初恋の人が、男装で正体を偽った王女だった
この国、ラウゼル王国の王族には、他にはない珍しい慣習がある。幼少期の王族は身分を隠すというものである――
この国の繁栄を築いた王が『王族といえども驕るべからず』と言い出したのがきっかけで、年を経るごとにそれは拡大解釈され、今では、王族は成人するまで身分を隠し、生活することとなっている。
そして、今、国王陛下唯一のお子であり、未来の女王陛下である王女殿下も、身分を隠し、この国の何処かで暮らしている。
『ジェフリー・ウェスト』として生まれた俺は、ウェスト伯爵家の次男である。そして、今日、十六歳で、この国一番の名門であるラウゼル王国国立高等学園に入学した。
こう言うと、貴族としての王道を歩んでいるように聞こえるが、我が家は伯爵家なんて言っても名ばかりで、現伯爵である父の散財により、栄光は過去のもの。父が、学費が勿体ないと俺の入学を渋るところ、次期伯爵となる予定の兄が金を工面し、父を説得してくれ、何とか入学を果たしたくらいだった。
学び舎は、貧乏伯爵家出身の俺からすると、いっそ腹が立つくらい豪華絢爛で、制服があるとはいえ、通う生徒たちも自由が許されている装飾品に贅を尽くしている。
兄やウェスト伯爵領のために、ここでできることなら山ほどある。
学問を修めるのは勿論のこと、誰がどの貴族や有力商家の子息たちなのかを知り、どんな人物なのか、それぞれどんな関係を築くのか見極めること。これから、伯爵領の産物に価値を持たせるため、王都ではどのようなものが関心を集めたり、流行したりしているのかを把握すること。そして、俺は王女殿下と同じ年に生まれたので、同級生に身分を隠した王女殿下もいるはずだ。王女殿下と話せる仲となり、コネクションを作ることができれば最高だ。
何でもないように、生徒たちの輪の中に、自分も入るべきだと、頭では理解している。
それでも、学園生活を楽しもうと浮き足立った周囲の余裕ある雰囲気を目の当たりにすると、今も生家で資産を食い潰している父や、それを何とか阻止しようとしたり、尻拭いに追われたりしているであろう兄や兄の結婚相手を思い出し、華やかな学園の様子との落差に、妬ましく、捻くれた気持ちになってしまっていた。
気が重くなり、華やかな生徒たちから目を逸らすように、座ったまま、下を向き、机の上を眺めていていると、廊下にいた女子生徒から黄色い悲鳴が上がった。
何事だろうかと顔を上げると、教室のドアが開いた。入ってきたのは、サラリとした濡羽色の髪に、青みが掛かった黒色の瞳をして、整った顔をした青年だった。青年は堂々とした品位ある歩き方をしていて、制服はサイズがピッタリ合っているが、耳を彩る細長い青いイヤリングを除き、何の装飾品もつけていない。
青年は、教室を見渡し、ちょうど空いていた俺の前の席に座った。ただ、それだけなのに、教室は静まり返った。俺も含め、クラス中の人間の視線が、その青年に集まった。
周囲の視線を集めているにも関わらず、青年は特に気に掛けた様子もなく、後ろの席に座る俺に振り返り、微笑んだ。
「初めまして。私は『ライアン・ハイデルベルク』という」
「あ、初めまして。俺は『ジェフリー・ウェスト』だ」
この国では馴染みのない名字だった。貴族でも商人でも聞いたことがない。青年は、すぐにこちらの疑問に気付いたみたいで言った。
「この国からは遠く馴染みがないかもしれないが、メニクス国より留学してきた。分からないことだらけだ。色々教えてくれると有難い」
「そうか。よろしく」
ライアンがこの空間にいるだけで、空気が変わった。風が吹いたみたいだった――
「ジェフリー、放課後は何をするんだ?」
入学から数日経ち、授業後の教室で、ライアンが話し掛けてきた。
高貴で麗しい見た目で、皆の目を奪ったライアンは、授業が始まっても学問での優秀さを発揮した。特に語学は堪能で、本人に聞くと、母国の言語、留学先のこの国の言語、大陸共用語であれば、支障なく使えるらしい。
「街に行こうと思っている」
折角、王都にいるのだから、新しい技術や流行をおさえておきたい。本当は、王都に伯爵領から十分な人を送って、情報収集に当たるべきだが、伯爵領の予算は火の車だし、目先のことばかりに目を向ける父が、そんなところに金と人を掛けないだろう。だから、俺が王都の情報を兄に伝えれば、きっとウェスト伯爵領でこれからどういった商品を展開していくか、役立ててもらえるだろうと思った。
視線を感じ、ふと隣のライアンを見ると、何かを期待するように目を輝かせていた。この国の街に興味があるのかもしれない。
「……一緒に行くか?」
「ああ!」
ワクワクした様子を隠せない様子のライアンに、つい後先を考えず、聞いてしまったが、ライアンが乗ってきたところで、しまったと思った。毎日、人脈作りを意識していたから、今日は一人での休息も兼ねるつもりだったからだ。
やはり、また今度にしないかと言おうとしたが、子供のように出発を待ちきれない様子のライアンが目に入り、言葉に詰まる。
「ジェフリー、早く行こう」
「……別に街は逃げねえよ」
苦笑しながら、ライアンと共に、学園の門に向かう。
――まあ、いいか。留学して来たというこいつの視線は広くて勉強にもなるし。外国とはいえ、公爵家の血を引くと言いながらも、意外と気さくなこいつは、一緒にいて、肩肘張ることもない。
落ちぶれた伯爵家の生家を、他の貴族は侮蔑や嘲りの目でこちらを見た。商人は値踏みし、時に見下すようにこちらを見た。領民は縋り、そして、やがて失望するようにこちらを見た。隠そうとしても、どこかでその感情は態度に現れる。
そんな家の次男に生まれ、どうしても視線には敏感になった。
でも、ライアンからは、そういったものを感じない。物事に対してフラットで、先入観がない。値踏みされていると感じることもない。
――伯爵家の子として、実務に必要な知識と舐められない程度の教養を身につけ、今後、伯爵家を継ぐ兄の少しでも役に立つ人脈を築ければ十分だと思っていたが、俺は、思いがけず、友人まで得られたのかもしれない。
俺たちの学年で最も格が高いのは、身分を隠されている王女殿下を除くと、女性では、王妃陛下もご出身の隣国公爵家のアマレッタ様、次いで、辺境伯家のカラー様、ウィンルド侯爵家のご令嬢、そして、男性ではアーバスノット伯爵家の嫡男だった。なお、俺も生家の爵位こそ、アーバスノット伯爵家の長男と同じではあるが、嫡男ではないし、家も完全に没落している。
学園生活を送る中で明らかになったライアンの優秀さは誰もが認めるところであり、アーバスノット伯爵家の嫡男が、外国公爵家の庶子であるライアンをグループに引き入れようとしてもおかしくなかったが、そうはしなかった。恐らく、アーバスノット伯爵家の嫡男は、ライアンをグループに引き入れることで、ライアンがグループの中心になってしまうことを危惧したのだと思う。
なので、その後も、ライアンと俺は仲を深めた。そして、ライアンも俺も、領土の繁栄に燃える子爵家の嫡男であったり、王都の大手の商家の息子であったり、学者を目指す秀才であったり、個性豊かな他の面々とも仲良くなった。
でも、俺にとって、最も話しやすいのは、やはりライアンだった。
髪と瞳の色が王妃陛下と同じであり、どこか近寄りがたさすら感じる可憐な雰囲気から、身分を隠されている王女殿下は、辺境伯家のご令嬢を名乗るカラー様だと皆が思っている。俺もそうだと思っていた。
しかし、カラー様と話すきっかけを探る過程で、カラー様は王女殿下ではなく、本当に辺境伯家のご令嬢であるのではないかと思うようになった。
入学して一年が経ち、二年制のこの学園の卒業まで、一年を切っていて、王女殿下とのコネクションを求めるのであれば、急がないといけない。とはいえ、王女殿下の正体など、おいそれと口に出せる話題ではない。もし、王家や本物の王女殿下が、カラー様を王女と周囲に誤解させようとしているのであれば、俺が邪魔をすることになってしまうので、尚更だ。
行き詰った俺は、放課後、誰もいなくなった国立高等学園の豪華絢爛な教室で、ライアンに聞いてみた。
「なあ、お前は誰がこの国のお姫様だと思う?」
「さあ」
ライアンは淡々と返事をした。ライアンがこういった噂話に乗ってくることはほとんどない。そのことは知っていたけれど、続けた。
「つれねえなあ。皆、正体を隠した王女殿下はカラー様だと思っているだろ。でも、そうでないっていう証拠を掴んだんだ」
こちらの話にピクリと耳を動かすと、ライアンは視線をよこした。ライアンは黙ったままだったが、多少は興味があるらしいと判断し、話を続けた。
「カラー様は辺境伯領のご令嬢であり、都からは遠方ということで、これまで社交界には姿を見せていなかった。なのに、礼儀作法は完璧。更に、髪の色は亜麻色、瞳の色は緑で、共に現王妃と同じ色だ」
皆が、カラー様が王女殿下と思っている中、これから言うことは、その想定を覆すことになる。口にすることは少し緊張した。
「先日、カラー様の乳母をしていた女性と知り合ったんだ。女性の話では、カラー様は、確かに辺境伯夫人が産んだお嬢様のようだ」
「確かなのか?」
「ああ。歳を取って、都にいる息子のところに身を寄せることになったと言っていたが、辺境伯領の話も詳しかったし、辺境伯の人となりも知っていたから、間違いないと思う」
周囲に誰もいない中ではあったが、声を落として続けた。
「となると、誰が王女殿下かだが、俺はアマレッタ公爵令嬢ではないかと思い始めた」
隣の公国の公爵令嬢であるアマレッタ様は、公国から嫁いでいらっしゃった現王妃陛下の姪という縁で、この学園に留学された。アマレッタ様が身分を隠した王女殿下だとすると、公表されている身分が少し王族と近過ぎるのは気に掛かるが、その高貴な立ち居振る舞いは、カラー様とは異なった方向で王女と言われても、十分に納得させるものだった。
しかし、どうしても引っ掛かることがある。
「でもな、その仮説にも弱点がある。公国の貴族と話す機会があったんだが、アマレッタ様は、幼い頃から公国の社交界に顔を出していたんだと。この国の王女だとしたら、そこまでするか?」
入学以降、この学園に入学した生徒については、全て頭に入れた。そして、カラー様が王女殿下ではないかもしれないと疑うようになってから、女子生徒について更に調べた。でも、学園に入学するまで、それぞれの人生を生きてきた痕跡があった。
「俺の見立てだと、この学園に、王女殿下と考えて、矛盾がない女子生徒がいない。王女殿下は、何か重大なことを偽っているのでは?」
「……例えば?」
「うーん、そうだな。入学年次とか……」
俺の言葉を聞いた後、ライアンは軽やかに笑った。
「はは。その辺りで済めばいいな。現国王陛下は、この国立高等学園ではなく、財界と国民の熱意により建てられた総合教養学院に通って、度肝を抜いたんだろう」
「あああああああ、それを言うな! 全く一から考え直さないといけなくなるじゃないか」
全てをひっくり返す話を持ち出され、頭を抱えた後、ぶつくさと言った。
「でも、この学園にはいるはずなんだよな。国王陛下の青年期は、国として更に力をつけるため、国立高等学園の競合を求めていて、私立の学校を応援したい意図があった。仲が良好で優秀な弟が学園に通い、貴族との人脈を繋ぐこともできた。でも、国王陛下の唯一のお子であり、次代の王の王女殿下まで、国立高等学園に通わなければ、国立高等学園の権威が下がってしまうし、貴族の求心力も……」
放課後で、我々の他には教室にはもう誰もいなかった。ライアンが立ち上がり、声を掛けた。そろそろ、寄宿舎に戻ろうということなのだろう。
「推理を披露して気は済んだか、名探偵? でも、その辺りにしておけ。それに、王女殿下が誰であるか暴いても、我々の行動に何も変わることはない。女性には等しく紳士的に対するものだろう」
どこまでも正論を言うライアンに言葉に詰まりながらも、何とか言葉を返した。
「……へいへい。綺麗ごとを言う。流石、貧乏伯爵家の俺と違って、公爵家のご子息は言うことも立派ですね」
真正面にいるライアンは、外国の公爵家の血筋で、でも、私生児であることから、厄介払いのようにこの国に留学することになったなんて、自分では言っている。しかし、その姿はどこからどう見ても、女の子が好む本に出てきそうな王子様だ。
「容姿の良さだけじゃなくて、お前のそういうところがモテるんだろうなー」
ぼやき始めた俺に、ライアンは苦笑した。
「皆、学園卒業後に現実と向き合わないといけないから、地に足着いていない私が眩しく見えるだけで、猶予期間の気の迷いだろう」
二学年制のこの学園で、二年生である俺たちは、卒業まで半年を切っている。あと半年で、学園を卒業し、領地に戻ったり、王宮で働いたり、外国に旅立ったり、生徒たちはそれぞれの道を行く一方、ライアンの今後は、本人にのらりくらり躱され、はっきりしない。生徒たちもああだこうだと噂して、高等遊民になるという噂が一番信じられている。
とはいえ、お嬢様育ちがほぼ全員のこの学園の女子生徒が、自由というだけで、身分や立場を捨てる覚悟をするとは思わない。ライアンには、ついていきたいと思わせる力があった。
「それだけじゃないと思うけど。ライアン、最近も、ウィンルド侯爵家のお嬢様から告白されたんだろう?」
「……お前はどこから情報を仕入れてくるんだ?」
恐らくライアンとウィンルド侯爵家のお嬢様二人の秘密のつもりであったのだろう。
いつも冷静な友人の表情が動いたのを見て、得意な気分になった。
カラー様が王女殿下ではないのではという疑いを持ち、一学年下の女子生徒も探ってみたが、王女殿下と思しき生徒はいない。結果的に、変わらない日々を過ごしている。
授業が終わり、いつものように、ライアンと共に校舎から寄宿舎に向かった。そこで、緊張したような女性の声に呼び止められた。
「ライアン様、お話が……!」
振り返ると、もじもじとした様子の女子生徒がいて、ライアンと共にピンときた。ライアンが少し申し訳なさそうに俺に断った。
「ジェフリー、悪い。先に帰っていてくれ」
「ああ」
もう、これだけで、女子生徒がライアンに告白に来たということをお互い察せてしまった。この学園に入るなり、この友人は、この学園で女性から一番の人気を誇るようになった。
二人の邪魔にならないよう、一人で寄宿舎に向かってしばらく歩いた後、ふとライアンがいるであろう方向を振り返った。それで、ライアンの後ろ姿と、ライアンを前に顔を赤くする女子生徒が目に入った。
同級生同士の甘酸っぱい光景のはずなのに、何だか面白くない。実を言うと、ウィンルド侯爵家のご令嬢が、ライアンに告白したと聞いたときも、同じような気持ちがした。出会った頃は、こうではなかった気がするのに。
心がささくれ立ったような心地になり、すぐに寄宿舎の自室に行く気にはなれず、中庭で気持ちを落ち着けることにした。
中庭のベンチに座った。先ほど見た女子生徒は、恥ずかしくてたまらない様子で、でも、一生懸命、ライアンに想いを伝えていた。ああいうのを恋しているというのだろう。
――でも、この学園の卒業後のこともはっきりしないライアンが、そうした女性の想いを受け入れることはあるのだろうか。
少なくとも、公表されている中で、ライアンのように、この国に貴族家の私生児という立場の人間はいない。ライアンの母国では、公爵家の私生児はどのような扱いを受けるのだろうか。本人に言わせれば、厄介払いのようにこの国に留学することになったということだけど。
ライアンは、自分の卒業後のことについては、卒業の時に伝えると言って、皆にも俺にも教えてくれない。
卒業後は、公爵家に飼い殺しにされるのではなく、公爵家を追放されて、平民になるなんてこともあるのだろうか。でも、そうであれば、俺達には平民の友人もいるし、俺自身も、貴族らしい格調高い生活を送る余裕がなかった貧乏伯爵家の出だ。卒業後まで隠すこともないだろう。
であれば、逆に、庶子の子であっても、公爵家を継ぐとか? それで、外国の次期公爵になることが分かると、付き合いを、俺を含め、友人たちが遠慮すると思っている? いや、仲間は、外国の次期公爵との繋がりができるなんて、歓迎する無遠慮な連中ばかりだろう。
他にも、この国で働くこと、外国に行くことなど、色々考えてみたが、ライアンが卒業後を隠す理由として、どれもしっくりこない。
考え込んでいるうちに、気持ちが落ち着いてきた。埒も明かないし、卒業のとき、ライアンからこれからのことを明かされるのを待つだけか。
今度こそ、寄宿舎に戻ろうと、立ち上がったところで、中庭の端の樹の後ろに艶やかな黒髪が揺れるのが見えた。ライアンに違いなかった。何故、人目に付かないようなそんなところにいるのかは分からないが、先ほどの女子生徒との話は終わったのだろう。
声を掛けようと近付き、ライアンが誰かと一緒にいるのに気が付いた。そして、相手を見て、言葉を失った。
樹に隠れ、ライアンが話していたのは、カラー様だった。
真偽のほどは分からないが、カラー様は、皆から王女殿下だと思われている。それは、髪と瞳の色が王妃陛下と同じであるだけでなく、可憐でお淑やかな雰囲気にもあった。
そんないつも控えめな微笑みを浮かべられているカラー様が、ライアン相手に無邪気に笑い、そして、ライアンも、いつも女性に接しているより、少しはしゃいだ顔で微笑み返した。
その光景を見て、何故か息が詰まるような心地がした。踵を返し、今度こそ、寄宿舎の自室へと真っすぐ向かった。
自室に戻っても、心臓は早鐘を打ち、息苦しくなるような気持ちは変わらなかった。苦しさが何によるものなのなのだろうかと考える。
これまで、女性に話し掛けられるライアンなら山のように見てきた。でも、ライアンは、決して特別な女性を作らなかった。その揺るぎなさは、一番、仲の良い俺との仲を疑われるくらいだった。
でも、先ほど、カラー様とライアンが一緒にいた光景はどうだろうか。国一番と言われる名門校で、最も女子の人気が高い貴公子と、王女殿下と噂され、学園中にそれを納得させるご令嬢だ。似合わないはずがない。恋愛小説の挿絵を抜き出したようだった。
何故、二人は一緒にいるのか。ライアンは、元からカラー様と知り合いだったのか。なら、何故、それを隠すのか。ライアンは、カラー様が王女殿下かどうかを知っているのか。
カラー様とライアンが親しい様子で一緒にいたことで、考えることは色々ある。なのに、二人が一緒にいる光景を見て、俺の心を占めたのは、焦燥と、どうしようもない『羨ましさ』だった。
――でも、羨ましい?
ライアンが女性に人気があることなんて、最初から分かっていたはずだ。今更、驚くこともない。女子生徒に告白されるライアンを見ても、すごいと思うだけで、羨ましい気持ちにはならなかった。今も、カラー様と親しげなライアンに嫉妬する気持ちはない。つまり、今、俺が、羨望の念を向けているのは、ライアンではなく――
「カラー様が羨ましい? 嘘だろ……」
自らの感情が整理されると、呆然とした。
それからしばらく経ち、ライアンの元に行き、誘った。
「街に行かねえ?」
声を掛けたのは、いつものように王都の様子を知りたいからというだけではなかった。
先日、カラー様とライアンが共にいる光景を見てから考えた。やはりカラー様に嫉妬のようなものを感じてしまったのは、何かの気の迷いだろう。誰かに恋したことはないが、ライアンに会う前は、女性に好意を持つことだってあった。
ライアンを友人として好ましく感じ、思い入れを持ってしまったことと、卒業で離れることを惜しむ気持ちが混じり合い、俺は少しおかしな方向に拗らせているかもしれない。ライアンと友人として出掛け、出会った頃を思い出し、初心に戻ろうというつもりだった。
こちらの内心を知らないライアンは、俺の誘いを軽やかに受けた。
「いいな」
こんな高貴な出で立ちをしていながら、好奇心旺盛なこの友人は、庶民が住む気さくな下町の雰囲気も好んでいる。容姿に優れ、頭も性格も良い。なのに、心安い。そんなライアンに惹かれてしまうのは仕方ない。でも、それは、恋愛の対象としてではない。
今日はそのことを確認するのだと心に決め、教室から出て行こうとしたところで、残っていた男子生徒二人がわざとこちらに聞こえるように言った。
「継ぐものがない奴らは気軽でいいな」
「婚約者もなく、一緒に行ってくれる女がいないから、男同士で群れるしかないのは哀れだけど」
声の主は、豊かな領地を持つアーバスノット伯爵家の長男と、隣にいるのはアーバスノット伯爵家の子分といえるナッサウ子爵家の長男だった。
貧乏伯爵家次男の俺は勿論、ライアンは外国公爵家の私生児で、婚約者はいない。俺たちを揶揄しているのは明らかで、二人の方を向いた。
「何だと」
「事実だろう」
詰め寄る俺と嘲笑う二人の間に、ライアンがさっと割って入った。
「ジェフリー、いい。行こう」
止めに入ったライアンも、ナッサウ子爵家の長男は嘲笑った。
「おっ、女はいなくても、相手にしてくれる男はいたみたいで良かったな」
特にアーバスノット伯爵家の長男は、同級生の中で、最も家格が高い家柄でありながら、自分より目立つライアンに嫉妬して、陰に陽にライアンの適当な噂話を流していた。これまで良い感情を持っていなかったこともあり、食ってかかりそうになったところで、ライアンが俺を引っ張った。
腹を立てている俺を教室から出しながら、ライアンは二人に向かって振り返り、一言だけ言った。
「君達の発言は、私達ではなく、自分自身の品格を落としている。控えるのが良いだろう」
ライアンは、冷ややかささえ感じる落ち着きをもって、たった一声で、相手を黙らせた。
繁華街へ行くため、学園から乗り合い馬車に乗った。ライアンは、まだ苛立つ俺の背をポンと叩いた。
「落ち着け。相手にするほどのことでもない。貴族と思えない物言いに呆れはするが」
「心広すぎか。怒れよ」
とはいえ、少し時間が空き、冷静さが戻ると、下手をしたかもしれないとも思った。豊かな領地を持つアーバスノット伯爵家の跡取り息子とその子分に、喧嘩を売ってしまった。
それはライアンもだが、先ほどの言い返した内容といい、どこか高みから見下ろしている。いちいち、つまらない人間と同じところに下りて来たりしない。俺が突っかかることに意味なんてなかったかもしれない。
――でも、あの時は、友人へのつまらない侮辱に黙っているなんて嫌だった。
「……あいつら、影でもお前の出自のこととか話している。恐らく、お前が女子生徒に人気があることへのやっかみもあるのだろう」
嫌な気分にさせるかと少し心配しながら、奴らへの注意を呼び掛けるつもりで話したが、ライアンは腹を立てるでもなく、俺の言葉を聞いて、何故か楽しそうに笑った。
「はは。モテる人間は辛いなあ」
「だから、怒れって。どこからその余裕が来るんだよ」
ライアンと話している間に、気持ちも落ち着いてきた。馬車は街の繁華街の入口に着いた。市場も開かれているので、老若男女が集まるが、いつもより更に賑わっているように見えた。冬の寒さも多くの人の活気に押されているようだ。
隣にいるライアンを見ると、人の多さに圧倒されていた。いつも冷静なライアンが目を丸くしているのを見て、愉快な気持ちで知らせた。
「もうすぐ花祭りだから、準備で賑わっている」
「なるほど。それは楽しみだな。当日も一緒に行くか?」
当たり前のようにライアンに誘われ、面食らった。
春を迎えるために冬の終わりに開かれる花祭りは、子供のため、もしくは、カップルのための祭りだった。そこにライアンと二人で行く?
想像すると、カッと耳が赤くなるのを感じ、咄嗟に否定した。
「ばーか! カップルが溢れるんだぜ。男同士で行けるかよ」
「そんなものか?」
ライアンは意外そうに言った。言葉が堪能だから失念していたが、外国生まれのライアンにとって、年頃になったら、花祭りは男女で行くものという認識がないのかもしれない。
それだけのことなのに過剰反応してしまった自分を恥ずかしく思いながら、それをごまかすように言い切った。
「当たり前だろう。男同士で行ったって仕方ないだろうが」
俺の言葉を聞いて、ライアンは少し考え込んだ。誰か誘える女性がいるか考えているのだろう。
しかし、ライアンは顔を上げて、まっすぐにこちらを見て、言った。
「いや、やはり私はジェフリーと行きたい。楽しそうだ」
ライアンの言葉をポカンと聞いた後、他意などないとわかっているはずなのに、今度は耐えられず、顔が赤くなるのを感じた。
「なっ、何を言っている……!」
こちらが焦っているのは分かるはずなのに、いつものように余裕のある微笑みを浮かべたライアンは、更に一歩踏み出してきた。
「お前と祭りに行きたいと言ったんだ」
そして、ライアンは俺の顎をくいと指で上げ、目と目が同じ高さで合った。こんな気障な動作を、男相手にしているというのに、瞳を所在なく動かしてしまう。場の雰囲気にのまれそうになるのを何とか耐える。
これ以上、下世話な噂話を耳に入れたくはないけれど、ライアンを止めるつもりで言った。
「止めろよ。お前は知らないんだろうけれど、お前と俺の仲が怪しいという噂まであるんだぜ」
積極的に噂を流しているのは、例によってアーバスノット伯爵家の長男とナッサウ子爵家の長男だが、何故か、陰で女子生徒までその噂で盛り上がっているらしい。女子生徒たちは悪意があるというより、ミステリアスなライアンが、どの女子生徒にも靡かないことから、想像の世界で楽しんでいるものではあるようだが。
これまで、あまり気にしていなかったが、カラー様に嫉妬を感じてからは、自分がライアンに邪な思いを抱き、それにライアンを巻き込んでしまっているのではないかと恐れるようになった。こんな噂があることで、ライアンは気を悪くしないだろうか。
しかし、特に気にした様子もなく、ライアンは答えた。
「ああ。それなら、私も聞いたことがある」
「知っているなら、何で平気なんだよ!」
まさか噂を知っているとは思わず、慌てるが、ライアンはいつものように軽やかに笑った。
「人は噂が好きだからな。お互い、婚約者もいない身だし、好きに言わせておけばいいだろう。可愛い女子生徒も楽しんでいるらしいし」
「心が広すぎだろうが!」
話に力が入り過ぎて、ライアンに更に近付いてしまった。そこで、少し離れたところで壁に凭れ掛かり、新聞を読んでいた男性が、距離を詰めてきたのが目に入った。男性は目立たない薄茶色のジャケットを羽織り、特徴のない、新しくも古くもない茶色の靴を履いていた。
違和感を覚え、ライアンの手を引き、ライアンの耳に口を寄せ、囁いた。
「ついてきている奴がいるぞ」
俺の言葉を聞いて、ライアンは、一瞬、目を見開いたものの、すぐに一歩、俺から離れると、いつもの落ち着いた調子で言った。
「多分、私の関係者だ。気にしないでくれ」
目を丸くしたのは、今度は俺の方だった。豊かな貴族の子息で、侍女や傍仕えを学園に連れて来る人間はいた。でも、ライアンのそれは、侍女や傍仕えと毛色が違う。それに、尾行されていることを、ライアンは驚いてもいないことも気に掛かった。
「マジかよ。お前、公爵家の跡取りではないんだよな?」
「ああ」
公爵家の跡取りとして、要人として警護をつけられている可能性を考えたが、ライアンはあっさりと否定した。
「誰かにつけられているということは、公爵家で難しい立場にあるのか?」
「……お前に危害を加えないことだけは誓うよ」
その声は淡々としていて、これ以上、ライアンは状況を説明してくれないのだろうと察した。ライアンにとって、この状況は、もう受け入れているものなのだろう。
何か言えない事情があるのだろうと理解はする。それでも、話そうとしないことへのもどかしさで、顔を顰めてしまった。
俺の表情を見て、ライアンは苦笑してから、話を変えた。
「そういえば、先日は、王女殿下の正体を推測していたが、王女殿下がどなたか分かれば、どうするんだ」
「別にどうもしねえよ。単純な興味だ」
「嘘だな。お前は色々な相手から相談を持ち掛けられているが、無責任に確証のない噂話を誰かにしない。どうしても自分の考えを確認したくて、やむなく、口の堅そうな私に言ってみたのではないか?」
あっさりと見透かされて、言葉に詰まる。
もし、これを言えばどうなるのか。自分の弱点を晒すことになる。王家を利用しようともしかねない発言で、不敬とも受け取られかねない。兄や兄の結婚相手やウェスト伯爵領にも迷惑が掛かるかも――
でも、自分のことも話さず、相手のことを知ろうだなんて、虫のいい話だ。それに、ライアンが友人を利用しようとするような奴ではないだろう。
覚悟を決めて、口を開いた。
「……領地のことを相談したい。ウェスト伯爵領は、決して貧しくない。なのに、領主である俺の父が、税収を使い込んでいる。これから跡を継ぐ兄貴だけに任せるのは悪い」
「そうだったのか」
「貧しいといっても、悪事を働いているわけではない。領土の統治は尊重される。伯爵家の後を継ぐ兄ですら、父を諫めるくらいしかできていない。俺は勿論、兄ですら実権がない。
でも、この学園に通うことになった。多くの知己を得て、伯爵領の改善のアイディアもいくつか考え付いた。もし、王女殿下と知り合えれば、何か相談に乗ってもらえないかと――」
少しの沈黙が落ちた後、ライアンは俺の肩をポンと叩いた。
「そうか。領土や兄のためによく頑張ったな」
「……何の成果も出せてねえけどな」
「そう言うな。天は見ているものだ」
その声の優しさに、何も言えなくなった。
結局、ライアンが珍しく駄々をこね、花祭りにはパートナーがいない学園の友人たちと共に行くことになった。
街に出ると、いつもよりめかし込んだライアンは、男性同士で行っていることなど霞むくらい、街中の人間の目を奪った。
ライアンと俺の仲が疑われることを懸念したのが恥ずかしくなるくらいだった。照れ隠しで言った。
「お前、その雰囲気、どうにかならないのか? どうからどう見ても、貴公子だ」
「はは、別の友人にも言われたことがある。でも、これが私だからな」
ライアンが不義の子であることは知っていて、それについて深く詮索したことはなかったけれど、ライアンの母親は絶世の美女なのだろうなと想像した。
別の友人に呼び掛けられ、微笑みを浮かべ、話すライアンの耳元で、細長い青い石で彩られたイヤリングがゆらゆらと揺れた。目を離すことができず、じっと見つめながら、ライアンの瞳もよく見ると青色が混じっていたなんてことをぼんやりと思った。
ふと後ろから鈴を転がすような声が聞こえた。
「あら、皆様」
振り返ると、そこにはカラー様とアマレッタ様がいた。お忍びなのか、お二人共、いつもより落ち着いたデザインのドレスを召されていた。
王女とも噂され、そうでなくても、高位貴族のお二人の登場に驚いていている中、ライアンがにこやかに誘った。
「お二人も花祭りに? 良ければ一緒に回りませんか?」
突然、ライアンが言い出したのに皆がギョッとしたが、カラー様はアマレッタ様の後ろで可憐に微笑まれ、アマレッタ様は平然とライアンの誘いを受けた。
「あら。よろしいのですか?」
驚いたものの、友人同士で祭りに来ていて、一緒に祭りを見て回る同級生が増えたところで問題があるはずもない。同じ学校に通っていて、こちらからお近づきになるきっかけもなかった華やかなご令嬢であれば尚更だ。
皆で、花祭りを見て回ることとなったが、ライアンと同じで、身分を隠してもやはり華やかなお二人が加わり、ますます周囲から目を引くようになった。
カラー様が俺たちに質問された。
「街にはよくいらっしゃるのですか?」
「あ、はい」
王女殿下と噂され、それを納得させるくらい綺麗な令嬢相手に、皆が緊張しながらも答えた。カラー様はにこやかな態度で俺たちに接し、少しずつ場の雰囲気にも慣れてきた。
そういえば、カラー様とライアンが、親しげな様子で一緒にいたのを見たことがあった。さらりとライアンはカラー様をお誘いしていたが、やはり、もともと知り合いなのだろう。なら、何故、教えてくれてないのだろうか――
そんなことを考えていると、後ろでアマレッタ様の声が聞こえた。その声は小さかったが、厳しく、そっと振り返ると、アマレッタ様が、ライアン相手に詰め寄っていた。
何かあったのであれば、間に入ろうと二人の様子を垣間見るが、ライアンが慣れた態度で何か言葉を返すと、アマレッタ様はまじまじとライアンを見て、そして、二人でこっそりとおかしそうに笑った。
アマレッタ様も、かつてライアンと一緒にいたカラー様も、ライアン相手には何処か気を許しているように見えた。アマレッタ様はライアンに対し、弟に注意するような口調で話し、ライアンはそんなアマレッタ様を甘えたように見た。
カラー様とライアンが一緒にいた雰囲気とはまた別で、でも、二人の様子も親密さを感じさせ、何より、よく似合っていた。
その光景に、ライアンと仲がいいのは俺だけではないのだと理解させられるようで、ぎゅっと胸が締め付けられるように苦しくなった。それは、ライアンとカラー様が笑い合っていた景色を見た時と同じだった。
――何故、そんな風に感じてしまうのか。理由は、もう否定しようがなかった。
花祭りからしばらく経ったある日、珍しく王都に来た兄から呼び出された。学園の卒業が、近くなっていた。
俺の卒業後の話であればいいが、父がまた不始末を起こしたのかもしれない。どんな用件か、戦々恐々で、王都にあるこぢんまりとした伯爵家のタウンハウスに向かった。
しかし、久し振りに会った兄は明るく、晴れやかですらあった。
「学園生活はどうだ?」
まずは、気を重くする話ではないのだろうと安堵した。
「手紙にも書いているけれど、成績は悪くない。様々な知人もできた。卒業後に、俺も伯爵家の役に立てると思う」
「それだけじゃなく、楽しく過ごしているか?」
にこやかに聞かれ、一瞬、言葉に詰まった。兄と兄の結婚相手が学費を捻出してくれているのに、自分だけ楽しむことに何処か罪悪感があった。
それでも、学園生活を楽しんでいるかと聞かれたら、答えは一つしかなかった。
「……楽しんでいるよ」
「それは良かった! お前は、家のことばかりで、自分のことを二の次にしやすいから、心配していたんだ」
心から安心したように兄が笑い、そんな心配をさせていたのかと虚を突かれた。俺の顔を見て、兄は笑った。
「何だ、そんな驚いて。可愛い弟に楽しく学園生活を送ってほしいのは当然だろう。知らなかったのか?」
兄は安心させるように続ける。
「それに、私だって学園生活は楽しんだ。将来の伴侶を見つけのも、学園だったし」
「ごめん。そういう出会いはない」
苦笑しながら答えると、兄は「そこは頑張れ」なんて冗談めかした後、言った。
「お前は、もっと気楽になっていいんだ。継がせてやる家もないんだし」
「……兄さんは、継ぐ家のことで苦労しているくせに」
兄の優しさが身に沁み、辛うじてそれだけを返した。でも、兄は高揚した様子で口を開いた。
「それが、とうとう片が付くかもしれない。父のものだった爵位を、私が受けることができそうなんだ」
突然のことに耳を疑い、兄が騙されているのではないかと思ったが、その話は本当だった。
何故か、王家が伯爵家の財政悪化に目をつけ、その元凶となった父に、爵位の譲渡を迫ったらしい。そして、兄が王都にやって来たのも、王家に代理として指名された宰相閣下と、そのことを話し合うためだった。
翌日、宰相閣下との面会に俺も参加して良いということで、俺まで宰相閣下にお目に掛かることができた。切れ者と名高い宰相閣下は、見た目は好々爺といった容貌だった。
宰相閣下からは、ウェスト伯爵家の歴史と本来のその領地の豊かさを称えられた。そして、ウェスト伯爵領の発展は国にとっても有益であるにも関わらず、現在の伯爵、つまり、俺たちの父はその責を十分に果たしているとは思えないと指摘を受けた。そこで、現伯爵である父を隠居させ、兄が伯爵位を継ぐことを提案された。更に、新たに伯爵位を継ぐ兄に何か困ることがあれば、宰相閣下自ら相談に乗ることまで提案いただいた。
宰相閣下、ひいては王家が、事実上、兄が率いるウェスト伯爵領の後ろ盾になるということだった。兄から事前に聞いていたが、これ以上望むべくもないほどの提案を、兄は有難く受け、俺も胸を熱くさせながら、頭を下げた。
「ジェフリー君」
「はい……!」
更に詳細を詰め、話も一区切りつき、ほっと胸を撫で下ろしていたところで、宰相閣下に名を呼ばれ、緊張した。
「君に婚約者はいないようだが、恋人はいるのかい?」
宰相閣下からの思い掛けない質問に、まっすぐの黒髪に、青色が混じる黒い瞳の人間の顔が浮かんだ。浮かんだ姿を振り払い、答えた。
「……いいえ」
俺の答えを聞いて、宰相閣下はにこやかに言った。
「伯爵家にとって間違いがなく益があり、素晴らしい女性を知っている。君の卒業後に紹介したい」
それは、間違いなく、見合いの勧めだった。宰相は、婿に入ることになるなどの条件を簡単に説明した後、その女性が如何に素晴らしいかを褒め称え続け、兄は、色気のない俺に降って湧いたような話に色めきだった。
翌日、放課後の学園で、周囲に人がいないことを確認し、ライアンに詰め寄った。
「ライアン!」
「何だ? 花祭りの思い出話でもしたいのか? 楽しかったな」
「楽しかったけど、そうじゃなくて、お前、何かした?!」
「何のことだ?」
いつも俺や友人に向けるのとは違い、訓練された本心を読ませないアルカイックスマイルを浮かべ、ライアンは惚けた。表情からライアンが何を考えているかは分からなかったが、何か手掛かりを探して、ライアンを凝視した。
「ウェスト伯爵領に王家からの監査が入ったんだよ。父の浪費が明るみになって、代替わりを早めることを提案されている。経験不足の兄が伯爵になるに当たり、宰相閣下が後ろ盾になることまで提案されている」
「良かったな」
「おう。……じゃなくて、これまで何もなかったし、目に見えるような悪事があったわけではないのに、ここまで王家に目を掛けられるなんておかしいだろう。お前、王家にコネクションがあるのか? もしかして、王女殿下の正体も知っているのでは……?」
ライアンが何も言わずにただ微笑むのに、悶絶した。
あれから考えたが、外国で庶子とはいえ、ライアンが公爵家の血筋であれば、この国の王家と交流があるのかもしれない。そして、ライアンとカラー様やアマレッタ様の親密な様子を思い出すと、お二人のどちらかが王女殿下で、ライアンがどちらかに口利きをしてくれたとか――
「どなたなんだ?! アマレッタ様か? カラー様か? それとも他の誰かなのか?
成人されれば正体も明かされる予定だし、あと一か月で正体も分かる。ああ、でも、どなたでもいい。
俺、卒業後は王宮勤めを目指す。それで、恩義に報いる」
はしゃぐ俺に、何故か少し居心地が悪そうにライアンが言った。
「そんなに浮かれるな。こういうことには、裏があったりするものだからな」
ライアンには、何か後ろめたいことがあるようだ。
今回の件で、ウェスト伯爵家は完全に王家に忠誠を誓うことになるだろう。王家の手駒を増やす必要があり、ウェスト伯爵家に声をかけたとか、ウェスト伯爵領近くの何処かに牽制したい貴族家があるとか、何か俺たちが知らない王宮の事情が絡んでいるのかもしれない。
でも、迷いなくニンマリと笑った。
「正面から否定しないことで、お前が一枚噛んでいるのは分かっているんだからな。そして、お前が絡んでいる以上、そんな悪いようになるかよ」
そして、もうこれで十分だ、と思った。
何か思惑や取引があったとしても、ライアンは、正体を隠すことになっている王女殿下に掛け合ってくれた。ライアンが、俺に友情を感じ、一肌脱いでくれたというのなら、俺もそれに応えよう。
「それに、俺には見合い相手を紹介してもらえそうなんだ。父が家を傾けたから、我が家と縁付きたいという相手はほぼいない。兄貴はこの学園で知り合った相手と恋仲になり、婚約して、それ自体は良かったが、我が家に有力貴族との縁は薄かった。宰相閣下が状況を知り、俺と伯爵家のためになる相手を考えてくれるらしい」
「お前は、兄君のように好きな相手はいないのか?」
宰相閣下に見合いの話をいただいたとき、真っ先に、姿が浮かんだのは、目の前のライアンだった。そのライアンに聞かれ、『お前に好意を持っている』とも言えず、歯切れが悪くなる。
「うーん……。まあ、憧れている相手はいるけれど……」
――でも、友情を壊したいわけではない。
ライアンと出会う前は、年頃の男らしく、女性に興味もあった。宰相閣下が、太鼓判を押すような女性だ。恋愛感情から始まるものではなくても、お互い、信頼し合い、愛情を持てる関係を築けるように努力する。
吹っ切るように笑顔で答えた。
「でも、相手は俺のことなんかどうも思っていないだろうし。家のためにもなり、宰相閣下から機会を与えていただけるのであれば、ご縁を大事にしたいと思っているよ」
話も一区切りついたので立ち上がり、二人で寄宿舎へ向かうことにした。
校舎と寄宿舎の間の中庭を歩いている途中、卒業まであと二か月だと思い出し、ライアンに聞いてみた。
「もうすぐ卒業式だけど、お前、卒業式後のダンスパーティーは参加するんだよな?」
「いや、実のところ、どうしたものか迷っている」
言い出したのは、ライアン自身の思い出を作って欲しいという気持ちだけでなく、下心もあった。
昨年は、卒業式後のダンスパーティーでライアンにパートナーになって欲しいという女子生徒が多く、列をなしていた。結局、ライアンはダンスパーティーには欠席した。
俺が「女子生徒とのいざこざを避けるためか?」と聞くと、ライアンは「そうではなく、一身上の都合というやつだ」なんて答え、煙に巻かれた。混乱を避けるためなのか、面倒だったのか、本当にもしかすると、心に決めた女性がいたのかは、よく分からない。
でも、今年は、可愛く着飾った女性を、誰より格好良くエスコートして、本来、こいつの隣にいるべきはそういう女性だと理解したい。俺ではないと思い知りたい。
そして、気持ちに区切りをつけて、宰相閣下が紹介してくださる女性に対して、誠実に向き合いたい。
内心、縋るような気持ちで説得を続ける。
「お前、去年も参加しなかっただろう。女子生徒が落胆していたぞ。今年は卒業なんだし――」
次の瞬間、ピリリと思いつめたような視線を感じ、咄嗟にライアンの手を引いた。そして、ライアンを庇った俺は、何故か突然飛んできた水を被った。ライアンは無事だった。
水が飛んできた方向を見ると、ウィンルド侯爵家の令嬢がいた。ライアンに告白してきたことがある相手だった。
「ごめんなさい。花の手入れをしようと水を持ってきていたところ、躓いて……。どうしましょう……。ああ、そうですわ!!」
俺に水を掛けてしまい、困り切った顔をしていた彼女だが、何かに閃いたように、ライアンと俺の手を取ると、中庭にある石積みの小屋へと連れ込んだ。その小屋は、庭園の管理人が使用しているようで、農機具や植物の種が入っていると思われる袋などが、所狭しと置かれていた。
「ここは……?」
彼女はライアンの疑問には答えず、一直線に水を被った俺のジャケットに触れた。
「ああ、びしょ濡れですわね。今、着替えを持ってきます」
「いや、そこまでしなくても。寄宿舎もすぐそこだし……」
「いえいえ。私がご迷惑をお掛けしたのですから、ご遠慮なさらないで」
彼女は驚く強引さで、濡れた俺のジャケットに手を掛け、奪った。
「私、園芸が趣味で、小屋の存在を知っておりましたの。どうぞこちらでお待ちになって」
そそくさと彼女が立ち去り、ドアが閉まると同時に、ガチャンと鍵が掛かる音がした。
「ライアン様、ジェフリー様とどうぞお幸せに!」
「え?」
鍵が掛かる音と彼女の声を聞き、ライアンがすぐさまドアノブを回したが、ドアは開かない。
そして、ドアの向こうから、嘲るような男性二人の声が聞こえた。
「妾腹の子と貧乏人の子同士、お似合いだよ」
「感謝して、仲良くやれよ!」
声の主は、同級生であるアーバスノット伯爵家の長男とナッサウ子爵家の長男だった。
走り去る足音を聞きながら、苛立ちと焦燥を同時に感じた。でも、状況が理解できると、悔しく思いながら、大きな溜め息を吐いた。
「やられたな。ライアンと俺に体の関係があると噂を流すつもりだろう。悪い、ライアン。巻き込んだ」
「別にお前がターゲットとは限らないだろう」
「いや、あの女子生徒はお前と俺との関係を誤解しているのを付け込まれたのかもしれないけれど、あいつらの狙いは、多分、俺だよ。
早くも、俺が宰相閣下から婚約相手を紹介いただけると噂になっているみたいだから、僻んだんだろう。格下と思っていた俺が、もしかすると自分たちよりいい相手と縁付くかもしれないんだからな」
噂に加え、卒業後、紹介していただけるという相手に誤解されないよう、俺をフリーだと思い、卒業パーティーでのパートナーにと声を掛けてきた女子生徒からの誘いを断ったことも、奴らが噂を信じることに一役買ってしまったかもしれない。
ライアンは、さも意外そうに聞いた。
「そんな理由で、わざわざこんなことをするか?」
「間違いない。何せ、宰相閣下が俺の相手にと考えてくださっている相手は、家格が高いだけでなく、女神のように麗しく、気品があり、懐が広く、これまで相手がいなかったのは神の悪戯でしかないような方らしいからな」
「……宰相はそんなことを言っているのか?」
今度は、何故か、宰相閣下からの俺の見合い相手への評価に、ライアンは困惑したようだった。
困惑している理由を聞こうとしたが、その前に、冷えから体が震えた。こちらの様子に気が付いたライアンが気遣わし気に聞いた。
「寒いか?」
平気だと答えたかったが、掛けられたのは随分と冷やされた水だったせいで、震えが止まらない。顔色も悪くなっているかもしれない。強がりはすぐに見抜かれてしまうだろうと観念した。
「準備のいいことで、冷たい水を準備していたみたいだ」
「とりあえず、濡れたシャツは脱げ」
「ヤダ」
「癪に障るのは分かるが、このままでは、更に体が冷えるだろう」
ライアンが言うことは分かるが、今、密室で、意識している相手と二人きりになっている。相手が自分のことを何とも思っていないのに、間違いを起こさないか、自分のことが全く信じられない。
でも、ライアンは強引にシャツを脱がせた。その時、俺の体が冷えていることに気付いたらしく、ライアンは自分のジャケットを脱ぐと俺に渡してきた。
「一先ず、これを着ろ」
ライアンから差し出されたジャケットを見た。ライアンの優しさからの行動だと思う。でも、これ以上、ライアンを近くに感じるのはまずい気がして、受け取れない。
「ヤダ」
「だから、我が儘を言うんじゃない」
ライアンは、無理矢理、ジャケットを俺に押し付けた。これ以上、拒否するのも変に思われそうで、仕方なく、ライアンのジャケットを羽織った。それで、知っているライアンの香りが強くなり、やはりどうしようもなく意識してしまう。
「……何で、こんないい匂いがするんだ」
八つ当たりで言う俺に、こちらの気持ちを全く分かっていないライアンは、的外れなことを言う。
「使っている香油を教えようか?」
「そういうことじゃねえ」
次の瞬間、くしゃみが出た。ライアンが更に心配そうにした。
「ジャケット一枚だけでは、まだ寒そうだな……」
「おい、まさか……」
「原始的だが、身を合わせるか」
ライアンが立ち上がり、こちらに近付いてくるのに、悲鳴のような声を上げた。
「止めろ、近付くな!」
「噂になることなら気にするな。私の名にかけて、どうにでもする」
「そういうことじゃないんだよ!!」
「温まったら離れる。大人しくしていろ」
抵抗しようとしたが、突き飛ばして、ライアンに怪我などさせてしまわないかと躊躇している間に、ライアンはこちらを正面から抱き込んできた。抱き締めてくるライアンの体は温かくて柔らかい。なんとか冷静になろうとしても、どうしても間近に感じるライアンから意識を反らすことができない。
――これだけ拒絶したんだから、放っておけばいいのに。俺が体調を崩すことを心配してくれているのだろうか。優しい。ライアンはそういう奴だよな。というか、やっぱり良い匂いだし、何だか思っていたよりふわふわして華奢だし、抱き返したらどうなるのだろう。いや、妙な気を起こすな。意識しては駄目だ。
でも、こんなの意識しないとか無理だろう……!!
こちらが血迷わないよう、必死で感情を抑え、身を固くしているのに、ライアンは、何を思ったか抱き締める手を強めてきた。
それで、頭がカッと茹だった。
「……ん?」
ライアンが何かに気付いたように、こちらの股間部を見た。そこは、興奮で膨れていた。そして、ライアンは、困惑と共に、俺の顔を凝視した。
こんな形で、とうとう気持ちを知られてしまったことに赤面しながら、自棄になって言った。
「くそッ。軽蔑するならしろよ!」
アーバスノット伯爵家の長男、ナッサウ子爵家の長男、ウィンルド侯爵家の令嬢を思い浮かべ、怒りに震える。あいつらは、絶対に許さない。
でも、憧れだなんて言葉でごまかしても隠しきれないくらい、心に思う人がいるのに、見合い相手を紹介してもらおうだなんて、宰相閣下にも、これから紹介いただく女性にも、俺は不誠実ではなかっただろうか。
何より、ライアンはどう思うだろうか。友人面して付き合ってきた俺が、それ以上の感情を持っていた、なんて。
しばし俯いた後、ライアンの目を見て、苦しくも吐き出した。
「……気持ちは隠し通すつもりだったんだ。でも、本当はお前が好きだ」
目を見開き、こちらを見つめるライアンが目に入り、再び、そっと目を伏せた。
「分かっただろう。離れろ。お前にこんな想いを抱えた奴が側にいたら気持ち悪いだろう……」
自分のせいなのに勝手だと思いながらも、ライアンとはこれまでと同じようにいられないと思うと、寂しかった。
しかし、俺の告白を聞いても、さして慌てることもなく、どちらかというと浮かれた声で、ライアンが口にしたのは思ってもいないことだった。
「……いや。割と、というか、かなり嬉しい」
「は?」
一瞬、ポカンとしたが、すぐに冷静になった。ライアンに告白して来た女子生徒たちのように、『想いには応えられないが、気持ちは嬉しい』なんて振られるのだろうと思った。
しかし、ライアンはこちらが思いもしなかった発言を更に続ける。
「近いうちに、こちらからお前を口説くつもりだった。予定より早めるだけだ」
「え?」
俺の聞き間違いかライアンの勘違いを疑うが、本気らしいライアンは話を詰めてくる。
「確認するが、お前、私の性別に拘りはないな?」
「な、ないけれど……」
状況が理解できず、慌てふためき、目を彷徨わせる。ライアンは嘘を吐くようなやつではないと思うと、本気なのかもしれない。うっかり信じかけたが、視線を彷徨わせたことで、一つ気が付き、反論した。
「いや、嘘だろう! 慰めようと変なことを言うなよ。だ、だって、お前は……」
下世話だと思う自分もいたが、それ以上の証拠はなく、全く何の変化もないライアンの股間を示した。男なら、本当に好きな相手とあの距離で触れあって、平静でいられずはずがない。
でも、ライアンは慌てるでもなく、ただ苦笑した。
「ああ、これは仕方ないんだ」
慰めなのか、冗談にしようとしているのか、ライアンが何を考えているのかは分からない。でも、ライアンの狙いは分からなくても、とにかく真に受けてはいけないと顔を逸らした。
しかし、ライアンは俺の顎を指先で掬い上げると、無理矢理、目を合わせてきた。
「本当のことを話そう。お前の悩みは解決するはずだ。いや、新たな悩みを増やしてしまうかもしれないが……」
ライアンは優しく微笑んでいるが、黒い瞳の中にある青さに目を引かれる。かつてないくらい間近に、想う相手の顔があるのを実感する。そして、知ってはいたけれど、顔が良い。更にダメ押しのように、ライアンの纏うどこか神秘的な色気に当てられる。
こんな状況で、まともな思考など働くはずがない……!!
「この体勢を止めろ。さっさと言ってくれ!」
こちらの狼狽をどういう気持ちで見ているのか、ライアンは心弾む様子で口を開いた。
「では、私の本名をお前に伝える。『アリーシャ・ライアン・ハムレット』という」
これまで教えられていたのは、偽名だったのかと驚いた。でも、それよりも気になることがあった。ライアンが口にした名字には聞き覚えがあった――
「ハムレットというと……王家の……」
しかし、ライアンとこの国の王家にどう関係があるのか。本当は外国公爵家の私生児ではなく、この国の王家の私生児だとか。それとも、母親がこの国の王家の関係者で、この国の王家に養子に入るとか。王女殿下と結婚している……は流石にないか。
考えを巡らせる俺に、ライアンは、他に答えはなく、さも当然であるかのように言った。
「そう。私がこの国の『王女』だ」
これ以上はないと思っていたのに、更なる衝撃に、微動だにできなくなった。
それでも、改めて思い出すと、先ほど触れた自分より小柄な体は、骨ばっておらず、柔らかかった。目の前にいるライアンを見ても、中性的だと思っていた顔の造形は、女性らしい丸みがある。何より、可愛い。
中身と所作がそこらの男より凛々しいことで目がくらんでいたが、言われてみると、ライアンは完全に女性だった。
何故、この事実に気付かなかったのか――
『ライアンが女性』『しかも、王女殿下』『そして、両思い』
全ての事実が腑に落ちると、どうしようもなく、「わああああああああ?!」と絶叫した。
この後、見計らったようにすぐのタイミングで、本当に王女だったらしいライアンの護衛が小屋のドアを破り、ライアンと俺は助け出された。
王女殿下の正体は、卒業の際に発表予定だったが、ライアンは予定を早め、その後すぐに、全てを詳らかにした。
卒業式後のダンスパーティーで、ライアンは、王女『アリーシャ・ライアン・ハムレット』として、銀色の刺繍をふんだんに施した、艶のある紺色のドレス姿で参加した。独特のミステリアスな雰囲気はそのままで、装いを変えただけなのに、女性らしさを感じさせるもので、当然、大いに注目された。
更に、ライアンは、『ライアン・ハイデルベルク』であったときの男装もして、多くの女子生徒をエスコートし、黄色い声を浴びていた。
アマレッタ様は少し呆れたように、カラー様は無邪気に笑い、普段とは違う表情で、ライアンと共にダンスを楽しんでいた。お二人は、幼い頃から、ライアンの正体を明かされた、数少ないライアンの友人であったらしい。
ライアンは、美しく着飾った女性をスマートにエスコートして、やはり、会場の誰より格好良かった。そして、楽しそうな姿が愛おしかった。
なお、ライアンが王女であることが知れ渡った後、アーバスノット伯爵家の長男とナッサウ子爵家の長男は、家を継がないことが決まっている。
そして、宰相の仲立ちにより、ライアンと俺は婚約を結び、卒業後、結婚した。
結婚式を挙げた日の夜、王宮にあるライアンの部屋に向かった。ノックをすると、入室の許可が出た。これから初夜だ。
緊張しながら、ドアを開けると、絹ででき、レースが縁取られた淡いバイオレットのネグリジェを纏ったライアンがいて、心臓が更に大きく跳ねた。
「未だに信じられねえ。結婚できてしまった……」
「実は王家は、代々、恋愛結婚を推奨されているんだ。配偶者だけは好きに選んでいい。ただし、他はすべて国に捧げる」
「そんな相手が俺でいいのかよ……」
「無論だ。お前がいい」
そこまで言われる価値を自分に見いだせず、ドアの前から踏み出せない俺に近付き、手を頬に添えた。
そこで目の前のライアンがいつもより小さく、視線を下げないと目が合わないことに気付き、驚いた。
「お前、こんなに小さかった?」
「身長はそんなすぐに変わらないが。でも、そう言えば、学園にいる時は、靴の底を上げていたし、王女と明かしてからも、高いヒールを履くようにしているからな」
言われて、ライアンの足元を見ると、柔らかい革でできたスリッパを履いていた。髪は卒業後に伸ばし始め、セミロングの長さになっている。これまでとは違った姿に、この子の一番傍にいられるのは自分なのだと実感が湧き上がる。
感動で胸を苦しくしていると、俺を見て、ライアンはワクワクした様子で、豪快にネグリジェを脱いだ。
「よし、するか!」
「わっ……!」
目の前に無防備な姿が現れたのにどうしようもなく、気持ちを少しでも落ち着かせようと、顔を手で覆った。そんな俺を見て、ライアンが不思議そうに聞いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない……」
しかし、こちらの内心を全く分かっていないライアンは、見当違いなことを言い出した。
「そうか。たわわとは言い難いが、乳房もついている。やはり女だと思い知って、違和感があったか……」
力いっぱい、ライアンの懸念を否定する。
「違う! 逆だ。やばいんだよ。頭がおかしくなりそうなくらい、可愛い」
「は? どう考えてもそこまで可愛くはないだろう」
やはりライアンは怪訝な顔をしていて、こちらの感動は全く伝わっていないらしい。ライアンを寝台に連れ込んだ。
「存在が愛おしいんだよ。お前のこと、どれだけ好きだと思っているんだ。俺はな、性別の壁だって、超えたんだ」
「超えていない。勝手に超えた気になるな」
「あんなもん、超えたも同然だろう」
埒が明かないと、まだ反論しようとするライアンを押し倒し、口付けた。
柔らかな感触にゾクゾクした。うっすらと目を開けると、ライアンも心地よさそうに目を瞑っていた。
その表情に、悪戯心が湧き上がり、舌を入れてみた。
「んっ……!」
可愛い反応に満足して、唇を解放する。
「ここから先は、やられっ放しじゃないからな。覚悟しておけよ」
俺の言葉を聞くと、ライアンは楽しそうに小さく笑い声を漏らした。こんな時でも、ライアンは泰然と構えている。
「……余裕そうだな」
ライアンは苦笑した後、優しい眼差しでこちらを見た。
「そんなんじゃない。でも、何でもいいよ。好きにしてくれ。お前は、どんな私でも受け入れてくれるんだろう」
目を瞬かせた後、それが信頼からだと分かると、どうしようもない気持ちになった。
こんなの、期待を裏切れない――
繊細な宝物に対するように、ライアンに触れ、身も心も結ばれた。そして、気恥ずかしくなる甘い雰囲気の中、二人で寝台の上に寝転んだ。
そこで、ふと、何かが目に入ったらしいライアンが、窓の方を向きながら、起き上がった。
「何をしているんだ?」
俺の質問に、ライアンは上機嫌に答えた。
「先祖に感謝と誓いを捧げようと思って。お前に会えたこと、そして――」
「おい、待て!」
話の途中だったが、ライアンが見た窓の先には、歴代の王族も眠る大聖堂がある。それなりの付き合いとなり、ライアンが何をしようとしたのか察することができてしまった。それで、慌てて、ライアンを止めた。
手早く服を着て、ライアンにショールを被せ、一呼吸ついた。
目の前のこの人が、誰よりも格好いいのは知っている。自分自身の幸せより他の為に尽くす人生になることも、想像に難くない。そして、この人は、それを受け入れている。
――それでも、俺にも格好をつけさせてほしい。俺にも関わらせてほしい。幸せにしたい。
ライアンのように神殿に向かってではなく、目の前のライアンに跪き、誓う。
「私を選んでいただきありがとうございます。国のために生きる貴女を、私の生涯を掛けて、幸せにします」
こちらの思いは届いたらしく、ライアンは満ち足りた笑顔を見せ、それにこちらも笑った。
「あぶねえ。いいところが一つもなくなるところだった。見せ場を全部、奪っていくなよ」
ライアンは、初めて見るはにかんだ笑みで、言った。
「王女だと分かる前から私を見つけてくれたお前は、もう十分、格好いいよ」