびに紫のカーテンがたおやかに揺れ、光と影が地面の上で幻想的なまだら模様を描き出す。その光景は、どこかこの世ならざるおとぎ話の世界へと迷い込んでしまったかのような錯覚さえ覚えさせた。
「先生は、好きな花はある?」
軽やかな拓人の問いに、しおりはどう答えようか少し悩んだ。
「……勿論、目の前のペチュニアも藤の花も、とても綺麗だし好きだなって思う。でもきっと、そうじゃなくて……私はこの庭園の中でその花々が咲いているから好きになるんだと思う。答えになってるかな?」
「うん、すごく良い答えだと思う。僕も同じ気持ちだから」
拓人はパーゴラにそっと近づくと、ペチュニアが植えられたハンギングバスケットの縁に触れた。
「僕にとって、この庭園は幼い頃から特別な存在だった。時間とともに少しずつ装いを変えていくのが楽しみで、明日はこの花がどうなってるんだろう、蕾をつけて花弁を開くんだろうかって想像する時間が好きだったんだ」
ちょっと女の子みたいな趣味かもね、と拓人は自嘲めいて笑った。
「ずっと庭園を見て回れていれば、幼い頃の僕はそれで満足だった。でも、今もそうだけど僕は色々な習い事をこなさなくちゃいけなくて遊ぶ時間がなかった。だから、自分の好きな時に庭園の花を見て楽しめるように、絵に残そうって思い始めたんだ」
それから、拓人はくるりと振り返ってしおりを見つめる。
真剣な眼差しに、どこか燃え上がるような情熱がこもっているようにしおりには感じられた。
「昔から、この庭園の風景を描いた絵が屋敷の一室に貯まっててね、そこはちょっとしたアトリエみたいになってる。あとで先生には見てもらいたいんだけど……そこにある絵を一冊の花図鑑にする。それが、僕の夢なんだ」
すごく拓人らしくて素敵な夢だと、しおりは心から思った。
「……歴史が好きな拓人らしいなって思うよ。応援したくなるな」
「本当に?」
「うん、本当だよ」
拓人はしおりの言葉を噛み締めて、ほっとしたような表情を浮かべる。
「良かった。先生になら話しても大丈夫なんじゃないかって思ってはいたけど……本当は少し不安だった」
「どうして?」
しおりの問いに、拓人は少しだけ顔を強張らせた。
「僕が……西園寺だから、かな。僕が花図鑑を作ったところで家の名前が大きくなるわけじゃない。もし父が僕に何か期待していたとしても、この花図鑑がそれに応えられるとは思えないからね」
拓人にとって、この花図鑑は単なる夢ではないのだとしおりは気付いた。
きっと彼は、家の名前や父の期待といった見えないものと戦いながら、この夢を自分なりに育ててきた。もしかしたら途中、何度も諦めようとしたのかもしれない。
それでもずっと絵を描き続けて、その夢を花開かせる日を待っていたのかもしれなかった。
「先生は、何か夢はある?」
「私? 私は……小さい頃から両親に憧れてすごく勉強を頑張ってきたから、両親みたいな立派な人になるっていうのが夢かな。ちょっと色々あって、今は道半ばって感じだけど」
「……先生は、両親を尊敬してるんだね」
寂しそうに語る拓人の姿を見て、しおりはどう言葉をかけて良いか迷った。
出会った日に見た拓人と宗一郎の距離感を、どうしても思い出さずにはいられなかった。しかし、そのことを直接自分から訊ねるのは少し違う気がする。
心に抱える思いが奥にあればあるほど、彼が話したいと思った時に話を聞く。
それが家庭教師と生徒のあるべき距離感なのだと、しおりは思った。
「ありがとう、先生。色々話を聞いてもらってスッキリしたよ」
「いえいえ」
それから拓人は柔らかく微笑んだ。
「さっそくだけど、僕がアトリエにしてる部屋を案内するよ。先生、ついてきてもらえるかな?」
歩き出す拓人の背中をしおりは追いかけ始める。
その途中――花じいと出会った場所を通り過ぎようとした。
「……」
色とりどりのカンパニュラを眺めながら、ここで不思議な会話をしたことをしおりは思い出す。
気難しくて謎めいたあの老人は、いったいどういう人なんだろう。
しおりは浮かんだ疑問を口にしようとして、
――目の前のカンパニュラの色が一瞬、真っ白に染まって見えた。
「……えっ?」
光の加減だろうか、としおりは一瞬目を閉じ、もう一度開いた。
カンパニュラは元通り、ピンクや紫などの美しい色の調和を見せており、真っ白に染まってなどいなかった。
「……先生? どうしたの?」
しおりがカンパニュラの前で立ち止まっていることに気付いた拓人が、しおりの少し前から声をかけている。
「……ううん、何でもない。今行くよ」
変なこともあるなとしおりは首を捻りつつ、拓人の後を追いかけた。
「うわーっ……すごいね……」
アトリエと称した部屋に置かれた絵の数に、しおりは圧倒されていた。
濃密な画材の匂いが漂いつつも、光や湿度を調節した部屋の中に、百はあろうかという水彩画が壁際に整然と並べられている。カンバスに立てかけられているいくつかの絵は、まだ未完成で作成中のもののようだった。
植物を正確に描写するボタニカルアートのスタイルを基本としつつ周辺の背景も描き込み、全体を水彩画材で表現するのが拓人の画風だった。
「まだ絵があるだけで、どう図鑑にしていくかはこれからなんだけどね」
拓人は少し恥ずかしそうにしていた。
「図鑑っていうぐらいだから、まずは絵をデータにしてレイアウトを考えるところからかな?」
「うん。データにするなら絵画用のスキャナーを準備したいけど……それは父にお願いしないといけない。ちょっと考えてみるよ。レイアウトはイメージはあるけど、まだ形にはできてないんだ」
「私、レイアウト考えるのは得意かも。昔、論ぶ……じゃなかった、雑誌の図面考えたりしてたから」
あまりアカデミアの過去の話はしたくなかったので、しおりは適当にお茶を濁してみせた。
「それなら、先生にお願いしてみようかな」
「うん、任せて! レイアウト案が出来上がったら家庭教師の時間に見せるよ」
「……ふふ、なんだか僕より張り切ってるね。先生」
「あはは。何言ってるんだろうね、私」
もはや家庭教師というのは、しおりにとってただの建前になろうとしていた。
――こうして拓人が手掛けた絵を見て、彼の本気がちゃんと伝わってきて。
何かしら自分が力になれたら、それもきっと先生の仕事なんだって無茶な論理で納得しようとしている。
そうじゃない。本当は……誰かと一緒に何かを作るってことに、初めて胸が高鳴っているんだ。
しおりは、研究室時代に手掛けた論文や共同研究のことを思い出していた。あれも確かに一人で出来ることではなかったけれど、そこに楽しさは一切なかった。言ってしまえば、理論と実験の積み重ねで分かったことを積み上げていくだけの世界で、そこに目新しさがどれだけあるかを競っていたのだ。
それはそれで意義があると思う。でも、ひたすらに息苦しくてギスギスしていた。終いには、どんなに目新しい成果を出せても嬉しいと感じられなくなっていった。
でも、この花図鑑作りは違う。
一人の少年の夢を、形にしていく作業なのだから。
「それじゃ、今日の課外授業はここまでかな。拓人、今日は色々教えてくれてありがとうね」
「こちらこそ、見てくれてありがとう。先生」
少し変わった課外授業を終え、二人はアトリエ部屋を後にした。