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1話 招待

――では、花図鑑の一頁目から語り始めましょう。


 こんな生活をいつまでも続けたくない、と雪村しおりは現実を憂いた。昼夜問わずカーテンを締め切り、明かりを灯さないワンルームは常に薄暗い。

 大学の研究室を休み始めて、電話が鳴らないようスマホの電源を切って外出をしないまま一ヶ月が過ぎていた。部屋の中で瞬く物といえばパソコンのディスプレイ程度で、彼女はそこから全ての生活用品を注文し配送してもらっていた。

「……う……」

 ベッドで横になっていたしおりの意識を、嘔吐感が強制的に覚醒させる。外界から光の射さない部屋では今が何時なのか認識が難しい。しおりの頭は鉛のように重く、固形物をすぐ吐き戻してしまうほど弱った胃は食べ物を受け付けそうになかった。

「……おぇ……っ」

 起き上がろうと下腹部に力を込めようとして、しおりは喉元まで込み上げた不快感と戦わねばならなかった。止むなく天井を仰ぎながら身体をゆっくりと半回転させ、転がり落ちるようにベッドを出る。

 床に足をついた時に何かを踏みつけた。

 薄暗い部屋の中、しおりが目を凝らして見ると、床に転がっていたのは著名な科学雑誌の特集記事だった。『飛び級の若き天才、雪村しおりが参画する共同研究の展望について』と踊る見出しの中で、操り人形のような笑みを浮かべる自分と――

 頭の中で、火花がチカチカと爆発する。

 瞬間、しおりは雑誌のページを力いっぱい乱雑に引き裂いて床に叩きつけていた。記事はたちまち細かい紙片と化し意味をなさなくなる。

「っ……!!」

 それから洗面所に駆け込むと、しおりは何回も石鹸で両手を泡まみれにして、目に見えない汚れを濯ぎ落とすよう手を洗い続けた。得体の知れないゴワついたものが、いつまでも両手を這いずり回るような感覚が離れない。

 途中、伸びていた爪が掌を割き、軽く出血する。背筋を走る冷や汗と、自分で切ってしまった出血が収まるまで手を洗い続けた頃、しおりは蛇口を止めた。

 そしてがくん、と脱力してその場にへたり込む。

「……なんで……こんな……」

 固く握り締めた拳に爪が強く食い込む。痛みに身を任せながらしおりは拳を振り上げて――

――ピロン♪

 場違いとも言える可愛らしい電子音に、ビクリと身体を震わせた。行き場を失った拳を静かに下ろし、しおりは電子音の意味を逡巡する。

「……メール?」

 しおりは研究者として、外部の共同研究相手に自身の連絡先であるメールアドレスを共有していた。学内のやり取りが外に誤って漏れないよう、しおりは学内と学外で使用するアドレスを使い分けていた。先程の電子音は、学外からの共同研究関連の連絡が届いたことを意味する。

――学内のメールであれば電子音を鳴らさない設定にしていたし、そもそもメールを見る気は一切ない。

 だが、学外となるとあまり心当たりは多くない。

「…………」

 しおりはゆっくり立ち上がると、身体の不快感を呼び戻さないよう慎重に歩きながらパソコンのディスプレイまで移動し、デスクチェアに身体を預けた。

 画面を見ると、画面下部のタスクバーでメールソフトが淡く点滅している。確かにメールが届いているようだった。

 震える手でマウスを握り、カーソルをメールソフトに合わせ、しおりは文面を確認する。

『FROM: 西園寺宗一郎 TO: 雪村しおり 件名: ご招待』

――知らない人だ。

 訝しみつつ、本文はこう始まっていた。

『雪村しおり様。突然のご連絡失礼致します。私は西園寺宗一郎、西園寺グループのトップとして経営者の責を担う者です』

「……西園寺、グループ……?」

 その名前はしおりも把握していた。日本有数の製薬メーカーとして一代で財を築き上げた比較的新興の企業だった。

 過去のいくつかの共同研究相手を思い出してみたものの、しおりの記憶に西園寺グループのような巨大企業と共同研究を進めた覚えはない。

 詐欺かスパムの類だろうか。経営者を装って金銭を搾取する新手のロマンス詐欺かもしれない。

 しおりは首を傾げつつ文面を読み進める。

『此の度、雪村様に当家で住み込みの家庭教師を依頼したくご連絡差し上げました。衣食住の完備は勿論の事、別途報酬もお支払い致します。もしお受け頂ける場合、明後日の午後三時頃に下記指定場所までお越し下さい。迎えの者を向かわせます。お会い出来る事を期待しております』

 メールの結びには、しおりの最寄駅から電車で一時間半ほど要する新興住宅地の駅が示されていた。

「…………はい?」

 しおりの頭が無数の疑問で埋め尽くされる。

 なぜ西園寺グループのような巨大企業のトップが、わざわざ自分のような研究者に直接連絡してきたのか。しかもなぜ研究ではなく、全く関係のない家庭教師の依頼なのか。送り先の誤りではないのか。

 もし自分の立場を分かって連絡しているのなら――この西園寺宗一郎は、自分が研究活動を中断していることをなぜか把握しているように思える。

 自分の状況は家族を含め誰にも伝えていないし、大学や研究室も公にはしていないはずだ。もし公表していたら誰かがこの部屋に押しかけて大騒ぎになっているはずだからだ。

 しおりは送られてきた短い文面を何度も読み返し、自分の読み違いや、あるいは書き損じがないかを疑った。暫くして、どちらもなさそうだと納得したところで、しおりは一つの結論を導いた。

――この文面自体は本当かもしれない。ただ、私だけじゃなく他の色々な人に送っているんじゃないか?

 うんうんとしおりは納得する。真っ当に考えれば、このような荒唐無稽な依頼を引き受ける人間などそういないだろう。自分は過去の論文誌やメディア出演で名前を知られていたから、この人は同様に若くて優秀そうな人間の連絡先へ片っ端からメールを送っている――そんなところだろう。

 メールの真意に関するいくつかの疑念は残っていたが、どれも憶測と推測の域を出ないため、しおりは思考を中断した。

「……はぁーっ……」

 大きく息を吐いた後、しおりは頭を抱えて机に突っ伏す。

――正直、イタズラかもしれないと疑う気持ちは強い。研究をしていた頃も得体のしれない誘いやメディア出演の依頼は大学の窓口を通じてたまに届いていた。

『理系女子のリーダー的存在として一言コメントをお願いします』『天才の素顔を取材させてもらえませんか』『弊社のイメージキャラクターに抜擢したく、ぜひ広告出演のご検討を』

 研究者としてのしおりではなく、世間受けの良い偶像としての彼女を追いかけ回すような輩ばかりだった。対面でも電話でもメール越しでも、相手が自分を自分として見ていない感覚が透けるのがただ気持ち悪くて。

 なにより、そういった嫌な経験を簡単に忘れることができない自分が、しおりは嫌いだった。

「……でも、この人は」

 今まで自分に接触してきた人とは少し違う気がした。なぜ家庭教師の依頼なのかは分からない。しかも衣食住付きなんて待遇が良すぎる。やっぱり信じないほうがいいのかもしれない。しおりの中で光と闇が交錯し、それぞれが荒れ狂う波のようにせめぎ合った。

「……よし」

 メールに示された約束の日時は明後日の午後三時。まだ考える時間は残っている。他にやりたいことがあるわけでもない。

 しおりは身体を起こして窓際に移動し、閉じっぱなしにしていたカーテンを開け放った。

 燦々と照る昼の光が彼女の目を焼く。季節は春から初夏に移り変わろうとしていた。

 それから部屋を見回し、しおりは荒れ放題の惨状と窓横の姿見に映った自身の姿を認識してはぁ、と嘆息する。

「……髪はパサパサ、肌は荒れ放題、リップもガサガサ」

 女として、とか以前に人として誰かと会えるような状態ではなかった。もし奇跡的に家庭教師の話が本当だとして、自分の能力以外の理由で断られるようなことになったら……今度こそ、自分を許せなくなるだろうとしおりは思った。

 しおりは辛うじて喉を通りそうな素麺を火にかけつつ、風呂を沸かし始める。

 それが終わったら部屋の掃除とセルフケアをしなければ、と意気込んだ。

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